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第55話 世話
レイは、ノックの音で跳び起きた。クラウスの顔を見ると、まだ苦悶の表情を浮かべて眠っている。クラウスからそっと離れ、シーツをかけ直してからレイは静かにドアの前まで移動した。
「どなたですか?」
レイが小さく声をかけると、「アルです」と答えが返ってきた。
「昼食の時間となりましたので、お声をかけさせていただきました」
レイは戸惑いながら、眠るクラウスの方に視線を移した。
昨日の夕方から今日の午前中まで、休みを入れつつも調律スイッチが入りっぱなしのあの男に、レイはとうとうキレてしまった。フェリンブル伯爵家の私兵やフォルトンに使った昏倒剤を噴射し、ようやく眠りに落とした男は、恐らくまだ起きないだろう。
レイは薄くドアを開けて、廊下に立つアルを見上げた。きちんとした身なりのアルが、部屋の主であるクラウスではなく、寝間着姿で、ぼさついた髪のままのレイが出てきたことに少しも嫌な顔を見せず、柔らかい笑みを浮かべてレイを見てきた。
「すみません。クラウス、やっと寝たところなので……せっかく用意してもらったのに申し訳ない」
そう声をかけると、アルの目が一瞬見開かれ、ほっとしたように胸元に手を添えた。
「……やっと、寝てくださったんですか」
その一言で、レイはこの一か月間、屋敷で働く心優しき使用人たちが、どれくらい彼のことを心配していたのかを知った。ただ、寝てくれたというよりは、寝かせた、とか、昏倒させた、の方が正しいという事実は、少し申し訳なくなった。
「レイ様は、いかがなさいますか?」
アルにそう問われ、レイは少し迷った。クラウスと相性のいいレイの魔力で作った魔法薬で寝かせたので、効果については心配していないが、逆に副作用が強く出て想定より早く起きてしまう可能性もある。
「申し訳ないですが、こちらに運んでいただけますか? それと、クラウスが起きた時、吐き気が出てるかもしれません。食べないかもしれませんが消化の良さそうな、甘酸っぱい果物を持ってきていただけると助かります」
高確率で吐き戻すだろうが、と心の中で付け加えた。
「長期間、充分な睡眠を取れていなかったことにより、体を回復させるために必要だと思っていただければ。……夕食も、病人食のつもりで大丈夫です。後で庭師の方に採っていただきたい薬草のリストをお渡ししますので、調達いただけるとありがたいです」
「わかりました。そのように手配します」
アルがちらりと、ドアの隙間から一瞬ベッドの方に視線を送ったので、レイも振り返ってクラウスを見た。昏倒剤の副作用である吐き気と頭痛が出てきたのか、苦しそうに眠っているクラウスを見て、レイは苦笑した。
「明日には、元気になります。重ねて心配かけますが、よろしくお願いいたします」
そう伝えると、アルはにこりと微笑んで、レイを見つめた。
「このような形で恐縮ですが……屋敷一同、レイ様のお帰りを待ち望んでおりました。どうぞ、クラウス様をよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げるアルに、レイはどう声をかければいいか分からなかった。迎え入れてもらえたという事実に、胸の奥がじんわりと温かく、くすぐったい気持ちで満たされた。
「こちら、こそ、よろしくお願いします」
戸惑いながら、レイははにかんでそう答えた。
レイは朝食が運ばれてくる間に、身支度を整えようと昨日脱ぎ捨てた服を探すと、ソファの背もたれにかかっていた。服に洗浄魔法をかけ、袖を通す。以前着ていた服がおそらくクラウスの衣装部屋にあると思うが、部屋の主が起きていないのに覗くのは少々憚られた。押収品の中からデリンの隠れ家に置いてあったベストを羽織り、ループタイを締めた。髪を低い位置で一つにまとめ丸く結い、午前中にクラウスが衣装部屋から引っ張り出してきた姿見で自身の姿を確認する。押収品のミニドレス姿の自分ではなく、当たり前だが普段通りの姿が鏡に映る。
午前中に届いた、デリンの隠れ家とホノの部屋の押収品を見て、レイが潜伏期間中にしていた服装を目の当たりにしたクラウスは、嫉妬にかられ、お世辞にもたおやかとは言い難いそのドレスをレイに着せて調律に入った。第二戦にそのまま入ろうとしたクラウスに、眠さに負けたレイがキレて昏倒剤の使用に至ったわけだ。
この貧相な体に欲情するような稀有な性癖の持ち主がそうそういてたまるか、とも思う。ただ、もうそんな肌の露出が多いような服装はしないし、情報収集のためだからと言って身の危険を顧みない行動はしないと先ほど誓い、許しを得たのだから、もうこんなことは起こらないだろう。
とりあえず衣服に乱れがないことを確認して、広げた押収品を簡単にまとめた。――クラウスが寝ている間にドレス類は灰にしてしまおうか、とレイは密かに思った。
押収品の中から自分の鞄を引っ張り出し、中身に過不足ないことを確認してからメモ帳とペンを取り出す。レイは、レーヴェンシュタイン公爵家の庭園に植えられていたものを思い出しながら、薬草のリストを書き始めた。
「今回置き換えた副作用の吐き気には、本当ならモラリン苔がいいが……ミルヴァの静葉で代用するか。血管拡張による頭痛はセリアの香花でいいとして、胃の不快感はどうやって取り除くか……吐き気がある時にあまり強い匂いが出るようなものは使用したくないな」
考えながら、また即効性のあるもので作るとなると、すぐに飲むから瓶まではいらないか、なら綺麗なマグカップがあればいいか。と、リストにマグカップと付け加えた。
そんなことを考えていると、再び控えめにノックがされた。レイはクラウスに視線を向け、起きていないことを確認してから静かにドアの前まで移動した。
ドアを開けると、アルがティートローリーにレイの分の昼食と、クラウス用の剥かれた果物を乗せて入ってきた。座って食べられるテーブルセットが置かれていないので、ソファのローテーブルに昼食が静かに並べられる。野菜のポタージュスープはクラウスの分もあったが、恐らく飲もうと思った頃には冷めてしまっているだろう。
レイはアルにお礼を言って先ほど書いたリストを手渡すと、アルは恭しく頭を下げて退室していった。レイはそのままベッドに近付き、クラウスの顔をそっと覗き込んだ。先ほど覗いたときよりも気持ち悪さがあるのか、額に汗が滲んでいる。サイドテーブルに用意されていた水差しから洗面ボウルに少量水を注いで、タオルを濡らして絞った。クラウスの額を押さえるようにそっと汗を拭っていると、眠っているはずのクラウスから魔力が漏れ出し、レイの手首に絡みついてくる。無意識下でさえ、レイを求めてさまよい始める魔力に、一抹の不安を感じた。
クラウスは、今どんな夢を見ているのだろうか。乾燥エルヴァンローズのもともとの副作用である悪夢は、完璧に除去できたはずだ。それとも副作用関係なく、この男は夢の中でさえ、レイを探し回っているのだろうか。
「……クラウス。俺はお前の隣にいるよ」
レイはクラウスの手を握った。魔力を意識して多く放出し、クラウスの体にただ纏わせていく。普段クラウスが無意識に行うこれを、レイは意識して行った。クラウスの魔力が反応して、レイの魔力に擦り寄ってくる。離したくないとレイの体全体を包み込み、やっとクラウスの顔の緊張がゆるんだ。夢の中へ介入なぞできないが、魔力が魔法使いに与える影響は大きい。夢の中でも、レイを見つけてくれただろうか。
結局、レイが昼食に手をつけたのは、野菜のポタージュがすっかり冷えてしまった後だった。
クラウスの小さく呻く声が聞こえて、レイは目を覚ました。どうやら、眼鏡をかけたままクラウスの隣で眠ってしまっていたらしい。時計に目をやり時間を確認すると、もうそろそろ夕食の時間だった。覚醒した頭でクラウスを見ると、体を起こしたはいいものの、体調の悪さのせいで起き上がれないようだ。
「クラウス、無理するな」
レイはサイドテーブルから空のボウルを素早く取ると、クラウスに差し出した。
「吐きたかったら吐け」
クラウスはボウルを抱えるが、小さく首を振った。呟くように「そこまでじゃない」と力なく答えが返ってくる。枕をクッション代わりに背を預けるクラウスに、レイは手を差し出した。素直に手を添えてくるので、そっと解析魔法を行使し、体の炎症反応がないかを確認した。
「炎症は無い、か。気分は?」
「油断していたら天使に後ろから刺されたような気分だ」
「……それは災難だったな」
よく分からないクラウスの比喩表現に、レイは首を傾げながらそう言うと、じっと重たい視線を向けられた。レイは視線を外して症状をメモしていく。
「吐き気、頭痛、他には?」
「レイ不足」
「それだけ軽口が叩けるなら大丈夫だな」
レイはさらりと冗談を流して、広いベッドの上から降りようとした。不意に後ろから手を掴まれてクラウスに向き直ると、血色の悪いクラウスがすがるようにこちらを見ていた。
「……怒っているか?」
クラウスがそう言うので、レイは口を曲げた。何も言わずにそのままクラウスを見続けると、ばつが悪そうにクラウスは目を逸らした。その姿に、レイはため息を一つ吐いて、こう言った。
「副作用はあれど、眠れて少し体は楽になっただろう? 調律したからといって、疲労がなくなるわけではない。ちゃんと寝ないと今度から調律しないぞ」
クラウスの視線がそろりとこちらを向く。レイは腰に手を当てて、胸を張って言い切った。
「俺の隣なら、眠れるんだろう? なら、朝まで安眠枕にでもなってやるよ。枕は逃げないから安心しろ。……レーヴェンシュタイン家の皆が、心配している。さっさと元気になれ。……ったく、世話の焼ける奴め」
そう言い捨てて、レイは今度こそベッドから降りた。クラウスが力なく自嘲気味に笑う。
「この体調の悪さの原因にそれを言われるとは」
「自業自得だ」
いけしゃあしゃあと言ってのけて、レイはドアの方に向かった。
「調薬してくる。ここじゃ、できる場所がない」
「何が必要だ?」
そうクラウスが言って、ベッドサイドにあった小さなベルをリンと鳴らした。その音は小さいながらも耳の奥に響き、強く余韻を残した。おそらくベルに魔法機構が施されており、ある程度の範囲までその響きを届けるような仕組みになっているのだろう。きっともうすぐアルがくる。ここで調薬してほしいと言わんばかりの行動に、レイは肩をすくめた。
「薬草の手配は依頼した。あとは、作業しやすいようにある程度の高さのテーブルがあればいい。調合台は、ここにあるしな」
そういって、自分のループタイを持ち上げて見せた。
「本当なら、吐き気用の薬には、匂いの分離をして有効成分だけを抽出してから行うのがベターなんだが、簡易調合台じゃちょっとそこまではできないかもしれない。匂いで吐き戻さないでくれよ?」
「君の調薬を戻すような勿体ないことを、私がすると思うか?」
「……逆に無理をさせそうで恐ろしいな」
そんなやり取りをしていると、部屋にノックが響く。クラウスが出ようとしたので、それを制止してレイが小走りでドアに駆け寄った。ドアを開くと、起きているクラウスを見てアルが表情を変えずに恭しく頭を下げた。
「おはようございます」
「……おはよう」
アルの挨拶にクラウスがおずおずと返した。アルの顔がぱっと上がり、嬉しそうな驚きの表情を湛えていた。その反応に、レイは諜報部の面々がクラウスの人間らしい反応を見た時と同じものを感じて、やれやれと息を吐いた。
クラウスがアルに調合できるようにテーブルがいる旨を伝えると、すぐに部屋から出て行った。その姿を見送るクラウスがどこか気落ちしたような顔をしていて、レイは声をかけた。
「……まだ、難しいか?」
レイがそう言うと、クラウスは意図を測りかねたのか、こちらに視線を移すだけで何も答えなかった。レイはそっとベッドに腰かけて、クラウスを見る。
「ここは充分、お前の『居場所』だ。皆に頼ると決めたのだから、歩み寄ろうと自ら行動するのは、とてもいいことだと思う。……タールマン様の教えには沿わないかもしれないけど」
レイは、シーツの上に出ていたクラウスの左手に、そっと自身の左手を重ねた。
「皆、お前を心配していたのは、お前が雇い主だからじゃないぞ」
それを聞いて、クラウスは自嘲気味に微笑むと、ぽつりとこぼすように話し始めた。
「……疑問に思わなかったか? 使用人が全員、若い者ばかりだと」
レイは、心の片隅に置いていた疑問に触れられて、静かに頷いた。かのレーヴェンシュタイン公爵家の、王都フィルドンにある居住の管理を任されているにしては、経験豊富な従者が一人も見当たらないのは、やはり何か理由があったようだ。皆がきちんと教育を施されてはいるものの、『主人と従者』という線引きが曖昧なところがあるように思える。レイはむしろ好感を持っているところではあるが、そういったところを諭せる年長者が、このレーヴェンシュタインにはいない。
「長く勤めていた者は、父が臥せってから、ディートリヒが皆解雇した。自身の立場を確立するために」
静かに語られる事実に、レイは目を伏せた。クラウスが、使用人と一線を引く理由が垣間見えた気がした。
「今残っている者は皆、レーヴェンシュタイン公爵家の横暴さを見ている。新しく雇い入れた者もいるが、それはつまりディートリヒの息がかかっている者でもある。彼らが、本当の意味で私を受け入れるか判断するのは、私がきちんと後継者として指名を受けた後になるだろう」
クラウスの瞳がどこか遠くを見ている。レイはただそれを見ながら、どう声をかけていいか迷ってしまった。長く親しんだ者がいなくても、残ってくれた若い使用人たちを手放したくないと、レーヴェンシュタイン公爵家を守ろうと決めたこの男を支えようと決めたくせに、いい言葉が思い浮かばない。
「……一緒に、認めてもらえるように頑張らないとな」
そうぽつりと呟いてから、レイはしばし考えて「ん?」と首を傾げた。直前の言葉と合っていない仕草に、クラウスもレイを見た。
「いや、俺を頑張らせたかったら、まずクラウスに頑張ってもらわないと」
「? 何を?」
素直に聞いてくる男に、レイはにやりと意地悪く笑って見せた。
「プロポーズ」
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