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第71話 あるいは未来の自分
ザルハディア王国の領土には、広大な深い森がある。まるでその森の番人をするかのようにエルフの集落が点在し、その奥へと人を進ませないようにしていたという。それは、森を守るという意味よりは、“侵入者を守る”という意味合いの方が強かった。森の奥にはアースドラゴンの住処がある。アースドラゴンは発情期を迎えると気性が荒くなり、天災と称しても過言ではないほどの被害をもたらす。いつやってくるか分からないその発情期に巻き込まれないよう、細心の注意を払いながら、エルフたちは森と共に暮らしていたという。
レイは税関を出て、辻馬車乗り場の待合室に掛けられたエルフとアースドラゴンの絵を眺めながら、クラウスの肩を借りてぐったりと座っていた。吐くほどではないが、胃の中がひっくり返りそうなほど気持ち悪い。テロ予告の影響で比較的空いていた税関の待ち時間を含めても、ザルハディア王国へ降り立ってからすでに一時間は経過している。にも関わらず、レイは酷い転移酔いに苛まれていた。
「いやぁ、すごいじゃん。吐かなかったんだから」
マルキオン教授が、レイの様子を見ながら笑うのを堪えつつ言うので、レイは力なく笑みを浮かべた。
「……そうですね、前回までは、吐いてましたもんね」
そう言うと、クラウスの魔力が心配そうにレイの背を撫でた。相性のいいクラウスの魔力に触れていると、それだけで気分は軽くなる。――回復にはもう少し時間がかかりそうではあるが。
レイはため息を吐きながら、税関に提出した武器の持ち込み申告書を受け取った職員の表情を思い出した。テロ予告がされている国に、冒険者が武器を持ち込むことを考えたら、それは確かにいい気分ではないだろう。ただ、一緒に提示した冒険者登録証を見た途端、職員の愛想がよくなったことに対し腹が立っていた。護衛のクラウスに対してではなく、魔法薬士として登録している自分にだけである。そして、クラウスがそれを平然と受け入れていたことも気に食わなかった。こんなことが二週間も続くのかと思うと、気が重い。
「……クラウス、分かってると思うが、なるべく魔術師だとバレるなよ」
小声でそっと伝えると、クラウスは小さく頷いた。
人々は、継智の塔を見上げていた。ざわめく群衆に警備員が「下がって!」と声を荒げているのが聞こえる。遠巻きに塔を仰ぎ見る人々の目は、その文化的価値のある塔に酔いしれることなく、最上階にある展望台の一点に釘付けとなっていた。――レイ達も、漏れることなくその一員であったが、至って冷静にそれを見上げていた。
ピトル広場で購入した搾りたて果実水の入ったカップを片手に、レイは口を開いた。
「あの高さから飛び降りて、死ねますかね?」
展望台の柵を乗り越え佇む男性の姿を視線で指し示しながら、レイは隣にいるマルキオン教授に問いかけた。
「どうかなぁ。六階建てでしょ? 一フロアが高くて三メートルと仮定して、約十八メートル」
「空気抵抗を無視した場合、地面への到達速度は大体時速七十キロメートルぐらいでしょうか」
「となると、実速度はそこまで出ないわけでしょう? 首から落ちない限り難しくない?」
「ザルハディア王国の魔法医が即座に治療開始したとして、命は助かっても体の自由はなくなりそうですね」
そこまで言い切ってから、レイはカップに口をつけた。転移酔いは流石にもう治まっているため、甘酸っぱい果実の味と香りが口いっぱいに広がって心地よい。ただ、どろりとした触感がずっと舌先に残っており、それだけが少しいただけない。
マルキオン教授は、手で目元に傘を作りながら小さく見える男性を見つめ、盛大にため息を吐いた。
「彼は一体何に悲観してあんなことをしでかしたんだろうねぇ」
すると、レイの後ろに立っていたクラウスが小さく答えた。
「事実かどうかは分からないですが、周りの声を聞く限り、どうやらパトロンに捨てられたようです」
「あー『囲われ薬士』の末路か……どこの国でも一緒だねぇ」
二人の会話を横で聞きながら、レイは眉を顰めた。魔法薬士がパトロンに囲われる主な理由は、魔力相性にある。魔力相性がいい魔法薬士が調合した薬の方が効きが良いことから、手元に置いておきたい金持ちはごまんといる。その囲い込みは、魔法薬の研究にかかる膨大な研究コストを支えるため、研究熱心な魔法薬士にとっては拠り所となるのはもちろんだが、一番の問題は、魔力相性の良さが恋愛感情を後から引き寄せてしまうことにある。より魔力相性のいい魔法薬士が見つかった場合に、パトロンの魔力は新しい魔法薬士に惹かれ、前任者は簡単に職と恋人を失うことになる。その喪失感は、計り知れない。
「なんか、揉めてません?」
「揉めてるねぇ」
おそらく説得しようとしている相手に、声を荒げている姿が見て取れる。これは、うっかり足を滑らせて真っ逆さまという未来もありそうだ。
「さて、レイ君ならどうする?」
マルキオン教授が不謹慎にも面白そうに笑みを浮かべながら聞いてきた。レイは片眉を跳ね上げながら、苦笑しつつ口を開いた。
「落ちた場合の対処法です?」
「ですです」
笑顔の圧を感じながら、レイは小さくため息を吐いた。
浮遊魔法は、生物には使えない。倫理的にというよりも、操作による人体への影響や、意思を持った動きに合わせる困難さから、そもそも発動しなかったり、発動しても事故が多かったことから禁止されている。絵本に出てくる『魔法使いが箒にのって空を飛ぶ』というのも、浮遊魔法がかけられた箒に魔法使いが跨っていることになるが、自身の体重を支えるだけの魔力消費は激しく、現実的にはまず行われない。
「長く見積もっても着地まで二秒間しかないですよ。できることなんて限られてます。あらかじめ落下地点に細工をしておくか、もしくは水牢――」
言葉を待たずして、強風にでも吹かれたのか男の体勢が崩れた。群衆から悲鳴が上がる中、レイを含め三人の魔力が瞬時に練り上がり、魔法は行使された。男性の足が展望台の床から離れると同時に展開された魔法は、水魔法だった。三つの大きな水塊が宙に浮かびあがる。それは男の落下する軌道上に出現し、一つ目の水塊に男の体がざぶんと飛沫を上げながら沈み込んだ。一つ目の水塊では落下スピードは殺し切れず、男の体は二つ目の水塊に突入し、地面すれすれで浮いていた三つ目の水塊に到達したときに、やっと男の体は水の中に留まった。
周囲から歓声があがる。レイはその緊張から汗を噴き出しながら、魔法を解除した。ずぶ濡れの男の体が尻もちをついたように地面に落ち、大きく咳き込んでいるのが見える。
「……いやぁ、危なかったね」
マルキオン教授も、大きく息を吐きながら額に滲む汗を拭った。レイも肩を丸めながら、それに同意する。
「本当ですよ。あと、ちゃんと上から順に水牢魔法が並んだのが功を奏しましたね」
もともと水牢魔法は、初級の拘束用魔法だ。水塊に人を閉じ込め、水流によって顔以外の部分を水中に留めることで拘束するものだ。今回のように速度のあるものは、水流だけでは勢いを殺し切れず突き抜けてしまう難点があるが、クッション材としては優秀だった。
「まずレイ君が“水牢”ってワードを出さなかったら、できなかったね。それぞれ違う魔法で対処していたら、ここまで上手くはいかなかったと思うよ。……ちなみに一番上の水牢は誰?」
マルキオン教授の問いかけに、クラウスが小さく手を上げた。それを受けて、マルキオン教授が頷く。
「ということは、一番下がレイ君?」
「はい」
レイが眼鏡の位置を直しながら答えると、一瞬の間をおいて、マルキオン教授がにやりと笑った。
「ちなみにその順番にした理由は? せーので答えようか」
意地の悪い質問に、レイは鼻の上に皺を寄せた。
「せーの」
『背の順』
自分で答えながら、レイはその場で足を踏み鳴らした。けらけらと笑うマルキオン教授から視線を逸らすと、クラウスが微笑ましそうにこちらを見ていた。その視線すら癇に障り、レイは「先に行きますよ!」と声をかけてから継智の塔へと歩き出した。それに続くようにマルキオン教授とクラウスが少し間をおいて歩いていく。
「ああ言ったけどさ、水牢のしんがりはクラウスさんかと思ったよ」
不意に、マルキオン教授が話しかけてきたので、クラウスは苦笑した。どうやら呼称は「さん付け」で落ち着いたらしい。何も答えないクラウスに、マルキオン教授が続ける。
「だって、もし受け止めきれなかったら、落ちた相手のことを気にしてしまう子でしょう? そんなことを、貴方が彼にさせるかな? と思いました」
マルキオン教授の言葉に、クラウスは前をずんずんと歩いていく銀灰色の髪を見ながら答えた。
「レイは、しんがりを務めると判断しました。もしそうなってしまった場合に、怪我をさせたのは『魔術師でない方が都合がいい』でしょう。……この国では」
その答えに、マルキオン教授の眉が少し寄った。それをちらりと横目に見ながら、クラウスは続ける。
「なら、あとはファーストタッチが早ければ早いほど勢いは殺せる。発動の早さなら、恐らく私が一番早いと判断しました」
恋人に辛い思いをさせないためであることに変わりないのに、その判断の速さが、危機的状況をかいくぐってきた猛者のそれなのだろうと思い、マルキオン教授はさらに眉を寄せた。
「それに」
クラウスがさらに続けようとするので、マルキオン教授は目を丸くしながらクラウスを見た。レイを映す藍色の瞳が、何かを思い出したかのように少し細まる。
「彼は、この中で誰よりも水牢魔法を使ってきた魔法使いですよ。絶対失敗しません」
「水牢魔法を?」
訝しげにレイを見る。塔の入り口で振り返ったレイは、口を曲げながらこちらを見ていた。彼は根っからの魔法使いではあるが、水牢魔法を頻繁に使うような環境にいたとは到底思えない。
訳が分からないという表情を隠さないマルキオン教授に、クラウスは静かに告げた。
「彼の中では、お茶汲み魔法かもしれませんが」
その一言に、マルキオン教授は今度こそ首を捻ったのだった。
レイ達がザルハディア王国へ旅立った日からおよそ一週間後、北の大国との境にある霊峰ヘイムディンズの麓の村では、数年ぶりにドラゴンの咆哮を聞いた。一際大きな響きのあとに、連鎖するように次々と上がるうねりのような叫びを聞いた人々は、その場に膝をついて祈りを捧げた。
北の大国には、ドラゴン信仰がある。だからこそ、古くから伝わるこの咽び泣くような咆哮が、何を意味するのかを知っていた。――仲間の死。それを悼む儀式のようなそれに、参列するかのように膝をつく。どうか心安らかにありますようにと、祈りを込めて。
その咆哮を間近で聞いていたルミアは、ただ眉を顰めた。最初に咆哮を上げたのは、他でもないブルードラゴンの王、ヴェーゼルゴンであった。
「……何事?」
仲間の死を悼むそれであるのはルミアも知っていた。だが、誰も死んではいない。だからこそ余計にヴェーゼルゴンが取った行動が分からなかった。ブルードラゴン達がヴェーゼルゴンの咆哮に続くように叫ぶのを聞きながら、ヴェーゼルゴンに問いかける。そして、彼から発せられた怒りにも似た言葉に、ルミアは驚いて腰を上げた。
「アースドラゴン如きが……やってくれたな。我が愛し仔を喰らいおった」
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