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第82話 呼び名
レイは塔から出る前に、名前を言うのも憚られるあの男が、干上がらせて粉状にしたまま放置した粘液だったものを、洗浄魔法で綺麗に除去した。レイが洗浄魔法を使った床だけが、やけに光り輝いている。どうやら粘液に熱を加えたことにより、ワックス効果が出たらしい。もともとあの魔法は、レイが幼少期を過ごした寄宿学校で、冬の到来に合わせて大掃除を敢行するにあたり、廊下を綺麗に磨き上げるために開発した魔法だった。教師の目を盗み、学友と共に廊下を洗剤と粘液で覆い、滑って遊びながら擦り上げるという遊び方をしていた。滑って転んで全身粘液洗剤だらけになり、除去するのに洗浄魔法も大活躍する。そして、教師にバレて怒られるまでがセットだった。
「思い出した。前、レイ君をぶん殴って気絶させた男だ」
マルキオン教授が突然そんなことを口走り、レイは何も言わずに走り出そうとしたクラウスのジャケットを掴んだ。
「待て、どこに行く」
「殺してくる」
「物騒が過ぎる!」
レイはクラウスの腕に抱き着き、全身の体重を使ってクラウスを止めた。触れている魔力から冷静な怒りと少しの殺意を感じ取り、レイは思わず冷や汗をかく。流石にそこまでされると、クラウスもそれ以上歩を進めようとはしなかった。レイを鉄仮面を貼り付けた顔で見下ろし、クラウスは呟くように言い放つ。
「冗談だ」
本当か? 口から出そうになった言葉を飲み込んで、レイは体重をかけるのをやめた。手を離そうとすると、クラウスの魔力がレイの手を瞬時に掴んで離そうとしないので、仕方なく手は添えたままにした。
「何でまた、絡まれてるわけ? 前の一件は……カーレンだっけ? あの男の婚約者に一任する形で決着ついたんでしょう?」
マルキオン教授が片眉をあげながら、レイに怪訝な顔で問いかけてきた。レイは口の端を上げながらため息交じりに口を開く。
「おそらく、俺がカーレンと話していたのを見たんでしょう。まだあの男は復縁を迫っているみたいです。やることなすこと情けない奴ですね」
その回答に、マルキオン教授の視線が呆れたように宙を見た。
「お節介が過ぎると、身を滅ぼすよ?」
「善処しますが、話の流れで今度カーレンとお茶を共にすることになりました。また連絡が来るので、どこかの日程でちょっと行ってきます。クラウスを借りることになりますので、その日教授は、学会参加後タウンハウスに缶詰になっちゃいますが、大丈夫ですか?」
話しながら出口に向かうと、マルキオン教授もつられるように歩き始めた。どうやらこちらの意図に気付いていないようだ。レイはクラウスに一瞬視線を送ると、クラウスもしっかり瞬きを返してこちらの意図を読んだことが分かった。
「別にいいよ。どうせ僕どこも行く予定なかったし」
「お土産いつ買います?」
「来週でいいでしょ」
そんな会話をしながら塔の出口から出ると、途端に冷たい風が頬を撫でた。すぐさま回れ右して塔の中へ入ろうとするマルキオン教授の腕を掴み、レイがそのままピトル広場の方へ歩き出すと、マルキオン教授が「謀ったな!」と声を上げた。
タウンハウスに着いて、レイは自分の部屋にあてがわれた部屋に入ると、すぐに小型通信魔法機器をポケットから取り出した。カーレンと接触できたことを報告するか、それともお茶の日程が決まってから報告すべきか迷っていると、ノックが響く。手の中の機器を再びポケットに押し込み、どうぞと促すと、当然のようにクラウスが部屋に入ってきた。
タウンハウスの部屋は、三人別々となっている。護衛と部屋が分かれているというのも、レイとしては面白いなと思ったが、逆に同じ部屋を希望するということは、即ち『この家は安全面に問題がある』と暗に言っているのと同じになってしまうらしい。
クラウスが何も言わずに近づいてきたので、レイは再度ポケットから小型通信魔法機器を取り出した。
「なぁ、カーレンのこと、もう伝えた方が――」
言葉を紡いでいる最中に、クラウスが頬に軽く唇を寄せてきた。互いに軽い挨拶のようなキスを贈り合うと、クラウスがレイを腕の中にすっぽりと収めながら耳元で囁いた。
「その前に、離れていた間に起こったことを、先にきちんと説明してほしい」
話してくれるまでは離さない、という意思表示に、レイは笑いながら座ろうと促した。ソファを指差すが、クラウスはそのままベッドの端に腰かけると、両手を広げ「おいで」と示してくる。
レイは苦笑しながらクラウスを背もたれにするようにベッドに腰かけ、カーレンと話したこと、自殺未遂をした男から感謝されたこと、カーレンの元婚約者との一件をかいつまんで話した。話が終盤になるにつれ、冷静に話を聞いていたクラウスから漏れ出た殺気で、空調が効いているはずの部屋の中がひんやりと刺すような冷気に包まれた。
「やはり殺しておくべきだったか」
ぼそりと呟かれた言葉に、レイはすぐに反応を返すことができなかった。接しているクラウスの魔力から本気度が伝わってきており、肝の冷え方も一入だった。――諜報部は暗殺を生業にしているんだっただろうか。
「……まぁ……そんな感じだ。改めて聞くが、カーレンについてはもう報告するべきだと思うか?」
話題を変えようと、敢えてクラウスに体重をかけて聞く。クラウスはしばらく黙った後、小さく首を振った。
「彼女からの連絡がいつ来るかにもよるが、日程が決まってからでもいいだろう。今日中に来なければ、一旦報告する」
「りょーかい」
思考が逸れて、少し大人しくなったクラウスの魔力に、レイはほっとして彼の頬にキスを贈った。お返しと謂わんばかりにクラウスの唇が寄ってきたが、レイは「あ」と小さく呟いて、それを遮った。
「カーレンからお茶に誘われた際、クラウスも同行するのでよかったんだよな? 教授には勝手にそう言ってしまったが」
「無論。むしろ置いて行く予定だったらどう説得するか思案しなければいけなかった」
クラウスの表情がすぐさま仕事モードに切り替わった。それを受けて、レイは頷いた後に続けた。
「どこでお茶をすることになるのか分からないが、正直、マディとサマンサの救出について助力を乞う話に持っていくことは、俺にはできないと思っていてほしい」
これは正直な気持ちだった。カーレン相手にうまく情報を引き出すなんてことは、恐らくレイにはできない。ほんの二か月前に、クラウスの隣に立てるようにと、自身を奮い立たせて諜報活動の真似事などしてみたが、結局は全て力業だった。それに、今回は知らない仲ではないというのが、余計に難しい。
「……そもそも、諜報部という環境が俺に向いてはいないんだろうな」
自嘲気味にそう呟くと、レイを抱きしめている腕に力が入った。密着する体温と、温かいクラウスの魔力に包まれながら、レイは顔を上げることができなかった。
「レイは、良くも悪くも“まっすぐ”だ。他者に危害を加えることを憂う優しさを持ち、独りで目標に向かう強さを持っている」
クラウスの唇から零れる過分な言葉に、レイは思わず固まった。まるで聖人君主のように褒めちぎり始める恋人の目は、至って真面目だった。
「しかし、危険を顧みず、自身を削るように寄り添う姿は、時に無謀さを兼ね備えて見ているこちらの寿命を縮める」
「……ん? 苦情か?」
レイが半眼になりながらクラウスを見やると、ふっと小さく笑って頬に軽いキスを落とされた。
「実力や適正とは、確かに別だろうな。向いている向いていないはあるだろう。だからといって、自身を過小評価する必要はない」
降り注ぐ慰めの言葉を、レイは素直に受け取るべきか否かを迷ってしまった。結局は向いていないということなのだろう。彼の優しさだけを受け取って、レイはその事実を胸にしまった。諜報部としてではない形で、彼を支えるだけの、隣に立つだけの価値をいつになったら持つことができるのだろうか。
目先の成果に惑わされてはいけないのは分かるが、単に彼を助けるのに、力が不足しているという事実も歯痒い。――早く研究に入りたい。何かに没頭さえ出来れていれば、そんな無力さも感じなくて済むのに。
レイは無意識にため息を吐き、天井を見上げた。今日はなんだか心に靄がかかることが多い気がする。あのくそ野郎の一件のせいですっかり忘れていたが、カーレンと話した時はこうやってクラウスに甘えてしまいたいと思ったのに、いざ甘えられる段になっても、別件で結局気分が重くなる。なんだろうか。魔力のコンディションでも悪いのだろうか。魔力の相性がいいクラウスの腕の中にいるにもかかわらず、そうなのであればよっぽどだ。
指先から魔力を微弱に放出し、何か文字でも書きながら観察でもするかと考えたが、何を書くかを迷った。取り留めもなく、空中に魔力で「クーランス」と書いてみると、クラウスがくすりと笑ったのが分かった。その反応だけでも、少し気持ちが晴れる。
「偽名の由来は?」
「実名に近い方が、呼ばれたときに反応が鈍くならない」
「なるほどな」
問いかけると、簡単に彼は答えてくれるが、そんなに簡単に答えてくれていいんだろうかと時折不安になることがある。いや、問題ないことぐらいしか話してないのだろうと思いたい。
宙に書いた文字を一部消して「クルゥ」にすると、クラウスが小さく息をのんだ。不思議に思ってクラウスの顔を見ると、懐かしいものを見るように目が細まり、愁いを帯びた藍色がほんの少し揺れていた。そのままじっとクラウスを見つめていると、こちらの視線に気付いたのか、クラウスが苦笑しながら口を開く。
「……呼んでくれるか?」
その小さな懇願に、レイはクラウスの瞳を見ながら、小さく「クルゥ」と呼んだ。まるで返事をするように、ゆっくりと寂しそうな唇が降りてくる。唇を重ねて、レイはクラウスの頬の傷に触れた。――おそらく、かつて彼をそう呼んだのは、この傷をつけた張本人なのだろう。今も尚、彼の実母ががつけた傷は、クラウスの中に深い根を下ろしている。時間とともに癒えていくだろうその傷も、癒えきるまでに何度膿んでは彼を傷つけることになるのだろうか。
深く重なった唇が、名残惜しそうに離れていく。しかし、彼の瞳には、レイを映す慈愛の色しか見えなかった。
「傷を……」
頬の傷に添えたレイの手にクラウスの手が重なり、ぽつりと呟くように放たれた言葉に、レイは目を見開いた。
「――傷を、治せるか」
その言葉に、レイの心が震えた。泣きたいような、叫び出したいような、形容しがたい気持ちが溢れる。それをぐっとこらえて、レイは不敵に笑ってみせた。
「言っただろ? 全力で治してやるって」
力強くそう言うと、クラウスが笑みをこぼした。二人で微笑み合ってから、レイは「よし」と小さく呟いて、勢い良く立ち上がった。やることが定まると、気持ちが前を向く。あぁ、早く帰りたい。オルディアス王国へ――。
刹那、レイの通信魔法機器が、メッセージの受信を知らせる音を出した。ポケットから手のひら大の通信魔法機器を取り出すと、新着メッセージがあることを知らせるランプが点いている。手を翳すと、宙に投影される画面に浮かぶのは、カーレン・フォーリォルの名前。クラウスにも見えるようにメッセージを開くと、二日後の日程で店を押さえたとの連絡だった。
すぐさまクラウスが、自身の小型通信魔法機器を装着し、耳の後ろを指で軽く叩きながら、音でこちらの状況を伝え始める。レイも通信相手であるケリーの声を聞くために、小型通信魔法機器を耳に付けた。
――マディとサマンサの救出作戦が動き始める。レイは、緊張で指先が冷えるのを感じながら、通信魔法機器を軽く叩いた。
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