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第77話 隔たり

 夕食を取っていないので、レイは日中ピトル広場で買った菓子を頬張りながら通信魔法機器を開いていた。ログを遡り、数年前に送られてきた報告メッセージを最後に、その人とのやり取り履歴は無い。  ――カーレン・フォーリォル。記憶の中の彼女は、パサついた長い紅蓮の髪で、殴られた頬の痕を隠すようにうずくまっていた。継智の塔とピトル広場の間にある小路からでは、道を遠く外れた木々の影で行われている会話の内容までは聞き取れない。男の怒声が幽かに耳に入る程度だった。そんな場所に、普通は勝手知ったる者以外が足を踏み入れることはないだろう。カーレンの婚約者の、油断が招いた結果だったとしか言いようがない。  レイがそんな場所に居合わせたのは、本当に偶然だった。その日はたまたま風が強い日で、レイはマルキオン教授が拝聴したいと言っていた研究発表が、塔の何号室で行われるのかを確認しようと、事前に送られてきた資料を歩きながら鞄から取り出した。止めていたクリップが緩かったのだろう。風で煽られた資料を追いかけて、レイは小路を外れた。  暗い木々の間を縫って、木の根に躓かないように歩く。そして、近付けば会話はおのずと聞こえてしまった。共通語ではなく、ザルハディア王国の言葉で話されるその会話を、レイがきちんと聞き取れてしまったことも、男の不運と言わざるを得ない。  揺れる木立の音と共に耳に入る不快な男の主張は、なんとも稚拙だった。――レポートが何故仕上がっていないのか。俺が留年したらどうしてくれる。将来の夫へ貢献する歓びを感じさせてやってるのに、反抗的な態度は――。  レイは、そっと二人に近付いて、ポケットの中にある記録機の録音ボタンを押した。本来は論文発表内容を録音して、文字起こしをするためにマルキオン教授が貸してくれたものだが、こんなところで使うことになるとは思ってもみなかった。つらつらと自身の悪行を仄めかす男の言葉を黙って聞いていた彼女が、ただ一言呟いた言葉に、レイは感心した。 「私が代わりを務めたところで結果に満足しない上、貴方が研究と偽って費やした研究時間を、他の女とのデートに充てているのは知っているの。もういい加減疲れたわ。返ってこない好意よりも、好きでもない研究に私の研究時間を取られることが」  自身の研究分野が好きでないと出てこない言葉に、レイの心が動いた。魔法薬士として、足を引っ張る蛆虫を許しておけなかった。 「……婚約者との逢瀬を邪魔するつもりは毛頭なかったんだが」  レイは木の影からそっと姿を現した。二人の視線が集中する中、レイは地面にうずくまっている赤い髪の女性に近付いた。 「なんとも賑やかな声が聞こえてね……いやはや感心するよ。わざわざ人の目を避けて、こんな木陰で行われた会話が、『互いの時間割』についてだなんて」  手を差し伸べると、女性はその手におずおずと手を重ねた。殴打されたのだろう頬を押さえていた手は熱く、レイは眉を寄せながら彼女を立ち上がらせた。ポケットからハンカチを取り出して頭の中で構成を整えると、水魔法を応用して畳まれたハンカチを軽く凍らせた。ぱきりと音を奏でてひんやりとした空気を纏うハンカチを、彼女の頬の高さで差し出す。こちらの意図が分かったのか、彼女は凍ったハンカチを受け取り、頬に当て始めた。  レイは男に冷ややかな視線を送った。 「ずいぶん、婚約者に『自分の将来だけ』を大切に扱ってほしいらしいな? まぁ、『レポートが間に合わない』なんて、それはそれは『ご立派な事情』があるんだろうが、他の女子とのお茶の時間まで、自分の『研究の一環』に含めてしまうなんて、なんとも『効率的』なご計画だ。――それにしても、『将来の奥方』に手伝いを強いて、自分は『お遊び』を『研究』と称するとは……なんとも『前衛的』なご発想でいらっしゃる。いやぁ通りすがっただけなのに、大変貴重な意見を聞かせてもらったよ」  ポケットから記録機を取り出し、軽く振りながら男に見せつける。 「つい、録音させてもらうぐらいには、ね」  男の肩が怒りに震えているのが見えて、レイはそっと記録機をポケットにしまい込んだ。彼女がぽかんとこちらを見ているので、レイはそっと彼女の背に手を添えて、小路の方へ誘導した。 「君が師事する教授へ、是非とも聞かせてあげたいぐらいだよ。それが嫌だったら、俺の気が変わらないうちに、正しい行動をとることをお勧めするね」  怒りに震えながらも、立ち尽くした男の姿を確認して、レイが彼女の後ろを歩き出した時だった。後ろから男の乾いた笑い声が響いた。 「は、はは! カーレン、お前も浮気してたんじゃないか! 二人でボクを嵌めようって魂胆だろう? そうじゃなければ、タイミング良くこんなところへ人が来るわけないだろう!」  呆れて物も言えないとは、こういうことなのか。自然と呆れ顔になりながら、レイは男の方を振り返る。だが、タイミングについては確かにそう取られても仕方がないぐらい良かったとは思う。 「なぁ、今までのことは水に流そう! お互い様じゃないか! な?」  カーレンは、どこまでも自分勝手なことを言い続ける男に一瞥をくれると、踵を返して小路の方へ向かって歩き出した。その態度が気に食わなかったのか、男が「おい!」と声を荒げながら詰め寄ってくる。 「無視するんじゃない!」  振り上げられた拳が彼女へ降ろされるよりも早く、レイはカーレンと男の間に身を滑り込ませた。ゴッという鈍い音と共に視界が回り、レイは簡単に地面に転がった。  ――これが、カーレン婚約破棄騒動の発端となる、なんとも情けない結末の出来事だった。そのあと、レイは救護室で目を覚まし、カーレンと共に治療を受けることになる。その時に彼女と連絡先を交換し、オルディアス王国へ帰国後、婚約破棄できたことの報告を受けた。ただ、その時のやり取りだけしか、手の中の通信魔法機器には入っていない。  何年も音信不通状態だった上、毎年行われる魔法薬学集会シーズンでも見かけなかった彼女に、レイはどうメッセージを送ったものかと、頭を捻りながら再び菓子に手を伸ばした。  次の日は、朝食を取ってからその日の日程を確認し、手配してもらった馬車に乗ってピトル広場に一番近い降車場で下ろしてもらった。オルディアス王国よりも湿度も高く、少々温かいとはいえ、夏を越えて間を置かず訪れた秋は、肌を刺すように冷たい風を吹かしていた。肩を上げながら震えて歩くマルキオン教授の隣を歩いても、高身長のマルキオン教授にとっては風よけにすらならないレイは、彼の革製の鞄を胸に抱えながら暖を取っていた。 「ほんっとに……学会がさ……こ、ここ、この時期にあるのは、毎年のことながら、許せない」  寒さに震える唇で、マルキオン教授が声を詰まらせながら愚痴をこぼした。もしかして、マルキオン教授が魔法医の学会シーズンが夏なのを羨ましがるのは、社交界シーズンと被るからではなく、単に寒くないからではないだろうか。そんな考えが頭を擡げるも、どうでもいいか、と思考を止めた。  まだ店も開いていないピトル広場を抜け、雑木林を開くように整備された小路を歩きながら、学会会場である継智の塔を仰ぎ見た。晴れた青空が下ろす澄んだ冷たい空気をものともせず、時代と共に修繕を繰り返しながらも、継智の塔はその存在感を見せつけるように聳え立っている。 「早く行きましょう。塔の中は空調が効いているはずですから」 「素晴らしい案だね。そこに行くまでにまだ歩かなきゃいけないということ以外は。可能なら着いて早々ホットワインでもいただきたいところだよ!」  土台無理な要求を最後に付け加えて、マルキオン教授はレイの提案に乗り、足早に進み始めた。レイは苦笑しながらその半歩後ろをついて行く。 「お茶と言わないところが、教授ですね」  そうマルキオン教授に軽口を返しながら、自分の後ろを黙ってついてくるクラウスを見た。普段なら明るい日の光の下で煌めく白金髪が、今日は黄みがかった土のような色をしている。何かあった時に使えるかもしれないと、持ってきていた一時的に毛髪を染める染毛剤を、昨日のうちに使用したためだ。銀灰色のレイの髪で使うと薄茶色に染まるその薬は、白金髪のクラウスに使うと、どうやらこんな色になるらしい。元の色にも大きく左右されるが、魔法薬なので個人の魔力による影響も受けやすい。少なくとも、クラウスの顔(イケメン)には似合わないこの発色に、レイは内心憤慨していた。だが、今後クラウスの親戚に会う可能性があることを考慮すると、今クラウスの首に巻かれている認識阻害機構が組み込まれたチョーカーが、どこまで効力を発揮してくれるか分からない。うまく機能してくれるように、相手の記憶に残りやすい部分の印象を変えておくのは非常に効果的だ。諜報部として動くにあたり、正体が露顕することは避けなければならない。  塔の前では、入塔許可証の交付を受ける列ができていた。開始時間よりもずいぶん早い時間に到着しているにもかかわらず、既に十人ほどが並んでいた。温かい室内へ入れると思っていたマルキオン教授の落胆ぶりは、見ていて少し気の毒だった。  レイはマルキオン教授の鞄から、オルディアス国立魔法大学の証印入りの申請書を取り出し、教授に手渡した。すでに冬用の分厚い手袋を着用しているマルキオン教授の手がそれを受け取り、後ろにいるクラウスを一瞥する。すると、ニヤリと唇をつり上げながらレイに語り掛けた。 「レイ君のモテ具合を見たら、明日から外出禁止令でも出されるんじゃない?」 「……言っている意味がよく分からないんですが?」  冷ややかな目でマルキオン教授を見上げると、小さく「え」と呟かれる。微妙な沈黙の後、マルキオン教授がクラウスの方へ向き直ると、説明を始めた。 「ザルハディア王国は、魔法薬士至上主義みたいなところがあるのはご存じですよね? 勤勉な魔法薬士であり、しかも魔術師でもなく魔法使い。実力では上でも、この国のヒエラルキーの中では下にある魔術師でも、一目を置かれている人って言うのは少なからずいて――。そんな人から目をかけられているような人がいたら、どうなると思う?」  マルキオン教授の言葉に、クラウスの表情が一瞬だけ曇った。彼の中で思い至った答えがあったのかもしれないが、それを口にすることはなく、ただじっと藍色の瞳がレイを見つめるだけに留まった。レイは呆れるように肩をすくめ、クラウスに釘を刺した。 「心配するようなことはないよ。ザルハディアの魔法薬士は、ちょっと人との距離が近いだけだ。勘違いするなよ」  クラウスの眉間に皺が寄り、マルキオン教授は鼻で笑ってからぼそりと呟く。 「距離が近いだけ、ねぇ?」 「教授は“教授”だから、そんなふうにならないだけですよ」  魔術師という単語を出さないよう、敢えてそう言うと、マルキオン教授はわざとらしく肩をすくめ、進み始めた列に倣って歩を進めた。  順番が回ってくると、ザルハディア王国の魔法薬士協会の職員が受付をしてくれた。マルキオン教授が提出した申請書を確認し、各々が本人確認書類を提示すると、手の甲に魔法薬を使った特殊インクでザルハディア魔法薬士学会のマークが転写される。  クラウスについては、テロの犯行声明が出ている関係で、ザルハディア王国へ入国する際に交付された護衛証明書を提示した。身元保証人は、便宜上レイとなっている。続けてクラウスが冒険者登録証を提示すると、受付職員は、胡乱気な目でじろりとクラウスを見た。提示した登録証の氏名欄には、“クーランス”という偽名が印字されている。国際組織である冒険者ギルドにすら圧力をかけて偽名登録ができるなら、もはや冒険者登録証など、なんの身分証明の意味をなさないのではないか? と思わなくもなかった。  ちなみに、クラウスの冒険者としての格付け(ランク)は、上から数えて三番目のシルバーとなっており、レイが持っている登録証にはない銀色の証印が押されている。魔術師だろうが魔法使いだろうが、登録職種は魔法使いとなるが、そんな証印を持つ魔法使いなど、もはや魔術師であるという証拠でしかない。――オルディアス王国においては羨望の眼差しを向けられるものでも、ここザルハディア王国においては蔑視の対象となる。  レイはわざとらしく咳払いをした。受付職員が素知らぬ顔で登録証を返すと、クラウスの手の甲に乱暴にマークを転写する。少しよれて崩れてはいるが、特殊インクを使ったものなので問題はない。  魔術師への差別があるのは知っていたし、ザルハディア王国の魔術師が冷たい対応を受けているのも見てきたが、身近な人への差別的な扱いは、やはり堪える。過去、マルキオン教授と共にザルハディア王国を訪れた時は、ここまであからさまな対応をされたことなどなかった。おそらく、マルキオン教授はそれなりに名のある魔法薬士であるため、差別的な対応などしようものなら、オルディアス王国の魔法薬士協会から正式な抗議文が届くことを懸念してのことだろう。――本当に腸が煮えくり返る。  眉を寄せながら受付を離れると、レイの背にそっとクラウスの魔力が添えられた。温かく響く共鳴音と共に、ぽんぽんと撫でるように動く恋人の魔力。気にするな、という優しいメッセージを読み取って、レイは余計に悲しくなった。人目があるため直接触れてこなかったクラウスを、むしろレイが慰めてやりたいのに。  伝わるか分からないが、レイは意識して魔力を動かした。クラウスの繊細で精度の高い魔力操作を横で見ながら、イメージトレーニングだけは何度も繰り返してきた。背に添えられた彼の魔力を、そっと包み込むように自身の魔力で掴む。それを受け入れるように、彼の魔力もこちらの魔力を握り返してきた。――少しでも、彼の心が傷ついていませんように。そう願いを込めながら手をつなぐような、心がむず痒くなるような行為だった。

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