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第88話 嵐の前の
「厭味かな?」
レイは、昨日の夜にクラウスの頬の傷痕へ塗布した薬の効果を、陽の下で確認しながらタウンハウスの玄関前で馬車を待っていた。突然後ろからかかったマルキオン教授の言葉に振り向くと、教授はじろりとこちらを睨みつけているのが見える。
「何がです?」
意味が分からなくてそう聞き返すと、マルキオン教授は周りに人がいないことを確認してから、深いため息を吐いた。
「……充実した“音合わせ”だったようで?」
その言葉に、レイはハッとして顔を逸らした。――音合わせ。それは、調律を表す隠語だ。
結局、昨日は夕食も取らずに二人で調律に入った。レイとしては、調合さえできれば調律の必要性を感じていなかったし、件の魔物 由来の素材から有効成分を抽出する工程も、調律を行わなくても無事に果たせた。にもかかわらず、一度レイがクラウスに期待を持たせてしまったがために、スイッチが入ってしまったこの美丈夫に押し切られる形で調律が始まってしまった。
だが、先日のあのくそ蛆虫短小野郎との言い合いで、レイが「婚約者の大きさは困るぐらいだ」と発言したことを、クラウスが気にしていたことも発覚し、まぁ悩みは解消できたようで良かったも面もあった。
ただ、魔力の調子などを感知する能力のないマルキオン教授が、レイ達を見ただけで調律をしたことが分かるというのは、問題だった。
「いやぁ、なんでバレますかね」
「だから! 君はめちゃくちゃ分かりやすいの! ツヤッツヤなの!」
レイはマルキオン教授の指摘に、自分の頬を包み込むように触った。寒く乾燥した空気の下で、驚くほどの水分量と滑らかさを感じる。美容に全く興味のないレイが、肌を磨いたわけでもないのにこれでは、ぐうの音も出ない証拠かもしれない。
「こっちは、社交界シーズンの準備と学会で全く会うことすらできてないって言うのに!」
マルキオン教授の嘆きと八つ当たりを受けながら、レイは心の中でサルベルト教授を恨んだ。
学会が終わると同時に、レイとマルキオン教授は急いで馬車に向かった。一人は、この後のカーレンとの待ち合わせ前に一度着替えるためであり、もう一人は、ただ寒さに耐えられないからである。その後ろを追随するクラウスは、先日市場からの帰宅途中に絡んできた破落戸たちの件もあり、周囲への警戒を怠っていない。そこまで気を張っていて夜までもつのだろうか、とレイは心配にもなったが、こういったことには慣れていると言ったクラウスを信じて帰路についた。
馬車を降りて世話になっているタウンハウスの前に立つと、レイは薄暗い空を見上げた。空の雲行きが怪しい。肌がざわつくような嫌な空気が風に乗って流れてきている。
「……レイ?」
クラウスに声を掛けられて、レイは首筋を撫でる嫌な風を拭い去るように手で擦りながら玄関に入る。クラウスがじっとこちらを見てくるので、小さく「なんでもない」と視線に応えた。それでも尚、クラウスがレイを見ながら呟くように言い放った。
「見えるところに付けた覚えはないが」
誰がキスマークを気にしていると言った誰が! いや、むしろ朝姿見で確認したところ、いつもほど大胆なつき方はしてなかったように思っていたが、もしかしてレイには気付かないような箇所に付けられているのだろうか。
思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込んでじっと睨みつけると、クラウスが軽く笑いながら「冗談だ」と返してきた。
「緊張していたようだから、つい、な」
付け加えるようにそう言ってきたクラウスを呆れたように見つめ返し、レイは肩をすくめて見せた。今から諜報部からの依頼で動くことになるレイを気遣ったのは分かるが、全くもって笑えない冗談だ。
「しっかりサポートしてくれたまえ、“クーランス”殿」
わざとらしく腕組をしながらクラウスを偽名で呼び、ニヤリと笑いかけると、クラウスもニッと唇を吊り上げた。
「承知いたしました。レイ“様”」
「うわ、薄ら寒い」
腕組をしていた手で体を摩るようにしながら自身にあてがわれた部屋へと向かった。衝立の向こうで鞄の中から護身用の銃を取り出して、弾倉を確認した。ひんやりとした空気が弾倉から微かに漂ってくる。オルディアス王国を発つ前に、なんとか彫金士を呼ぶことができたのは不幸中の幸いだった。
今回のザルハディア王国への切符を握っているのがレイだけだったということもあり、諜報部から魔法技術部へ即対応依頼が入ったようだ。前回魔法薬入りの弾丸を作る手伝いをしてくれた張本人と魔法技術部部長補佐であるフェイラーが一緒にやってきたときは「やっぱりな」と思わず呟いてしまったし、開き直るように彫金士からは「魔法技術部のハリスです」と名乗られたのだから、こちらの毒気も抜けてしまった。
事前にラーディーンが用意した他言しない旨の宣誓書をハリスに叩きつけながら、「勝手に作ってないだろうな?」と脅すと、にこやかに「やってないでーす」と軽く言われた時には、自分の技術はそこまで重要視されていないのかと自尊心が少しばかり傷ついた。しかし、フェイラーから「技術提供はいつでも受け付けている」と言われたときには、にっこりと笑みを浮かべながら「レーヴェンシュタイン公爵領で魔法薬研究所を立ち上げた暁には、正式に研究所を通して依頼を」とやんわり断った。
着ている服を脱ぎ、前日にハンガーにかけておいた服に着替えた。夕方の寒くなる時間のため、襟元にささやかにフリルがあしらわれたシャツに、厚めの生地のスラックスをサスペンダーで吊り上げ、同生地のベストとコートを着用する。
姿鏡の前で服に着られている自分を見ながらため息をつき、レイはスラックスに銃を差し込んだ。背に当たる感触がひんやりとして震えるが、致し方ない。
ちょうどその時、部屋にノック音が響く。どうぞと声をかけると、クラウスが部屋に入ってきた。着飾っているレイを見て、クラウスが一瞬細い目を更に細めたのを、レイは見逃さなかった。もともとはベイストン先生と会うために持ってきた服装だ。それよりも前にお茶に呼ばれることがあるなど想定していなかったため、これ以外に出かけられるような服が無い。貴族の旅行の荷物が多いのは、こういう想定外に対応するための余分な荷物のせいなのだろう。
クラウスが何も言わず、テーブルの上に広げられた小物の中からリボンを一本を選び取ると、櫛を片手にレイの背後に回った。姿鏡に映るレイの髪を梳かすクラウスを見ながら、レイは静かに微笑んだ。クラウスが選んだのは、藍色の生地に金糸で縁取られた煌びやかなリボンだった。荷造りを手伝ってくれたメイドが、どれを持っていくかと出してくれたものの一つで、レイが知らない間に増えていた一本だ。あの手この手で着飾らせようとしてくるクラウスに、レイが毎度「不要」と断るものだから、“いつの間にか”こういったものが増えていく。
本来なら、鏡越しに見えるクラウスの髪の毛は、リボンの装飾に使われているものよりも美しく光る白金髪のはずだった。しかし、カーレンと関わる可能性があることを考え、今は黄みがかった土気色に染められている。
シュッとリボンが結び終わる音を聞いて、レイは鏡越しにクラウスの目を見た。藍色の瞳が満足そうにこちらを向いており、思わず笑みが零れた。
「無くさないか心配だ」
「また贈る機会をもらえるのであれば、それも吝かではない」
「言ってろ」
鏡越しに軽口を言い合って、笑い合う。これもきっと、クラウスが気を利かせて場の空気を和らげようとしてくれている。こんなに心根が優しい奴が、何故諜報部なんかやれるのだろうか。レイは心の中で首を傾げた。
現地の予約時間には間に合いそうだが、いきなり怪しくなった雲行きのせいか、道が混んでいる。既に目と鼻の先にある『フォレ・ジヴォワ』の看板と白い縁取りがされた艶やかな青色をしたオーニングを見ながら、レイはクラウスを見た。
「歩いて――」
「行っていいと思うか?」
言葉尻を奪うように間髪入れずにそう言われると、レイは大きく息を吐きながら馬車の外を見た。これだからお貴族様は面倒なのだ。
この距離でも、歩いてはいけないのには理由はある。一つは安全面の問題だ。貴族は貴族というだけで誘拐や襲撃の危険を伴う。馬車の中の方が安全であるし、この少しの距離を歩いただけで、スリに狙われる可能性だってある。他にも、身分制度の観点からいうと、“せっかちなのは下の者の性”と言われており、全く推奨されていない。これぐらいの距離も待てないようでは、大事な局面で急いて事を仕損じるという考え方だ。あとは、今回には当てはまらないが、例えば夜会や観劇などで着飾った場合に、通常女性のドレスは裾が長く、少しの道でもカーペットが敷いていないようなところは歩けないなど、多々面倒ごとが多いのだ。
窓の外は、行政地区と商業地区が近いためか、比較的綺麗な街並みをしていた。数年以内に建てられたり塗り直されたりしたのだろう建物が多く、色合いも華やかだ。おそらく、食事処が集まっているという理由もあるだろうが、結局は『金持ちが金を落としやすい』ということなのだろう。だが、それも今朝ぐらいの晴れ間なら楽しめた景色だ。今は、どんよりと厚い雲が空を覆い、影が差して見える。
「レイ、確認だが」
クラウスが手の中の小瓶に視線を落としながら、頭を抱えるように苦々しく口を開いた。
「……この隠密魔法薬の効果は――」
クラウスが口に出した瞬間、レイはうっと胸を押さえた。その行動に、クラウスは一度深くため息を吐いてやれやれと顔を振った。
「この『穴だらけの確立されていない隠密魔法薬――」
「カッコ仮」
「……(仮)』は……そこまで卑下する必要を感じないが」
クラウスが諦念を滲ませながらレイを見るが、レイはじっとりとクラウスを見ながら呻くように答えた。
「こんな……こんな未完成品を使わせて、何か事故でもあったら……できるなら本当に使わないで欲しい」
「既に自分で実験しているのに何を言っているのか……」
レイの懇願すら跳ね除けて、クラウスは再び手の中の靄が浮かんだ茶色い液体に視線を落とした。
これは祖父デリンの研究所に潜伏していた時に、依頼をかけたはいいが、遅れて届いた材料をもとに作ったものだった。研究所が発足した暁にはきちんと研究しようと思っているが、材料の保管の関係でとりあえず前と同じレシピで作り、ラーディーンに見せたものだった。その時のラーディーンの顔の引き攣りようはなかったが、まだ完成していないと言うと、むしろ安堵の色を浮かべたのが解せない。
伝説の魔術師ルミアが台頭するまでは、世界一の魔術師と謳われていた『王の秘術官』タールマン=ギースに言わせれば、この魔法薬は隠密魔法では消えているはずのものが消えていないという。それが、匂いだ。匂いなど、体臭もそうだがその日に食べた物も一人ひとり使っている洗髪剤すら違うのに、どうやって消せというのだ。生活魔法と言われているような簡単な洗浄魔法すら魔法薬化していないのに!
なかなか動かない馬車の中で、レイは諦めたように座席の背もたれに体を預けた。
「俺が納得いってない」
呟くように言うと、クラウスが真剣な眼差しで見つめてくる。
「むしろ、こんな有用なものを、よく今まで私に隠していたと感心しているよ」
「俺から奪い取っておいてよく言う……お前には無用の長物だろ?」
睨みつけても、クラウスの真顔は崩れなかった。準備していた鞄の中に、万一の際に使えるかもしれないと忍ばせたのを目ざとく見咎められ、そのまま取り上げられてしまった。その『穴だらけの確立されていない隠密魔法薬(仮)』は、今はクラウスの手の中にある。
クラウスはその魔法薬を二本持ち上げ、顔の高さに掲げて魔法薬越しにこちらを見つめてきた。
「大きな魔法の発動は察知される。しかし、魔法薬の発動にはそれがない」
クラウスが語ったこの魔法薬の良い面だけの話に、レイは眉を顰めた。
「奇襲するには確かにいいだろう。だが、この薬は発現までにタイムラグがある。俺の場合で効果の発現はおよそ五分後。そして、効果が切れるまでの時間は、飲んでからおよそ一時間。効果切れの前触れなんてないし、お前が使った場合にどれくらいもつかも分からない。そして、途中で解除したくても解除ができない」
デメリットを並べ立てても、クラウスは眉一つ動かさなかった。伝わらない危険性に、レイはそのまま続ける。
「……“俺で”たった一時間だぞ? お前はもっと短い可能性だってある。カーレンとのお茶の時間がどれくらいかかるかも分からない。それなのに、お前が姿を消して個室に潜入し、突然表れでもしたらどうする!」
クラウスが懸念しているのは、まさにそれだった。護衛が個室の中まで入れるかどうかがわからない。部屋の外で待つように言われた場合に、レイの身に何かが起こってしまったら――。そう考えた上で、この男は危険を顧みずにこの魔法薬を使用すると言っているのだ。
「その時は、うまくやる」
何をだよ。何の安心材料にもならない断言にレイが頭を抱えた時、馬車がゆっくりと動き始めた。
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