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第78話 胸の内

 クラウスは、マルキオン教授が仄めかした現実を目の当たりにして、湧き上がる嫉妬心を腹の底に沈めていた。  継智の塔に入った途端、玄関ホールに響き渡る「レイ!」という分かりやすく好意的な声に、自分の隣を歩いていた恋人が声の主に向き直った。遠くから笑顔で手を振る男に、レイも笑顔で相手の名前を呼び返しながら手を振り返す。その瞬間を皮切りに、レイの周りに人が集まり始めてしまった。  笑顔、握手、肩を叩き合うほどの気安さを、まざまざと見せつけられる。クラウスが目を光らせると、相手は少し慄いて距離を置いてくれはするものの、レイ自身が相手の親しげな手を拒まない限り、間に割って入ることはできない。  ――分かっている。彼は一定の好意には好意で返す人だ。そして、その好意が一定以上のものを孕んでいる可能性を疑わない。それはおそらく、繰り広げられる会話自体が「先日送った論文は役に立ったか」だとか、「研究の相談に乗ってくれてありがとう」などといった“魔法薬士の領分”を逸脱したものではないからだ。だからレイは、同志として彼らに敬意を払っている。  だが、好意を無碍にしないという彼の性質を理解している狡猾な獣は、分かりやすく爪や牙を見せたりはしない。されども、飛び交う視線の熱さや言葉の選び方から、透けて見える許容範囲を越える好意が、クラウスの理性にじわりと爪を立てていた。 「おーいレイくーん」  マルキオン教授が人だかりの外からレイに声をかけた。 「君、婚約したんだから浮気もほどほどにねー」  その一言が、レイの周りを囲んでいた人々を黙らせた。レイはマルキオン教授の言葉をいつもの軽口と判断したのか、普段通り呆れ顔を浮かべた。 「これのどこが浮気になるんですか」  婚約したことを否定もしないレイに、凍り付いたような表情を浮かべる周囲の者たち。そのうちの一人が、絞り出すように声をかけた。 「婚約……したのか」  問いかけなのか呟きなのか、判断が微妙なトーンで放たれた男の言葉に、レイはきょとんとした表情を浮かべながら答えた。 「? あぁ。ちょうど一か月前ぐらいに」  どうかしたか? とでもいうかのように淡々と語るレイに、周りの熱がみるみる冷めていく。しかしながら、聞いた本人は震える指で眼鏡の位置を直して、気を取り直すように続けた。 「そ、そうか、レイも貴族だったもんな。婚約者ぐらい、いるよな」 「そういう意味では婚約者はいたことが無いな。単純にプロポーズされて、俺が受け入れた。あ、ザルハディア王国では、『恋愛結婚』はあまりないんだったか?」  レイの言葉が発せられた瞬間、数名がその場で膝から崩れ落ちた。他にも、茫然とレイを見つめる者、顔を見合わせる者が続出する中、取り残されたようにレイだけが、その様子を「どうした?」と首を傾げて見ていた。 「『結婚』しても、そのまま研究は続けられる予定だから、これからも『良き隣人』として頼むよ。じゃ、また会場で会おう」  こうして婚約者は、澄んだ青緑色の瞳で無自覚に男たちの甘い夢を刈り取った。付け加えるように軽やかに追い打ちをかけてから、レイはマルキオン教授の元へと小走りに駆けていく。クラウスはそれを追いながら、残された立ち尽くす屍と化した者たちの姿を一瞥した。  死屍累々。まさに魂を抜かれたようなその姿には、そんな言葉がこれ以上ないほど似合っていた。  先ほどまで軋んでいた胸の内が、今は小気味がいいほど弾んでいる。あまりにも分かりやすく単純な自分を自覚して、クラウスは思わず笑みをこぼした。  ザルハディア王国で開催される魔法薬学集会は、塔の各室で複数の発表が同時に進行していく。事前に拝聴希望を募り、定員に達したら抽選となる。マルキオン教授が申し込んだ発表は全部で十二コマ。その内七コマが定員に達したことにより抽選となったが、四コマ抽選から落ちてしまい、参加できるのは計八コマとなった。 「前回と比べると、ちょっと少ないですよね」 「代表者が“僕”だから招いた結果じゃないといいけど。……他国から参加してるんだから、そういうところちょっと融通利かせてくれてもいいと思うけどね」  マルキオン教授は、受付時に外した手袋をポケットから取り出して、再び指を差し入れた。塔の中は充分温かいが、芯まで凍えたマルキオン教授には、どうやら不十分だったらしい。  レイは苦笑しながら問いかける。 「オルディアス王国で開催したとして、融通します?」 「遠隔拝聴システム導入しろって言うね」 「旅費より高いですね」  マルキオン教授の掌の返し方に笑いながら、レイは高い玄関ホールの天井から吊り下げられた時計を見上げた。今日の予定では午前に1コマ、午後に1コマあり、午後の分については抽選となった人気のコマになる。人数分の席はあるだろうが、隣同士で座るとなると大変そうだ。 「もう少し時間がありますね。今のうちにトイレに行ってきます」 「なら僕も行くよ。護衛対象がばらばらになるのは、あまりよろしくない。……でしょう?」  レイがトイレに行こうとすると、マルキオン教授がそう言ってクラウスを見た。クラウスが相変わらずの鉄仮面ぶりを発揮しながらゆっくりと頷くので、レイは肩をすくめながらクラウスを見上げた。  テロ予告は、ザルハディア王国が吐いている嘘であることは、マルキオン教授には伝えていない。  虚偽の声明については、先日の話し合いの場で、恐らく呪いの広がり方がおかしいことについて露見しないようにするためではないか、という推測を立てている。ただ、ケリーが呪いを自覚したあの日を境に渡航禁止が出されたというのは、タイミングとしては出来過ぎている。呪いの浄化薬の大量輸入は、四か月前の出来事だ。その時にはすでに、ザルハディア王国では何かしらの異変が起きていたはずだ。  ――タールマンが危惧していた、オルディアス王国による諜報活動が露呈したのではないかという予測が、外れていること願うしかない。  三人で塔に備え付けられているトイレに移動し、入口にある使用料投入口の前で財布を取り出す。投入口に銅貨五枚と書かれており、継智の塔のトイレを使用するにはどうやらザルハディア銅貨が五枚必要らしい。  オルディアス王国の公共事業場所のトイレでは、トイレの前に立っている管理者へのチップ制になっているが、ザルハディア王国はその施設ごとに一律で使用料が決められており、投入口へ料金を入れると使用可能になるシステムが導入されている。オルディアス王国にも導入されたら便利なのにと、レイは常々思っていた。しかし、オルディアス王国の場合、公共施設の利用はほぼ貴族か一部の豪商しか使わないため、あまり不便さを感じていないのが、このシステムの進まないところなのだろう。 「何枚?」 「五枚だそうです」 「あれ? 前三枚じゃなかったっけ」 「値上がりしてますね」  マルキオン教授の声に答えながら、レイは銅貨を五枚投入し、「お先に」と声をかけてからトイレの中へ入って行った。その背を見送ってから、無言でニコニコとした表情を浮かべながら眺めてくるマルキオン教授に、クラウスは静かに見つめ返した。 「……感想は?」  先ほど塔に入った時の状況を言っているのだろう。マルキオン教授の意図をすぐに理解したが、クラウスはただ黙って視線を下げるだけで、答えようとはしなかった。その仕草でさえ、マルキオン教授は面白そうに見ている。 「――彼が魔法薬士の中で注目を集めたのは、数年前にザルハディア王国で開催された学会なんだけどね」  突然、マルキオン教授が語り始める。 「聞いていたのは『基礎疾患がある患者の禁忌薬における魔法薬への置き換えについて』。ある魔術師の魔法薬士が発表したんだけど、着席している人のほとんどが、その次のコマの席取りのためにいるような人ばかり。定員割れしているコマの席埋めは自由だからね、そういうことが可能になってしまうんだけど……正直、皆寝てたんだよね。失礼なことこの上ない話。……あ、僕は起きてたよ?」  分かってると思うけど、と謂わんばかりにマルキオン教授が笑いながら続きを話す。 「発表が終わって、発表者が取って付けたように言うワケ。――『何かご質問は?』――そんなもの出てくるわけがない。何故ならここは、ザルハディア王国なんだから」  魔術師に対して敬意など払う必要もない。そう考えている根強い差別の在り様について、同じ魔術師であるクラウスは表情を変えずに話を聞いていた。その話には同情を禁じ得ないが、語っている本人も、同じ魔術師なのである。その彼が、楽しそうに話をしている。それだけで、クラウスはその先の展開が読めてしまう。  予想通り、マルキオン教授は得意げに語り出す。 「そこで手を上げるのが、レイ君だよね。驚いた表情の発表者がレイ君を示すと、彼は立ち上がった。気持ちのいい寝息しか聞こえない静かな空間に、わざわざ風魔法を応用して声を拡散させながら名乗った。皆飛び起きるよね。でも、レイ君は止めなかった。『チーム医療の考え方として、ザルハディア王国では魔法医よりも非魔法医との連携が必要かと考えますが、疾患上、非魔法薬では禁忌扱いとなる患者に、代替えとして魔法薬の処方依頼はどれぐらいありましたでしょうか。また、無い場合はその有用性について非魔法医への情報提供はどのように行われていますか』とね」  思い出したようにくすくすと笑うマルキオン教授を、クラウスは見つめながら頷いて続きを促した。 「魔術師のところへは、そんな依頼なんか来ない国だよ。レイ君だってそんなことわかってる。互いに敬意を示しながら、討論が始まっちゃった。そしたら、視察に来てたザルハディア王国の国安保の人も交えて、まるで意見交換会みたいになっちゃってさ。他国の魔法薬士が、自国の魔法薬と魔法薬士の発展のために意見を言ってるのをまざまざと見せつけられて、部屋中の魔法薬士が慌てて手元のレジュメに目を落とし始める」  マルキオン教授は、懐かしそうに息をついた。 「そこからはね、レイ君以外からも挙手が続いて、活発な意見交換会へと様変わり。プライドもいっちょ前だけど、愛国心だってある魔法薬士が集まってる会場で、そんな話を熱心にしてたら、刺激されるものもあったんだろうね。次のコマが始まる直前で、進行役のザルハディア王国の魔法薬士協会が止めに入るまで、盛り上がったよ」  レイの武勇伝を聞くと、こちらも心が熱くなるが、クラウスは少し苦い顔をした。 「……少々、話ができすぎでは?」 「そう思うよね? 僕もそう思う。運が良かったと言い換えてもいい話。でも、彼が同年代の魔法薬士たちの心に、少し火をつけたのは、紛れもない事実」  マルキオン教授は静かに笑みを浮かべながら頷いた。それを見ながら、クラウスは先ほどレイを囲んでいた魔法薬士たちの顔を思い出した。――羨望とは、好意と妬みの表裏一体。だがそれは、この国だけの話ではない。どこにでもある話だ。 「彼はね、色んな意味で眩しいから、惹かれる人も多いよ。……早いところ、彼が落ち着いて研究に没頭できる環境を整えてあげないと、貴方の精神衛生上、よろしくないんじゃない?」  目下の悩みを言い当てられて、クラウスは小さく息を吐いた。 「相談しても、よろしいでしょうか」 「聞きましょう」  貴族らしくもあり、そして少々の悪戯心を混ぜた笑みを浮かべ、マルキオン教授はわざとらしく自身の胸に手を当てた。 「レイは、研究の過程で魔力回路のオーバーヒートは避けられないと言いました。――故に、彼を一人にするのは、反対です」 「いかにも」  マルキオン教授が深く頷くのを見て、クラウスは続けた。 「しかし、彼は……他人に見せられない薬を作ることもある」  その一言で、マルキオン教授の表情が消えた。こちらを探るように見つめてくるその反応に、クラウスは静かに悟った。――マルキオン教授は、レイのリミッター解除薬の存在を知っている。おそらく、自分よりもより正確に。  クラウスは、胸の内の葛藤を吐き出すのを躊躇した。理解はしている。これ以上の適任者はいない。しかしながら、心がそれを許さない。許したくない。何故なら、マルキオン教授は――。 「僕は無理だよ。彼の監視者にはなれない」  読まれたように先手を打たれ、クラウスは閉口した。じっとマルキオン教授を見ると、いつもの調子で彼は口を曲げ、やれやれと首を振られる。 「僕は、サルベルト教授に睨まれるようなことはしたくないの。なまじレイ君と魔力相性がってだけで、一目を置きつつも、同時に目の敵にしてるんだから。今回の学会だって、説得するのにどれだけ苦労したと思ってるのさ。この前の祝勝会で、レイ君があんな問題発言するから!」  マルキオン教授の目が疲弊の色を帯びて宙を泳ぐ。クラウスは、レイとの冷戦に巻き込まれた被害者を前に、すぐさま謝ろうとした。その刹那、トイレのドアが勢いよく開いた。 「教授! その節は大変失礼致しました!」  トイレから出てきたレイが、慌てた様子でマルキオン教授に近寄った。どうやら聞き耳を立てていたらしい。出てくるのが遅かったので、大方自身の過去を話されていたことが分かり、出るに出られなくなってしまったのだろう。マルキオン教授は一瞬驚いたような顔をして、呆れたように笑うと、レイの額を指で弾いた。 「君は、もうちょっと人への頼り方を覚えようね。三十路を目前に控えた男が言われる台詞じゃないかもだけどー」  けらけらと笑いながら、マルキオン教授は投入口に銅貨を押し込むと、軽やかに手を振ってトイレに消えていった。  レイが弾かれた額に手を当て、僅かに眉を寄せたままその背中を見送ると、クラウスを見上げて静かに言った。 「……研究室に監視員を付けられるのは、甘んじて受け入れる。大丈夫だと言っても信用はないだろうし、俺自身、確約できない」  語り掛けるように、レイが諦念を滲ませながら息を吐いた。 「俺は、どうにも周りに心配ばかりかけるらしい」  レイの長い睫毛が彼の頬に影を落とす。綺麗な青緑色の瞳が暗い光を帯びるたび、クラウスは遣る瀬無さを覚えた。  レイの自嘲には、いつも誰かの存在が隠れている。それは家族(ルミア)であったり、友人であったり、ときに見知らぬ誰かであることもある。――レイは、自身の問題に他を巻き込むことを極端に嫌う。その理由まで推し量れるほど、まだ彼のことを知らない。その事実を垣間見るたび、クラウスはレイの心がまだ遠くにあるように感じていた。 「――『火と水と風が交われば、真理の調べが生まれる』という言葉があるだろう?」  クラウスはレイの銀灰色の髪に触れたい衝動を抑えながら、口を開いた。  この言葉は、ドワーフを火、人間を水、エルフを風に例えた商人ピトルの逸話に由来する。種族を越えて交流が生まれれば、文化や知識が混ざり、新たな形として発展する。そこから転じて、『独りでは成せぬ事でも、力を合わせればより良い事が成せる』という意味で使われる。 「心配はする。それは、君が大事に思われている証拠でもある。だが心配とは別に、そういった理由で心許せる仲間が研究室にいればいいとは思っている」  言い終えても尚、レイが黙ってこちらを見つめてくる。その視線に耐え切れず、クラウスはわずかに目を逸らしながら白状した。 「……だが、君と仲が良さそうな研究員が居たら、きっと私は嫉妬に狂うんだろうなと、確信している」  一拍の間をおいて、レイが噴き出した。その屈託のない笑顔を見て、クラウスも思わず笑みをこぼした。

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