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第92話 ハンカチ
店の奥から聞こえる叫び声は留まることを知らず、店内は騒然としていた。注文をキャンセルして帰ろうとする客と、会計が遅い店員に暴言を吐いてそのまま店を出ようとする客を引き留める店員。苛立ちと混乱を極める中、ケリーはぼそりと「まずいな」と呟いた。
聞こえる叫び声はだんだん近づいてきており、音ははっきりと聞こえるのに、その声は言葉を成しておらず、何を言っているのかが分からない。まるで酩酊しているかのような男の罵声と、金切り声を上げる女の悲鳴。
ケリーは左耳に貼り付けていたガーゼごと小型通信魔法機器を剥ぎ取ると、ダイアルを回し、自分の声が入るよう設定を切り替えた。
「クラウス。地下で何かトラブルが起きたらしい。一階は混乱に陥っている。落ち着くまでそこから二人を絶対に出すな。避難が必要なときはまた連絡する」
囁くように呟くと、自分の小型通信魔法機器の魔力石を乱暴に叩き、電源を切った。
「コリント。状況把握は任せた」
「人のことを馬鹿扱いしておいて、自分は阿保抜かすじゃん」
電源を切った小型通信魔法機器をコリントに投げ渡しながら、ケリーが言い放った言葉に、コリントも負けじと言い返す。コリントは分かっていた。このケリーという男がこういう行動に出るときは、前線に出る時だと言うことを。
「アンタ、足折れてるの忘れてない?」
そう言うと、ケリーはにんまりと笑ってのけた。
「先生の薬、効きすぎててなぁ。冷えて痛覚も感じねぇわ」
ケリーの不敵な笑い方に、コリントは睨みつけた。
「……濡らしたのか」
「あたり」
へへっと笑い声をあげるケリーに、コリントは盛大にため息をついた。痛みを感じなかったら動きだす患者程、困った奴はいないだろう。
「痛みを感じないからって、そっちの足で踏ん張ったり蹴ったりするなよ」
こうなったら梃子 でも動かないケリーに呆れながら、コリントがそう告げた。
その刹那、奥の部屋へ続く扉の蝶番ごと、扉が外れて倒れたのが見えた。大きな音と共に扉が床を打ち、棚が倒れ、恐らく吹き飛ばされた店員が床に転がった。
奥の部屋に一番近い席にいた客が、悲鳴を上げながら一気に壁際に押し寄せる。流石に店員も金の回収を諦めたのか、店の外へ通じるドアを開け放った。
出口に人が殺到する中、ケリーは外れた扉の近くで気を失っている店員に駆け寄った。
「おいっ! しっかりしろ!」
カタコトのザルハディア語で話しかけても、完璧に伸びてしまっている店員から反応はない。流血があるわけではないが、額に打撲痕がある。
ケリーは先ほどまでは扉がついていた通路の奥へと視線を走らせた。
暗い通路の先からは、いまだに罵声が聞こえる。呂律が回っていないのか分からないが、「あっち行け」「こっちに来るな」と言っているように聞こえる。更に奥の方からは、女性の金切り声が響いている。
ケリーが気絶している店員から離れ通路を覗き込むと、目算で五メートルほど先に地下へ降りる階段がある。その手前には、はだけたシャツの男が、壊れた椅子の足でぶんぶんと空を切っていた。痛みを感じていないのか、男の手は流血しており、左手の指はあらぬ方向を向いている。
――薬物中毒 か。ケリーはため息を吐いて、辺りを見回した。怪我人である上、下手に動くとコリントに叱られるし、体術で制圧すると身分がバレて面倒なことになる可能性もある。となると、武器になりそうなものを見繕う必要がある。
辺りを見渡すと、吹き飛ばされた店員が倒した棚から多数の零れ落ちたカトラリーが床に散らばっているのが見えた。しかし、あまり殺傷能力が高いものを使ったことで、勢い余ってもしものことがあったら困る。
ケリーは綺麗に磨き上げられた銀色の丸いトレイを拾い上げた。軽い上に丈夫で、これは当たったら痛そうだ。ただ、接近戦をするとしたらあれの近くに行かねばならない。それは少々厄介だ。
踏ん張れるのは片足だけ。だが折れているのは中足骨。踵は無事だ。ケリーは折れている足の踵だけで器用に立ち、反対の足で踏み込むと、銀色のトレイを振りかぶった。ただの身体能力だけじゃ、少し足りない。呪われた魔力をわずかに練り上げ、全身に走る魔力回路の痛みを根性でねじ伏せる。たった一瞬、指先のみに一点集中して身体能力強化魔法を行使した。
ヒュンッと空を切るような音を上げながら、目にも止まらなぬ速さで銀色のトレイが宙を横切る。次の瞬間、カイーンという音を奏でながら男の額にトレイがぶち当たり、男が仰け反って後ろに倒れた。それを追いかけるかのように宙に弾かれたトレイが床の上に落ち、ぐわんぐわんとけたたましい音を立てながら回って止まった。
奇声を上げていた男が気絶したことで、聞こえる声は女性の金切り声だけとなった。
一歩前に踏み出すと、全身にひびが入ったような痛みが走る。呪われた魔力を使うことによる弊害は覚悟していたが、動かしづらいことこの上ない。
「……ちょっと」
後ろからコリントの不機嫌な声が聞こえて、ケリーは笑みを貼り付けて振り返った。その振り返る行為すら煩わしい程痛い。
ケリーを見るコリントの視線は鋭く、明らかに魔法を使ったことを怒っている。しかし、コリントの後ろには、遠巻きにこちらを見ている客や店員の姿があり、それ以上の苦言は出てこなかった。
再び視線を通路へ戻し、痛む全身を鼓舞しながら歩を進める。床に伸びている男の脇に転がった、少し歪んでしまったトレイを拾い上げ、そのまま階段へと進む。反響する女の金切り声を聞きながら、ケリーが階段をそっと一段降りた――その瞬間だった。
結界を通り抜けるような感覚と共に、先ほどまでは感じなかった、むせ返るような甘い匂い。全身の毛穴からジワリと汗が滲むのを感じ、ケリーはそのまま一歩後退した。階段の上では先ほどの匂いは感じない。結界が遮断して一階にはこの匂いの元を流出するのを防いでいるのだろう。階段を注意深く見回すと、確かに細い線のような文字が壁に彫り込まれているのが確認できた。その文字で出来た線は階段と通路を区切るように床から天井までぐるりと伸びている。
ケリーは、自身の首筋に残る嫌な感覚を手で拭い去るように撫で上げた。全身の痛みが少し和らぎ、僅かな高揚感を感じる。ほんの少し嗅いだだけの甘い匂いによるものだ。
「……こりゃぁ、先生案件だぜ」
ケリーは階段下から聞こえる女性の金切り声を聞きながら、独りごちた。
宣誓魔法とは、自戒の魔法だ。解く場合には、宣誓時に使用する自戒内容を記した宣誓書を回収し、宣誓した者が破棄することでやっと解除することができる。しかし、今回のように制限時間を設ければ、宣誓者が宣誓内容を破らない限り、制限時間が経てば自動的に解除される。
手帳から破り取られたまっさらな紙に、カーレンの綺麗な字で宣誓内容が書かれていくのを、レイは沈んだ気持ちで見守っていた。カーレンの必死さが、レイの心に重くのしかかる。
ペンが置かれ、カーレンの白く細い指が紙を摘まんでレイに掲げてくる。内容に間違いないかと見せてくるカーレンに、レイは静かに頷いた。
カーレンは深呼吸をして、気持ちを整えてから簡易的に作成された宣誓書に手を翳した。掌から赤紫色の魔法陣が現れ、ゆっくりと紙面に落ちると、宣誓書にカーレンの名前がしっかりと刻まれた。
「――効力開始」
呟くように宣言された効力の開始に、宣誓書に刻まれた魔法陣が淡く光を帯びた。今から三十分間、カーレンは全ての問いに嘘偽りなく答えなければならない。
レイは深くため息を吐き、唇を開いた。
「……カーレン。君にとっては思いもよらないことを、きっと俺は聞くだろう。覚悟して。いいね?」
そう前置くと、カーレンはこくりと頷いた。その表情は緊張で強張ってしまっている。
レイは眼鏡を外し、目頭を揉んでから、再びかけ直した。
「君は……クラウスの母親が、レーヴェンシュタイン公爵家で何をしたのか、知っているか?」
質問を抽象的にすることで、相手がどう判断したかが分かる。たとえそれが、自身に好意を向けてくれた相手だったとしても、レイは冷静に対処しなければいけなかった。しかし、緊張で声は掠れ、少しでも窓を叩く雨音が大きくなれば、いとも簡単に聞こえなくなってしまうだろう音量しか出せなかった。
行使した宣誓魔法の条件が曖昧であればあるほど、こういった時にグレーゾーンの線引きが難しくなる。そう、見当がついているものについて答えればなんら問題が無いことでも、それが後ろ暗いことだった場合に誤魔化したくなるものだ。――見当がついているにもかかわらず、「何かとは?」と聞き返すことが、果たして嘘偽りなく答えることに抵触しないか。それはリスクを取らないと分からない。
レイが口にした質問は、隣のクラウスの魔力をわずかに揺らし、カーレンの表情を凍らせた。そして、そのカーレンの表情が、『見当がついている』ことを示唆していた。
カーレンの浅い息遣いが聞こえる。だが、ここで助け舟を出すわけにいかない。レイは、ただじっとカーレンの揺れる双眸を見つめていた。
カーレンの喉がぐっと締まり、視線はそのまま下がった。
「……私が、思うことであっているなら」
絞り出された言葉に、レイは深く息を吐いて目を閉じた。うまい返し方ではある。だが、知っていると認めた以上、次の質問への仇となる。
「誰の指示だ?」
より具体的にする質問。それは、逃がさないという意思表示でもある。
「っ……私の、祖父……」
カーレンの眉が寄り、険しい表情を浮かべながら、唇が震えているのが見える。黒幕はフォーリォル侯爵。――つまり、クラウスの母親の裏切りは、婚姻時から仕組まれた計画だった可能性がある。
この話をクラウスがどんな気持ちで受け止めているのか、それが気になって仕方ない。カーレンと同じように、レイの呼吸もまた細くなっていた。
「フォーリォル家は、何を探ろうとしていた?」
「知らない」
「レーヴェンシュタイン公爵閣下の暗殺計画はフォーリォル家の発案か?」
「知らない」
「クラウスの母親が流した情報はどこにある?」
「知らない!」
カーレンは自身の袖のレースを固く掴んで、まるで凍えているかのように震えている。今にも零れ落ちてしまいそうなぐらい、目尻には涙が溜まっているのが見えた。
「……俺を夕食に誘ったのは、レーヴェンシュタイン公爵家の何かを探るためか?」
レイが震える声で紡いだ質問に、ひゅっとカーレンが息を呑んだのが分かった。この質問をしたレイ自身も、これは堪えた。とうとう目尻から零れてしまった涙は、頬の頂きを通り、ゆっくりと彼女の白い肌に跡を残していく。
「……違うわ」
何かを諦めたように、カーレンが沈んだ声でぽつりと呟いた。彼女の瞳は暗く、まるで出会ったばかりの憔悴しきった彼女のようだった。
レイは、その光景を目に焼き付けるように見ていた。ここで目を逸らしては、彼女の心に傷をつけた人間として、卑怯に思えた。――この質問は、しなくても良かったものだった。何故ならその答えは、分かりきっていたはずだから。
「……悪かった」
謝罪を口にして、レイは一度大きく息を吐いた。もう彼女と視線は合わない。だが、罪悪感を抱えるのは後だ。時間が惜しい。
窓を叩く雨音が強くなる中、レイはぐっと自分を奮い立たせて、次の質問を投げかけた。
「西エリアに住んでいるので、あっている?」
「……はい」
カーレンの暗い声音は、叩きつけるように降り始めた雨の音にも負けずに、はっきりと聞こえた。心が折れても尚、こちらにも届くようにきちんと伝えようとする意思を見せるカーレンの誠実さに、胸が痛む。
「……魔力に不調は?」
細い肩がびくりと震え、暗い瞳がすっと前を向いてレイを見る。その表情が、どこまで知っているのかと尋ねてきている。
「…………は、い」
長い沈黙の後に、掠れながらも鼻にかかった声で、カーレンはそう言った。ぐっと堪えていたのだろう、大粒の涙が両の目からするするとこぼれ落ちていく。
「すまない……呪われているのに、魔法を使わせてしまった」
再び謝ると、カーレンは大きく顔を横に振って、嗚咽を堪えながら吐き出すように言い放った。
「レイ……お願い……助、けて……」
俯いた彼女の瞳から溢れる涙が彼女のレースのスカートに染みを作っていく。レイは立ち上がって、ハンカチを取り出すと、カーレンにそっと差し出した。
「俺ができることなら、力を貸すよ。知っていることを、俺に全部教えてくれるか?」
涙に濡れる赤い瞳がレイを見る。か細い声で、「はい」と答えたカーレンは、レイのハンカチを握りしめた。
――こうやって、カーレンがハンカチをもらうのは二度目になる。初めてもらったハンカチは恋心を、二度目にもらったハンカチは失恋を連れて来た。それでも、変わらず隣にあるのは、あたたかな安心だった。
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