68 / 69

第61話 請願

 クラウスにとっては、呪いの治療を行っていた期間があったので、正直“久々の休暇”という認識はほぼなかった。だが、レイが隣にいるというだけで心が満たされ、彼の体温を感じながら眠ると、一度も起きることなく眠れるようになった。実はクラウスの睡眠障害は、母親が死んだ日から続いていた。気絶するように眠っては、すぐに目覚める。それを繰り返すうちに、一晩が過ぎる。そんな日々だったのを、彼が変えてくれた。  レイは何も言わないが、彼に無理をさせていないかはいつも不安だった。レイは自分が何をしたいか、どうしたいのかをあまり言わない。いつも自分が求めて、それに応えてくれる。――ベッドの中でですら、ぽつりとこぼす程度にしか、彼は希望を言ってはくれない。  秘匿回線でルミアと通話を終えた瞬間、疲れたとベッドに横になって眠り始めたレイの顔を見下ろして、クラウスは小さく息を吐いた。秘匿回線での通話は、通話をかける側も受ける側も魔力の消費量が多くなる半面、傍受される危険性が低い。また、声に出さなくてよく、頭の中で思い描いた言葉がそのまま直接伝わるため、すぐ近くにいても、どんな内容で話をしているかがわからないという特性もある。  レイが寝苦しくないように、そっとベストのボタンを外し、サスペンダーを緩めた。ループタイを取り、きっちり上まで留められたシャツのボタンを外すと、先日自分が彼の鎖骨につけた赤い痕が見えた。途端に昂る欲をぐっと抑えて、クラウスはベッドから降りた。スラックスのボタンも外してあげた方がきっとよかっただろうが、流石にそこまでくると抑えられなくなりそうで、クラウスは目を背け、煩悩を振り払うように、そっと自身の通信魔法機器を開いた。  この通信魔法機器を作ったのも魔法技術部だ。魔法技術部の部長が考案した魔法機構を突破し、魔法技術部にスパイが侵入したということが分かったものの、何がどう盗まれたのか分かっていなかったのが、およそ3か月前。ディートリヒがレイを誘拐した日だった。そしてその後に起こったのが、クラウスがもともと使用していた通信魔法機器のハッキングだった。  もともとの仕様にはないにも関わらず、ハッキングされた場合に内密にエラー音を上げる機能を付けたのは、他でもないフェイラーだった。飄々として過信せず、抜け目のない性格だったが故に、魔法技術部の情報漏洩を浮き彫りにした立役者だ。  そのフェイラーに耳に、魔力回路の先天的な欠陥を持つレイが、マルキオン教授を助けるために行った調薬のことが届いてしまったのだろう。魔法技術部と諜報部は協力関係にあるため、有用と思われる情報については共有することになっている。ただ、レイのリミッター解除剤についてその作用を正しく認識している人間は、自分を含め諜報部にはいない。あの薬についてオリンとバネッサが行った報告の内容は、「レイが調薬前に注射器を太ももに押し付けた」ということのみ。中級魔法は発動できてもすぐに維持できなくなるにもかかわらず、ついてくる結果がそぐわないには何かしらの秘密がある。そう思われるのは致し方ないことだろう。  ――魔法技術部からもらった通信魔法機器では、魔法技術部に話が筒抜けになる。先ほどの通話でレイが「リミッター解除剤」という名前を出さなかったのも、そう判断したからかもしれない。だが、その可能性がある通信魔法機器を使って、わざわざ秘匿回線を使用し通話をするということは、『今から話す内容を魔法技術部が知っていたら、魔法技術部自体がこの通信魔法機器を傍受している』ということの証左となるからだろう。となれば、どんな会話がなされたのか、クラウスはその内容を聞くわけにいかなかった。自分が情報漏洩元だとレイに思われるようなことをしたくなかったのだ。  歯痒いな。クラウスは心中でそう呟きながら、通信魔法機器を覗く。もうすぐ約束の期日が来る。その時までに、クラウスは準備をしなければならない。――レイが気に入るようなプロポーズの。  休日三日目は、使用人を集め皆でお茶会をした。二部構成にして、和気あいあいと話す会とし、その際にお茶を淹れたのはレイであった。魔法でお茶を淹れる姿は、使用人一同驚きを隠せなかったようだが、一度に淹れる量が多かったため勝手が違い、「皆に淹れてもらえるお茶が一番美味しい」と苦笑しながらまとめる姿は、皆の笑顔を誘った。  空いた時間にクラウスはリエカに髪を整えてもらった。そのリクエストが「オールバックが似合うように」という注文だったことに、レイは思わず笑った。リエカがレイはどうするか尋ねると、レイは「もう少し伸びてからにする」と言って断っていた。きれいなウェーブがかかっている髪をいつも結んでいることを、クラウスは勿体ないと思っているが、レイに言っても「邪魔」の一言で片づけられることが目に見えているので口には出さなかった。  夕食から眠るまでの時間は、レイの足音を消すための風魔法の練習にあてた。むしろ驚きだったのは、まだ確立していない隠密魔法と身体能力向上魔法の魔法薬を実用段階まで引き上げていたことだった。「それでも穴だらけだ」というレイの謙遜は、クラウスに首を傾げさせた。魔法技術部がレイを欲しがる理由はここにもあるのかもしれない。レイにタールマンから課せられていたテストは、今思えば諜報部というよりは魔法技術部での受け入れを視野に入れていたように思える。 「実践は、やっぱり経験がものをいうな。感覚が全然違う」  練習後に二人で浴室へ行き、汗を流して湯船に浸かりながら、レイはそう言った。髪をタオルで簡単にまとめ、隣で首を回すレイの華奢な白いうなじと、一昨日自分がつけて、まだ消えていないキスマークを眺めていたクラウスは、レイのその言葉で目頭を押さえた後、自分の煩悩を振り払って答えた。 「いや、レイは飲み込みが早い。魔法の構成式の切り替えやアレンジによる結果をイメージするのが早いのだろう。小さい頃から日常的な所作に魔法を使ってきたルミアの教えの賜物だな。魔法を魔法として扱ってきた私と感覚が違うのは当たり前だ」 「その分、クラウスの魔力コントロールの精密さはすごいな。魔力を手足と同じぐらい扱えるじゃないか。あと構成式の組み上げから行使までの速さ」 「それについては……タールマンの教えだな」  クラウスは苦笑した。タールマンは苦手だが、純粋に尊敬していた時期もあった。彼のようになりたいという気持ちは、文字通り血の滲むような努力を支えていたと思う。それが結果的に、家族と距離を置くことになってしまうことになるとは、当時の自分には気付けなかったのが悔やまれる。 「レイは……明日からどうする? 大学は一応休みなのだろう?」 「そうだね。でも、たぶんそろそろ受験組は戻ってくる。もうそろそろ実技試験だから。補助に行ってやりたいけど……護衛が手配できない以上、諦めるしかないな」  レイはため息をついた。  今の状況は、レイにとっても本意ではないのは分かっている。研究が進まないというのもそうだが、彼にとっては居場所の一つだ。だが、レイが結婚を承諾してくれたとして、未来のレーヴェンシュタイン公爵の配偶者、所謂『公爵配』となったレイの安全を考えると、この一件が片付いたところで大学へ行くのは正直危険を伴う。 「クラウス」  呼ばれて、クラウスはレイを見た。青緑色の瞳がこちらをじっと見つめている。彼の目はいつもこちらの機微を拾おうとする意思を持って向けられ、クラウスはそれが心地よかった。 「俺、大学辞める」  衝撃の一言に、目を見張った。レイはこちらの反応を見て苦笑し、そのまま言葉を重ねた。 「勘違いするなよ? 研究は辞めない。マルキオン教授とも、実は話していたことなんだ。本当は助手として教授を支えながら研究させてもらう予定だったけど……ほら、あんなことがあっただろう?」  レイの瞳が陰った。レイの言う「あんなこと」とは、恐らくマルキオン教授を襲った爆破テロのことだろう。 「俺を狙うにあたり、周りを盾に取られたら、俺はもう何もできなくなってしまう。今回は、たまたま運が良かったから皆生きているだけで、今後はどうなるか分からない。あの人の下で学べることはもっとあっただろうけど、これからも研究には協力してくれるって言ってくれたから。先輩も、いなくなってしまうし……それで我慢する――」 「レイ」  クラウスはレイを抱き寄せた。風呂で温まった人肌は普段よりも熱く、レイの決心も相まってクラウスの心を焦がすのには充分だった。 「すまない。必ず、君の研究をバックアップする。それ以上の不自由をさせないと誓う」  レイは、クラウスの言葉にくすりと笑った。 「期待している。未来の公爵様」  その言葉を、クラウスは噛み締めた。自身の公爵としての資質を考えると、レイのことを支え、レーヴェンシュタイン領を運営するだけの経験も知識も足りない。考えなければいけない。全員が幸せになる未来を。  国王への謁見要請は、異例の速さを持って整った。午後にお茶を飲むような時間帯に、「今なら」と突然声をかけられる無茶ぶりはいつものことだ。諜報部であることが露顕しないように騎士服を用意していたため、すんなり国王の執務室に足を運べた。見張りに参上したことを伝えると、執務室と廊下の間にある控えの間に通される。そして、クラウスは中にいた人物を見て驚いた。 「……レイ?」  控えの間のソファに腰を掛けていたフロックコート姿のレイは、一度こちらから視線を外して苦笑すると、もう一度優しい光を宿した青緑色の瞳を向けてきた。 「どうやら、お互い考えることは一緒だったらしい」  その一言で、クラウスはレイと思いは同じであることを知って歓びに震えた。クラウスが控えの間に入ると、後ろで門番が扉を閉めた。監視がついているため、レイのすぐ隣に座るわけにいかず、クラウスは仕方なくレイの向かい側に腰かけた。 「……いつから考えていた?」 「喫茶店(カフェ)で炭酸飲料を頼んだあたりから」  レイの返答に、クラウスは一瞬考えた。レイが喫茶店に入ったのは三日前。クラウスと合流した際にはグラスの中身は空になっていたので、炭酸飲料を頼んでいたのかは分からないが、彼がディートリヒと話をした後であるのは間違いないだろう。 「その時、秘術官に頼んだのか」 「そう」  不敵に笑うレイに、ため息を吐く。 「……相談もなしとは」  そう言うと、レイはちらりと監視員を一瞥してから口を開いた。 「俺の個人的な我儘と言うのもあるし、余計な世話だと……言われたらどうしようかと。君は、命を狙われたわけだし」  ばつが悪そうに言うレイに、クラウスは苦笑で返した。自分がそんなことを言うと本気で思っていたのだろうか。レイの我儘など、過去我儘と呼べるものだったことなどないというのに。 「策はあるのか?」  クラウスの言葉に、レイは諦念を滲ませながら目を伏せ首を振った。クラウスも同調し、小さく頷きながら話を続けた。 「無理難題を吹っ掛けられるかもしれない」 「かもな」 「君にこれ以上の無理を強いたくない」 「そう言うと思った」  自分の言葉に何でもないように答えるレイを見て、クラウスの眉間に皺が寄った。額に手をやり、思わず俯く。 「レイ……次は何を犠牲にするつもりでここに来た?」  その問いに対する答えは返ってこなかった。王の執務室の扉が静かに開き、監視員から入るように言われる。レイの瞳がこちらを見て、にっこりと笑って細まる。――大丈夫だ。そう伝えてくるその瞳に、クラウスは内心で何が大丈夫なのかと毒ついた。  王の執務室は煌びやかな調度品に囲まれていたが、机は王自身の物と3人の補佐官の物しかなく、座って話をするような環境ではなかった。もともとそういうところではないので当たり前ではあるのだが。  こちらの挨拶を待たず、国王が補佐官に目配せをする。補佐官3人が立ち上がって退出するのを待って、国王は老眼鏡を外した。 「15分だ。タールマン」  国王が短く指示を飛ばし、姿が見えないが部屋の中にいるのだろうタールマンが静かに対傍受・防音結界を張った。張り終わった結界を見て、国王が重く湿ったため息をつき、椅子に深く座り直す。 「ここじゃ一服もできん。私の機嫌は悪いかもしれんぞ?」  そう言う国王の表情は、『どんな面白いものを見せてくれるのか』と期待に満ちていた。この表情をしている時の国王は、非常に面倒くさい。クラウスがこの後の話し合いのもつれを予感した、その時だった。  視界の端に白色のローブが現れる。ぱっとそちらを向くと、タールマンが姿を現した。その行為に、国王自身が驚き目を丸くしていた。  タールマンが国王との間に立ちはだかるような形で歩を進め、レイにじっと視線を送った。それに一歩も引かないと強い意思を持って見つめ返すレイの姿は、非常に気高いものを感じた。ほんの数秒の間をおいて、タールマンが小さくため息をついて、くるりと踵を返し、国王へ向き直った。 「ケイジン、私からもお願いしたい」  タールマンが発したその一言は、この場にいる誰も驚かせた。 「正直、この馬鹿弟子が、上手い事やっていける気がしませんからね。そうすると、国が荒れます」  辛辣な一言が襲い掛かる。だが、正直ぐうの音も出ないほどに正しい発言で、クラウスは表情に出さないことだけで精いっぱいだった。 「お願いします」  レイが視界の端で頭を下げたのが見える。クラウスは国王を一度見てから、頭を垂れて口を開いた。 「我々被害者一同、ディートリヒ・フォン・レーヴェンシュタインへの温情をお願いしたく、参上いたしました」

ともだちにシェアしよう!