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第97話 小さきもの

 ――つくづく思い知る。自分は守られる側であるという、事実。結界を張ることもできない。対処するだけの魔力回路を持たない。抗うだけの力を持ち得ない。この無力感。  その中で、レイは咄嗟に腰に差してあった拳銃に手をかけた。クラウスが張った上級結界に真っ向から対抗するような相手に、中級攻撃用魔法薬如きが通用するわけがないのに。  必死の形相でクラウスがレイに手を伸ばし、覆いかぶさるように背に腕を回してくる。結界が砕ける音の直後、屋根を突き破って飛来したものを、レイはクラウス越しに見た。  雨に濡れても尚、鮮やかに見えるそれは、一言で形容するには難しく、あまりにも美しかった。  そこからは、まったく何も考えていなかった。ただ反射的に銃を構え、崩れた屋根と結界の破片が舞う中、それに向かって引き金を引いた。――そこにあったのは、ただの恐怖でしかなかった。  狭い空間に響く発砲音。眼前まで広がる魔法薬の、肌を刺すような冷気。屋根に空いた大穴のおかげで雨が入り込み、魔法薬がそこまで広く散布されなかったのは、結果的に見れば幸運だったのだろう。  雨が魔法薬の収束を妨げる。本来の威力の三分の一程しか効果を発しなかった氷属性の攻撃用魔法薬は、標的とカーレンのスカートとクラウスの脚を巻き込んで氷柱を形成した。  ギャォアッ!  苦しむ鳴き声と低く重く打つ自身の鼓動の音を聞きながら、レイは肩で息をした。屋根が壊れたために魔法機構が壊れたのか、馬車の中は外気が入り込んで一気に冷え込む。寒さでなのか恐怖でなのか、震える手で持っている拳銃が小さくカチカチと部品を鳴らした。 「……ぅっ」  小さく呻くクラウスの声に、レイははっとして視線を動かした。 「ご、ごめんっ!」  慌ててクラウスの足元に向かって魔法を行使しようと魔力を練り上げる。しかし、それをクラウスが手で制した。氷の中に閉ざされた自身の足を見て、クラウスはそのまま手で空を薙ぐ。まるで見えない刃でも入ったかのように氷に線が入り、クラウスの足とカーレンの足元を封じていた氷が一気に砕けて落ちた。  氷から解放された二人が、形成された氷柱の中で蠢くそれを見つめる。 「……嘘でしょ」  カーレンが震える唇で、そう溢した。  透き通った氷柱の中をもがいている『鱗』が発している色を、“緑色”と形容するか“茶色”と形容するかは、賛否が分かれるところだろう。  ――アースドラゴンを描く絵画は、大きく分けて二種類ある。それは、緑色で描かれているものと、茶色で描かれているものだ。アースドラゴンの鱗は、光の反射で緑色にも茶色にも見える。どちらも幻想的な光沢のある発色であるために、図鑑での記載では併記されることが多い。こういった二色以上を有する鱗を持っているドラゴンは、アースドラゴンだけだった。  クラウスがレイをかばうように氷柱の前に身を乗り出しているが、それを押しのけるようにしてレイは氷柱に触れた。 「レイ!?」  クラウスが止めに入ろうとするのを片手で制して、氷柱に魔力を流し込み、分解していく。氷属性の攻撃用魔法薬の中身や構成は、作った本人が一番理解している。するすると氷が溶けていき、小さきドラゴンの翼が氷の中から出てきた。 「ごめんよ。痛かっただろう。こちらに敵意はない。頼むから大人しくしていてくれ」  こちらの言葉を理解したように、アースドラゴンは藻掻くのをやめ、細い金色の光彩で氷の中からレイを見据えていた。完全に氷が溶け消えると、ドラゴンは一度ゆっくり羽ばたき、そのまま宙に留まった。  変わらず、金色の瞳がレイを見据えている。それに応えるように、レイもまたアースドラゴンの瞳を見ていた。  小さきドラゴンの大きさは、両手で抱えられるほどしかなかった。ドラゴンの発育は非常に遅く、これぐらいの大きさだと、恐らくまだ生まれて数年しか経っていないだろう。それでも、人間の言葉を理解するだけの知能を有し、クラウスの上級結界を破壊することができる力の持ち主である。 「なんでこんなところにアースドラ――」  カーレンが口を開いた瞬間、小さきアースドラゴンは咆哮をあげ、カーレンにとびかかろうとした。突然の敵対行動に、レイはそのままアースドラゴンに手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめた。 「待て待て! 落ち着け! ――クラウス!」  レイの一言に、クラウスはすぐさまカーレンに上級結界を張った。結界の中で、頭を抱え身をぎゅっと縮こまらせていたカーレンが、ゆっくりとこちらを覗き見ている。  アースドラゴンは、結界に閉じ込められたカーレンを見ると、途端に大人しくなった。しかしながら、視線はずっとカーレンに向いており、警戒を解いていないことは明らかだった。  どうしたものか。そう思案していると、ぽっかりと空いた屋根の穴から、御者がこちらを覗いてきた。 「えっと、大丈夫ですか……?」  控えめにこちらに聞いてきた御者に、誰も答える言葉を持ち合わせていなかった。  雨の中、流石にこのまま馬車を走らせるわけにもいかない。御者が新しく馬車の手配をしている間、一行は近くのカフェに入った。少し敷居が高い店のためか、ずぶ濡れの用心棒(クウス)に対する視線は少し冷めていたが、行政地区が近いためか連れの中にカーレン(侯爵家の者)がいるためか、それ以上の反感は表には出ていなかった。  雨宿り目的なのは皆同じなのか、店の中は混み合っており、あからさまではないにしろ好奇の視線が刺さる。それは、婚約破棄された侯爵家の令嬢がどこの誰と知らない用心棒を連れた男と一緒にいるという事実なのか、それとも、その連れが抱えているジャケットで隠された中身か。あるいは、その両方かもしれない。  店側としては軒先に侯爵家の者を置いておくわけにもいかないが、客席は全て埋まっており対処することもできない。すぐさま支配人がやってきて非の無い不手際を謝罪され、詫びとして立ち飲み用の背の高い丸テーブルを持ってきて香りの高いコーヒーを振る舞われた。そもそも無理を言って雨宿りさせてもらっているレイとしては、そんなことをされても恐縮するばかりだったが、さも当然といった顔で歓待を受ける侯爵家出身(カーレン)公爵家出身(クラウス)を見ていると、貴族社会の流儀に染まれない自分が場違いだということを再認識させられた。  レイは、そっと抱えているジャケットの中身を覗き込んだ。場違いなのは自分と、腕の中で眠る小さきアースドラゴンだけだった。 「その子、どうするの?」  そっとカーレンが呟いた言葉に、レイの腕の中のドラゴンがぴくりと反応した。先ほどまで気持ちよさそうに寝息を立てていたのに、カーレンが話した瞬間にこれなのだから、気が気ではない。落ち着いていたから大丈夫だろうと声をかけてきたカーレンも、不穏な気配に気付いたのか、申し訳なさそうな表情を浮かべて押し黙った。 「正直、分からない」  レイが困り顔で再びアースドラゴンに視線を落とす。腕の中の小さき生き物は、目を瞑っているが恐らく起きている。ドラゴンの生育環境がどういったものなのかは知らないが、いきなり人里に放り出すとは考えにくい。むしろ、深き森の奥に棲んでいるはずのアースドラゴンが、エルフに気取られずにここまでやってこれるというのがそもそもおかしい。  そして、レイは一つ疑問が残っていた。この仔ドラゴンがやってきた際に感じた、魔力の歪み。以前レイがタールマンに拉致されたときに感じたような、あの突然何もない空間に現れる魔力の歪みは、間違いなく転移魔法だった。しかし、この仔ドラゴンから感じる魔力の気配と、転移時に感じた深いうねりをあげた魔力は、似ているが非なるものだ。であるならば、この仔ドラゴンはわざわざレイ達が乗っている馬車の上に転移させられたことになる。  “この仔ドラゴンと似ているが非なる魔力により転移させられてきた”という事実が、何を示しているのか分からない。おそらくあれは、ドラゴンの魔力だ。それなら、ドラゴンがこの仔ドラゴンを転移させたことになる。  ずっしりと重い仔ドラゴンを持ち直そうとしていると、クラウスが両手を広げて「代わる」と言っていた。レイは逡巡したが、腕も限界だったため、有難く交代してもらった。  クラウスの腕の中に大人しく収まる仔ドラゴンを見て、レイはほっと胸をなでおろした。確かに、クラウスのジャケットを被せた時も嫌がるような素振りは見せていなかったから、恐らくこの仔としてもクラウスに対して敵対意識はないのだろう。となると、カーレンだけがこのアースドラゴンの敵と認識されていることになる。  ぎこちなく抱きかかえるクラウスを見上げると、小さい生き物を抱きかかえた経験が無いのがよく分かる。レイ自身ここまで小さな生き物と接したのは、幼少時に入ったタナート伯爵領にある魔法使い用寄宿学校の管理人が飼っていた犬ぐらいだし、自分が高学年になった頃に入学してきた小さな子供たちが、ホームシックに泣いているのをあやすぐらいのことしかしたことはなかった。  ふと、クラウスが親になった時のことを想像する。こうやって子供を抱きかかえながらも、どうあやせばいいか分からなくて表情が凍っている姿が容易に目に浮かぶ。――そんな未来は自分達にはやってくることが無いという事実に、レイはクラウスから視線を逸らした。 「カーレン。この仔については、誰にも言わないで欲しい」  レイがカーレンに向かってそう言うと、呆れ顔で返された。アースドラゴンの仔を刺激しないように声を出さず、ただ静かに頷いた顔には「言ったところで信じてもらえないわよ」と書かれていた。 「あの御者に口止めもしないと」 「既に、握らせてある」  レイの独り言のような呟き、クラウスがすぐに反応した。握らせてある、というのは口止め料のことだろう。――流石に命を握った方ではないと信じたい。  再びクラウスの方を見ると、何かを探るようにじっと藍色の瞳がこちらを向いていた。まるで先ほどの後ろ向きな思考を察知したかのように見つめてくるクラウスに、レイは咳払いを一つかまして口を開いた。 「カーレンを家まで送った後の話だが――」 「承服しかねる」  間髪入れずにそう言ってのけたクラウスに、レイは閉口した。続けようとした言葉を先読みしてだめだと言われたのか、それともカーレンを家に送り届けることを認められなかったのかが分からなかった。しかし、先ほど一緒の馬車に乗っていたのだから、カーレンを家に送ること自体、否定されているわけではないと思うのだが。  クラウスの眉が僅かに寄る。 「……君が西エリアに行くということだろう?」  耳を疑うような言葉に、レイはため息を吐いた。まさか、カーレンを送ることを許可されていないとは思ってもみなかった。 「…………さっきは送る途中だったと思っていたが?」  呆れ声のレイに、クラウスは至って平然と返す。 「裏路地で停めて、話が終わったら我々は下車する予定だった。そのように御者と段取りもしてあった」 「なっ!? 何故そんな勝手に――」  驚愕と非難を込めた言葉に、クラウスの眉間に深く皺が寄った。 「西エリアに行くことが現状どれだけ危険なことなのかは、君が一番分かっているはずだ」  クラウスの言葉は、有無を言わさない圧力を帯びていた。そして、西エリアが危険だと言い出した張本人こそレイ自身であり、その言を使って行動を制限しようとしている。 「……推測の域を出ていない」 「カーレンとその家族、西エリアで働く平民。もう状況としては充分だろう」  苦し紛れの言葉さえ、冷静にいなされる。しかし、レイは折れるわけにいかなかった。 「まだ、(ケリー)が何故“そのタイミング”で“患った”のかは不透明だ。もともと何回も西エリアを行ったり来たりしていたのだろう?」  公共の場で『呪われた』などという言葉は使えないため、婉曲的な表現となったが、クラウスの表情を見る限り伝わったようだ。そして、そのまま畳みかけるように続ける。 「それに、救出作戦の決行では、どうせ西に行くんだろう?」  そこまで言い置いて、はたと気付く。頭をよぎる恐ろしい考えに、レイは目を見張ってクラウスを見た。 「……まさか、二人を置いて行く気か?」  レイの言葉に、クラウスは動じずに藍色の瞳を向けてくる。感情を載せない冷徹な光を宿す瞳に、冷ややかな無表情。――諜報部の鉄仮面。その言葉の重みを、レイは今、肌で感じていた。  カフェの客席の喧騒が、離れているはずなのにやけに大きく聞こえる。答えないクラウスに縋るように、レイはクラウスの袖を掴んだ。そんな非情な決断を彼がすると、思いたくなかった。  クラウスの瞼がゆっくりと降り、ため息と共に持ち上がる。その時の表情は、普段レイに見せる表情そのものだった。 「――その可能性も、視野に入っているのは事実だ」  取り繕わず、言葉を選んだ恋人の姿に、レイは項垂れた。  本来なら、レイはここまで口を出すべき立場の人間ではない。何故なら、レイは諜報部に入れなかった人間だからだ。彼の隣で、彼の仕事をサポートするだけの実力を示すことができなかった、部外者だ。  自然とクラウスの袖を掴む指に力がこもる。  そもそもクラウスは、本来なら答えなくてよかったはずだ。例え相手が協力者であり恋人であっても、関係ないと切り捨ててしまえる立場にあったはずだ。――それでも答えてくれた。その誠実さは、先ほどレイがカーレンに説いた信頼の証でもあった。  だからこそ、彼を説得できるのはレイしかいない。彼がそう口にした理由を、レイは分かっていたから。 「……見捨てたくないんだろう?」  唇が震える。喉の奥に力が入る。彼が殺そうとした感情を、レイが拾い上げるのに、心を奮い立たせる必要があった。だってレイは――弱いから。  諜報部がザルハディア王国に派遣された理由が、クラウスの母・リーンが流した情報がどういったものだったのかを調べるためだったのならば、まさにフォーリォル家に潜入している諜報部員は、レーヴェンシュタイン公爵家の尻ぬぐいで動いていると言っても過言ではない。その二人を見捨てて離脱するという行為が、リーンをその手で断罪したクラウスにとって、どんな意味を孕むのか。それが、どれだけ彼に深い傷を遺すのか。例え諜報部として合理的な判断を下すことだったとしても、レイは彼の恋人として、見過ごすわけにいかなかった。 「なら、そう言えよ」  そう言って視線を上げた先にあった藍色の瞳は、痛みを湛えて揺れていた。きゅっと引き結ばれた唇が、小さく開いてまた閉じる。言葉に出すことを迷っている。 「…………レイを、危険な目に遭わせたくない」  彼が諜報部として、恋人として、合理的な判断を下そうとした理由が、まさにこれだった。どこまでもこの男は、レイに甘いのだ。  だからこそ、頼ってもらえない自分に、無性に腹が立つ。 「俺が足手まといなのは、よく分かっている」  自虐と自嘲と八つ当たり。全部を込めた一言に、クラウスの魔力が揺れたのが分かった。それでも、彼は「そんなことはない」などと言わない。そんなことを言ったところで、レイの心に響かないことを知っているから。 「……だから、頼るって決めただろう? 皆を」  なんとも格好悪い説得に、自分に反吐が出そうだ。しかし、レイはそう言うしかなかった。目の前の男がきちんと動くためには、レイの安全が絶対担保されていないといけないことを、よく分かっていたから。 「自分の感情を無いように扱うのは辞めろ。もちろん、時にはそういうことが必要なのも分かる。でも、ちゃんと足掻いてくれ」  最後のはただの懇願でしかなかった。弱く微笑みながら見上げるクラウスは、今だ迷いの中にいるようで、押し黙ったままだった。 「……なんでもスマートにこなすんじゃなくて、全部拾い上げようと泥臭く頑張る恋人っていうのも、俺は好きだけど?」  軽口に乗せて、笑みを深める。すると、一瞬目を大きく開いて、小さく笑みを浮かべながら目を閉じたクラウスは、しっかりと頷いた。 「――後で様子を見に行くのだろう? その時に、もう一度意見を擦り合わせる」  クラウスの声が、仕事の時の緊張感の欠片もない、まるでレイと交わす普段の会話のような穏やかさを帯びていて、レイはにやりと笑った。 「そうこなくっちゃ」  レイは掴んでいたクラウスの袖を離した。  きゅいっと小さく、クラウスの腕の中にいるアースドラゴンの子供が安心したような鳴き声を発し、はっと三人は辺りに視線を走らせた。どうやら誰も気にも留めていなかったようで、三人同時に安堵のため息を吐き、ははっと小さく笑い声をあげた。

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