87 / 88
第79話 言う・言わない・言えない
そこからは日常会話など一切無く、忙しく塔の中を移動した。論文発表のあとはパネル発表へと移動となり、内容が専門的なため、クラウスはただレイとマルキオン教授の後に黙って付いて行った。
昼食の時間になると、塔の前にはピトル広場から来た売り子が並び、パンやサンドイッチ、温かいスープなどが売りに出されていた。例え温かい食べ物でも、寒空の下で食べようとする人は居ない。自然と食べ物を買った者から塔の中へと戻ってくると、各室の机に腰を下ろし、もそもそと食べ始めるので、その場で食べられるようにと外に並べられた椅子やテーブルは、乾いた冷たい風に吹かれるばかりだ。
午後の一コマ目が、抽選になるほど希望者が多いコマのため、マルキオン教授に席を取っておいてもらい、レイとクラウスが食べ物の調達に奔走した。サンドイッチ、串に刺して揚げたポテト、野菜スティックとスープを両手に抱えて、二人はマルキオン教授が待つ講義室へと急いだ。中に入ると、同じように昼食を持参した者たちで席は埋まっており、広い講義室が人の熱気で温まっていた。
マルキオン教授が端の方の席で腰を浮かせ手を上げているのを見つけ、レイとクラウスは通路にはみ出して食べる人を避けながらマルキオン教授の元へと向かった。
「ありがとう」
「いえ、教授も席の確保ありがとうございます」
そう言うと、マルキオン教授がすまなそうに声をかけてきた。
「ごめん、やっぱり人数ギリギリみたいで、余分に席は確保できなかった」
クラウスにそう告げるマルキオン教授に、クラウスはさも当然のような顔で首を振った。
「部屋の隅で立っているだけの人間に、席はいりません」
「でも、少しは座った方がいいよ」
「慣れております。お気遣いありがとうございます」
そう言いながら、壁を背にしてスープに口をつけ始めるクラウスに、マルキオン教授が気まずそうにサンドイッチに手を伸ばした。護衛としては当然の対応なのだろうが、やはり立場上、食事の時ぐらい座ってもらった方がいいのでは、という葛藤があるようだ。かといって、ここでレイが立つことは絶対にクラウスが許さない。――どうしようもない状況だ。レイはそう割り切って、野菜スティックを齧りながら次の発表のレジュメに目を通し始めた。
今回は『魔力回路の疲労傾向とその対処に効果的な魔法薬について』の発表になる。レイが今学会期間において最も楽しみにしていたコマだ。このコマが抽選に通ったと聞いたときは、あまりの嬉しさに天を仰いだほどだった。
「レイ君、食べる手が止まるならレジュメはしまいなさい。ページをめくる手の方が早いよ」
マルキオン教授に言われ、レイははっとして一本目の生野菜を口に放り込んだ。ぽりぽりと音を立てながらマルキオン教授の方を見て、食べてますとアピールするが、時すでに遅し。レジュメがクラウスの手により取り上げられてしまった。
「食べる! ちゃんと食べるから!」
そう言いながら手を伸ばすが、クラウスは素知らぬ顔で手の中のレジュメを背に回し、壁と背の間に挟み込んでしまった。その行動を称賛するようにマルキオン教授が隣でわざとらしく頷き始め、レイは渋々サンドイッチに手を伸ばした。
「レーヴェンシュタイン公爵家に住むようになってから、レイ君が目に見えて健康になったから安心してたけど……そういう癖、まだ抜けてないんだね」
マルキオン教授がスープが入っているカップの蓋を開けながら、ぼそりと呟く。レイはそれを隣で聞きながら、視線だけをクラウスに向けた。クラウスの鋭い視線が、レイの横顔に突き刺さっている。それに気付かない振りをして、もそもそとサンドイッチを咀嚼していると、クラウスが小さくため息を吐いた。
「……研究室へは食事も運ばせる必要があるようだな」
「運ぶだけじゃ、干からびるまでそこにあるかもよ」
両側からちくちくと刺されながらも、レイはそれでも聞こえない振りを続けた。
「あー美味しい」
わざとらしくそう言ってみても、二人から反応は返ってこなかった。
黙々と食べ続け、昼食が終わってやっとレジュメが差し戻された。直前までクラウスの背にぴったりとくっついていたレジュメはほんのり温かく、レイはそれをしっかりと受け取ったが、レジュメからクラウスの指が離れない。まだ言い足りないことでもあるのかと見上げると、クラウスの視線がちらりと講義室の出入り口へ向いた。レイが視線をそちらへ向けると、燃えるような赤い髪の女性が空いている席を探しているのが目に入る。――カーレン・フォーリォル。記憶の彼女よりも艶を帯び、髪に綺麗なウェーブがかかっているが、彼女に間違いなかった。
彼女と視線が合う。こちらを認識したのが分かるぐらい、空席を探すよりも長い時間の交差。それでも、彼女の足はこちらに向くことはなく、出入り口の近くに一つ空いていた席に腰を下ろした。
クラウスへ視線を戻すと、彼もこちらを見ていた。その視線が「彼女がカーレンで間違いないか」と問いかけている。レイは小さく頷いてから、机に肘をつき、唇に拳を当てるようにして考えた。まだ通信魔法機器で彼女にメッセージは送っていない。だが、会えたのであれば行幸だ。これを機に、依頼を果たさなくてはいけない。
空中に投影された資料が消え、講義室の照明が点灯する。そこから長い質疑応答の時間が始まり、ようやく論文発表が終了した。興奮冷めやらなぬレイは、満足げにレジュメを鞄に押し込んで、はっとした。慌てて出入り口に殺到している魔法薬士たちにカーレンの姿を探すが、すでにあの燃えるように赤い髪はない。
「教授、すみません。知り合いに声をかけてきます」
「いいよー。人に跳ね飛ばされないように注意してねー」
「そこまで小さくありませんよッ!」
マルキオン教授の鞄を机の上に置いて、レイは急ぎ出入り口に向かった。歩みの遅い人との間に身を滑り込ませて進み、廊下に出る。視線を動かし、階段を降りたびにふわりと舞う紅蓮の髪を見つけ、駆けだした。
「カーレン!」
階段の上から呼び止めると、階段の踊り場の上にいたカーレンが、驚いたように目を見開いてこちらを見上げた。その目に映る嬉しそうな光に、レイは一瞬たじろいだ。――まさか、な。浅はかな考えを振り払うように、階段を駆け下りる。
「久しぶり。元気そうで安心した」
そう声をかけると、カーレンはふっと目元を綻ばせた。記憶の中の彼女より、健康的に肌は輝き、髪は艶やかさを増している。本来の彼女は、きっとこちらなのだろう。
「本当に、久しぶりだわ。貴方も元気そうね。前みたいに隈もないし……少し背も伸びた?」
嬉しい一言が付け加わるが、レイは苦笑で返した。
「いや、残念ながら背は伸びていない。だが、マナー教師がうるさくてね。姿勢が良くなったんだと思うよ」
レイはラーディーンを思い浮かべた。事あるごとに「姿勢が悪い。未来の公爵配が聞いて呆れる」と有難い小言を容赦なく叩きつけてくる。いつの間にか花嫁修業と謂わんばかりにマナー教師が手配され、朝の研究時間を一時間削って“公爵配教育”に充てられる羽目になった。最初の講座の後に、深い感謝と恨みを込めてラーディーンに恭しく礼をすると、「幾分かはマシになったが、まだまだだな」と鼻で笑われた。
レイはカーレンの一歩先を歩き、階段をゆっくり下り始めた。斜め後ろを並ぶように歩く彼女が、不意に口を開いた。
「……そう、婚約したんですってね。おめでとう」
肩越しに彼女を見やると、その顔には貴族然とした笑みが浮かんでいる。それに倣い、レイもマナー教師に叩きこまれた同じ微笑みを浮かべた。――この笑みは、感情を隠すための盾である。そして、回りくどい言葉で巧みに本心を隠しつつ、相手を褒めながら刺したりする、らしい。レイはますます社交が嫌になった。この魔法薬学集会シーズンが終わったら、社交界シーズンだ。今から帰るのが憂鬱になりそうだ。
唐突に、カーレンが噴き出すように笑った。
「レイ、無理しているのが丸分かりよ」
「俺も性に合ってないのは分かってるさ」
あっさりと互いに構えた盾を放り投げて、笑い合う。レイは肩をすくめてから、そっと声のトーンを落として聞いた。
「……あの後、君の元婚約者からの被害はないか?」
その言葉に、カーレンは小さくため息を吐いてから、疲れを滲ませた。
「復縁は求められているわよ。絶対しないけれど」
「懲りないな」
レイはその言葉を聞いて、まだ彼女に新しい婚約者はいないことを知った。復縁を求められるということは、即ち、相手がまだいないからだろう。――さっき彼女が浮かべた貴族らしい笑みは、「私には婚約者がいないのに、貴方は婚約したのね」という皮肉だったのかもしれない。あのくそ蛆虫搾取野郎が婚約者でなかったなら、彼女はもう既に結婚していたはずだ。それが彼女の幸せだったかは、別として。
「あの後、他国で開かれていた学会で、君の姿を見なかったから……少し心配していた」
そう言うと、カーレンは小さくフフッと笑った。
「残念ながら、婚約破棄された傷物の女は、国外には出せないそうよ」
自嘲を込めて放たれた言葉に、レイは絶句した。階下に降りた瞬間、思わず立ち止まるほどに。すると、紅蓮の髪を揺らしながら、カーレンがレイを追い抜いて行く。彼女の髪からふわりと香る甘い花の香りに、レイは反射的にその香りの構成成分を分析していた。数歩先でカーレンが、長い髪を翻すようにくるりと振り返った。その動きに合わせて、更に香りが広がる。
「貴方のせいじゃないわ、レイ」
カーレンの顔には、諦念を滲ませながらも、晴れやかな笑顔が浮かんでいる。その表情を見つめていると、少し口の端を持ち上げ、意地の悪い笑みに変わった。
「それとも、貴方のせいだと言ったら、もらってくれる?」
「……カーレン」
「冗談よ。真に受けないで」
カーレンが面白そうに笑う。その笑みすら、受け止めるのが重い。どう応えればいいか分からず、レイはそのまま彼女の赤い瞳を見つめた。こちらの反応を見て、カーレンは笑みを消すと、そっとこちらに歩み寄ってくる。ザルハディア王国の女性には珍しく、ローヒールの靴を履いた彼女と、レイはそんなに身長は変わらない。わずかにレイが高いぐらいだろうか。視線の高さがほぼ等しい彼女は、手を伸ばせば簡単に届きそうな距離まで近付くと、小首を傾げてレイの瞳を覗いてくる。
「シーズン中は、どこに滞在しているの?」
レイは距離の近さに戸惑い、体重移動に見せかけて半歩後ずさった。
「ホテルが取れなくてね。所縁のある貴族のタウンハウスを間借りさせてもらっている」
「あぁ、そうか……貴方が師事している方は……」
カーレンが言葉を濁した。誰が聞いているか分からないこの場所で、“魔術師”という言葉を使わないでくれたのだろう。誰の所縁かは敢えて言わなかったが、こちらに魔術師であるマルキオン教授がいるおかげで、詮索はされなかった。下手に“他国の魔術師と関わりのある貴族”など聞こうものなら、こちらに害意でもあるのではないかと思われかねない行為だ。
「今度、夕食でも一緒にどう? この国で、外食はあまりしたことないでしょう?」
願ってもない提案が出される。だが、婚約者がいる身として、ここですぐに頷くわけにもいかない。
「まぁね……。でも、あまり遅くはなれないかな。ほら、テロの宣言もされているだろう? 君を遅くに家へ帰すわけにいかない。お茶ぐらいならまだしも」
そう答えると、カーレンは苦々しく呟いた。
「先生への回答と、同じことを言うのね」
はっとして、レイは彼女を見た。――そうだ、カーレンはベイストン先生に師事をしているとコリントが言っていた。
「……何故知っている? ベイストン先生に聞いたのか? 一体どうして先生に……だって君の専攻は――」
言いかけて、レイは口を噤んだ。それこそ、この場で言うことではないと、自制心が働いた。
黙ってしまうレイに、カーレンがにっこりと微笑む。
「それも、今度ゆっくり話しましょう。連絡するわ」
言い残すように、彼女は再び赤い髪を翻し、魔法薬士たちが行き交う人混みの中へと消えていった。
レイは、見えなくなった赤い影をただ見送りながら、クラウスを想った。早く、彼に会いたい。心に棘のように残る重苦しさと、拭いきれない不安を、洗いざらい吐き出してしまいたかった。
ともだちにシェアしよう!

