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第104話 追憶

「――ということなんだよ……頼めるかい?」  祖母が隣で話している内容は、自身の事についてだということは分かっていたが、そんなことよりも幼いレイは目の前にある透き通るような青い巨躯に目を輝かせていた。  見上げれば吸い込まれそうな程深い夜空に輝き馳せる星々の下、息を吸えば肺が軋み痛むような冷たく澄んだ空気が満ちていた。眉も癖のある銀灰色の髪さえも凍っていたが、レイの胸に込み上げる熱い思いは、そんなことを気にする余裕など与えなかった。  絵本の中に出てくるような、蒼き竜が目の前にいる。その感動に、レイは打ち震えていた。  小さきレイには、その巨体の全貌を視界に収めることができなかった。だから、この時に目の前の蒼き竜が、どのような表情をしていたのかをレイは知らない。 『“頼む”……頼む、か……。いざとなれば力ずくで従わせられるだろうに、殊勝なことだ』  空気が震える。竜の口から降り注ぐ人の声を模したその響きは、魔力の波動であった。腹の底まで突き抜けるような衝撃に、レイは思わず足がふらついた。 「それじゃあ……意味がないだろう?」  隣の祖母の声は、いつもレイに語り掛ける時よりも低く、少し寂しそうに聞こえた。小さく笑うような声が、再び波のように体を駆け抜ける。 『ははっ! 流石に“判る”か。……しかし、この小さき者に我が加護が効くかは、保証ができんぞ』 「レイは私の孫だよ? 大丈夫さね……少し、あるべき状態に戻るだけさ。だが、くれぐれもやり過ぎてくれるなよ? それは、(ことわり)から逸脱してしまう」  釘を刺す祖母に、蒼き竜は唸った。 『簡単に言ってくれるが、そんな調整なぞやったことがない。巨人(ギガント)族に『壊さずに蟻の巣穴へ指を入れろ』と指示するぐらいに難しいことは、お前も分かっているだろう』  苦々しい響きを伴って、足の下にある深く凍った雪を震わす魔力の波動に対しても、祖母は背筋を伸ばして腕を組み、平然と立っていた。不敵な笑みを携えながら、祖母は鼻で笑う。 「絶滅した種を持ち出すところが、いかにもドラゴンらしいね。……だが、お前ならできるだろう? ヴェーゼルゴン」  皮肉と信頼を織り交ぜた祖母の言葉は、蒼き竜の声を一瞬詰まらせた。 『まったくもって竜使いの荒い奴め』  竜の左足が半歩下がり、体躯が上半身をかがめたことで、レイはやっと蒼き竜の相貌を見た。星空と同じぐらい輝く滑らかな鱗の中に、慈愛を込めた金色の瞳が見える。虹彩が人のそれとは違い、まるで魔法陣を内包しているかのようなきめ細やかさがあった。大きな金の双眸の中心にある細い瞳孔が、レイを映している。 『レイ』  名前を呼ばれた瞬間、レイは膝から崩れ落ちた。鼓動が大きく鳴って、とても苦しい。先ほどから間接的に浴びていた魔力の波動が、今度は直接降り注ぐ。その気持ち良さに、レイは酔っていた。  気持ちが高揚して、唇が震える。返事をしたいのに、舌が上手く回らない。 『どの鱗が良いか、選びなさい。なるべく、小さいのがいいとは思うが』  鱗を選ぶ。それが何を意味するのか、レイは分からなかった。 「……えらんだら、どうなるの?」  囁くぐらい小さな疑問の声でも、蒼き竜はきちんと拾い上げてくれた。 『お前に授けることになる』 「さず……?」  難しい言葉はまだ分からない。レイはそのまま隣の祖母に視線を移した。すると、苦笑しながら祖母が小さく答えてくれる。 「お前にやると言っているのさ」 「うろこを? ……いたくないの?」  レイにとって、鱗を取るという感覚は分からない。だが、瘡蓋を剥がしたときの痛みなら分かる。しかし、鱗のように体から生えているものを引き抜くというのは、割れた爪を剝ぐのと一緒なように思えた。それは、とても痛そうだ。  あどけない瞳が蒼き竜を見上げる。きらきらとした澄んだ幼い青緑色と、それと瓜二つのもう一つ瞳を、蒼き竜が見比べるように交互に見やる。見比べられた見慣れた方の瞳が、何か言いたげにすっと目を細めるのを見て、竜は幼い方に向き直った。 『痛くはない』 「ほんとーに?」 『痛く、ない』  窘めるように言っても、幼子の澄んだ瞳がじっと見つめてくる。その頑なな態度に、竜も少し考え、分かりやすく伝えるために頭をひねる。 『ほんの……本当にほんの少しだけ痛いが、問題ない』 「どのくらい、いたいの?」  心配そうに見つめてくる子供に、竜は少しだけ目元を緩めた。 『(たてがみ)を一本引き抜く程か』 「髪の毛一本抜くぐらいだってさ。ドラゴンにとっちゃ、へでもないさね」  分かりやすく言い換える祖母の言葉に、レイは腕を組んで頭を揺らした。髪の毛一本だって、無理やり抜けば痛いのには変わらない。不服ではあるが、とりあえず納得し、レイは固い雪についていた膝を掃って、立ち上がった。  凍った雪の上をよたよたと歩き、蒼き竜に近付いていく。凍った雪の表面は不安定だったが、軽いレイの体重ではびくともしなかった。  レイは、ドラゴンの爪先からなぞるように美しく蒼い巨体を仰ぎ見た。そして、幼い瞳が悲痛な表情とともにぴたりと止まる。  竜がその視線の先を辿ると、そこは胸元だった。胸元の鱗は、他の部位の鱗より幾分か大きく、厚く、硬い。しかしながら、その頑強な鱗に抉られたように傷がついたものが、生え変わりを待つように少し残っている。 「……いたかった?」  か細い声が、心配そうに響く。竜は一瞬考えるように間を開けて、ゆっくりと答えた。 『……もう、四十年程前の傷だ。とうに忘れてしまったが……なに、“へでもない”さ』  そう答えた時、竜は慈愛に満ちた目を祖母に向けていた。振り返ると、祖母は向けられた目から逸らすように、足元の雪を見ていた。その目は暗く、罪悪感が少し滲んでいた。 『さぁ、選びなさい』  蒼き竜が、レイに促す。レイは再び蒼き竜の方を向き、悩みながらも竜の足先にある鋭い爪の横に立った。分厚い足の甲によじ登り、四つん這いになりながら進んでいく。  冷えた鱗の感触は、非常に鋭く硬いのに、レイの皮膚を傷つけない。それどころか、掌から伝わる高密度の魔力の余波に、レイの心は躍っていた。  山のように盛り上がった甲の頂きに辿りつくと、心の赴くまま、レイはそっと頭を下げて、竜の甲にキスを落とした。  突然の行動に、ルミアは目を丸くしてそれを見ていた。しかし、蒼き竜は軽く膝を曲げて屈んでいたため、ちょうど膝で隠れていたレイがどんな行動をしたのかを見てはいなかった。 「……このうろこにします」  竜の足先の鱗の一つをレイは指で撫でた。竜にとっては小さい鱗でも、レイの掌ぐらいの大きさはある。 『(あい)分かった』  やっと話が進むと謂わんばかりに、蒼き竜は厳かに言い放った。まるで足の甲を掻くかのように、蒼き竜が指定された鱗をむしり取る。レイはその瞬間、蒼き竜の表情に視線を走らせたが、ピクリとも動かない表情にほっと胸をなでおろした。鱗がむしり取られた箇所は、他の鱗が重なっているため皮膚が露出しているわけでもなく、血も滲んではいなかった。 『我が愛し仔、レイよ。そなたに授けるは我が力の一端にして愛の欠片。絆にして叡智の証。人の生は儚き故に、愛でるべくして淘汰するものでなし。決して驕らず、日々を歩めよ。――そなたの生に祝福あれ!』  人の声を模した波動と重なるように、竜の咆哮がヘイムディンズに響き渡る。――刹那、竜の爪の先に貼り付いていた鱗は、青白い閃光となりレイの胸を貫いた。  不思議と痛みはなかった。感じたのは、自分の中を何かが通り抜けていく感覚と、胸の中へそっと置いていかれたような重い熱さだった。  あまりの衝撃にレイが尻もちを搗くと、祖母が駆け寄ってきた。  心配そうに揺れる自分と同じ青緑色の瞳と、皺が寄った眉間。どう言葉をかけていいか分からず、僅かに開かれた唇。抱き寄せる力強い腕の温かさ。――その全てが、レイにとっては幸福だった。祖母は、いつもこうやって自分のことを心配してくれる。だから、レイは祖母が大好きだった。  だいじょうぶ。そう答えたかったのに、声にならなかった。体の芯が熱く、指先に至るまで、まるで体の中だけが溶け始めているような感覚に襲われ、息も苦しかった。 「ヴェーゼルゴンッ!」  祖母が悲鳴に近い声を上げていたが、蒼き竜は至って冷静だった。 『案ずるな。言われた通り人が使う針の先ほどの力しか込めておらん。やり過ぎるなと言われたから、……絞るに……回路が再構築……は、――』  レイの意識が落ちていく。蒼き竜と祖母が何やら頭上で言い合っているのだけは分かるが、それを認識するだけの意識を保つことができなかった。  目を瞑れば、瞼の裏に先ほど仰ぎ見た満天の星空のような輝きが瞬いている。  ――だいじょうぶだから。しんぱいしないで、ばあちゃん。声に出せたか分からなかったが、レイはそのまま意識を手放した。  昨日、久しぶりに昔話なんてしたからだろうか。懐かしい記憶の追体験のおかげで、寝覚めは重かった。眠ったおかげで体はすっきりしているはずなのに、精神的に疲弊し、だるさが残っている。  カーテンの端から差し込む光はなく、夜明け前であることは分かった。覚醒し始めた頭で、横向きのまま動かない体をうろうろと見ると、いつものごとく、胴にクラウスの逞しい腕が回っている。背中にぴったりとくっついているクラウスの体温と、男性特有の主張現象。相変わらずの凶器具合に、レイは小さく息を吐いた。加えて今日に関しては、布団越しに腹の前にアースドラゴンの仔が丸くなって寝息を立てている。もしかしたら、この体のだるさは寝返りを打たせなかった前後の一人と一匹のせいかもしれない。  レイはそっと身をよじって、クラウスの方に向き直った。自分と共にベッドに入るとよく眠れるというこの美男は、いつもレイが起床するときには起きていることが多い。本当に眠っているのかと疑うこともあったが、たまにこうしてレイが先に起きた時に、ぐっすり眠っている姿を見ると少し安心する。  だからこそ、今のような時に起こすのは非常に忍びない。 「……クラウス。そろそろ起きろ」  小さく声をかけると、深く息を吸い込みながらもうっすらと瞼が持ち上がる。惜しむようにレイを抱きしめる腕に力を入れて体を寄せられるが、啄む程度のキスをクラウスの頬に落として覚醒を促した。  クラウスは今、護衛としてザルハディア王国に来ている。ただの護衛が婚約者がいる男と同衾しているなんて噂がたつのは非常にまずい。――その婚約者こそ、目の前のクラウスであるのが、今クラウスの身分は『銀級冒険者・クーランス』である。  不服そうに顔を歪めたあと、クラウスはゆっくり息を吐いてレイの額に唇を寄せた。 「レイは、もう少し寝るといい」 「いや、起きるよ。あの仔の朝食を調達しないと。……昨晩は結局食べずに寝てしまったからな」  レイは眠い目を擦りながら、体を起こした。  ドラゴンは、本来なら食事を必要とはしない。人間にはないが、自然界からのエネルギーを吸収して魔力に変換する器官があるらしい。しかし、その自然界からのエネルギーを取り込める場所が、ドラゴンの種によって限定されているという。アースドラゴンの場合は“森”や“土の多いところ”で、ヴェーゼルゴン率いるブルードラゴンは“雪山”だ。その自然エネルギーというのがいったいどういうものなのかは、今のところ人間には分からないものである。  確かに古い文献には、人類に友好的なドラゴンが食事を拒否した際に、当のドラゴンがそう宣ったという記述がある。だが、実際には狩りを行うための爪も牙も魔力も持っている。これは外敵から身を守るためだけに備わっているものではなく、自然界からのエネルギーが取り込めない場合に“魔力が多い生物を摂取”できるようにあるらしい。だが、良質な“餌”を摂取すると、それに依存する傾向にあるらしく、種としてはあまり推奨はしていないようだ。  アースドラゴンの幼体が、土も森もない場所にどれくらいいても問題ないのかが分からない以上、何かしらの食事を与えておくに越したことはない。 「どうしようかな……ヴェーゼルゴン様は林檎食べてたけど、この仔も林檎でいいんだろうか。キッチンにあるかな。いや、こんな時間にいきなり林檎をくれっていう客ってどうなんだ?」  まだ眠いせいで、思考が口から駄々洩れる。そんなレイの横顔を見つめながら、クラウスも起き上がった。 「……提案だが」  控えめに切り出され、レイはクラウスの方を見た。眼鏡をしていなくても、好いている人が今どんな表情をしているのかは、なんとなくわかる。おそらく、いつものあまり動かない頬の筋肉に、形のいい唇をわずかに動かしながら、褒められたいと謂わんばかりの目でこちらを見ている。 「継智の塔の周りに在る雑木林では補給できないだろうか」 「天才か?」  クラウスの提案に、レイは目を見開きながら感嘆の声を上げた。それを見て、クラウスの目元が綻ぶ。 「アースドラゴンだけが、朝食の時間をずらすことになるが……そこは我慢してもらおう」 「それが伝わればいいんだが……」  レイがそう言いながらまだ眠っているアースドラゴンに視線を落とすが、それを遮るようにクラウスがレイをベッドに押し倒した。突然の行動にレイの目がクラウスに向く。 「だから、気にせずレイも少し眠るといい。寝過ぎたら起こしに来る」 「あ……あぁ、うん。わかった」  優しく響く低音に、レイは挙動不審になりながらも答えると、クラウスはベッドから降り、音もたてずにそのまま部屋を出て行った。  遅れてやってきた羞恥心に、レイは両手で頬を擦り上げた。――早朝であるということも相まって、誘われたのかと思った。全部クラウスのせいだ。昨日ちょっとそんな雰囲気にもなったし、絶対に自分が悪いわけじゃない。昼夜問わず自分に触れてきて、あわよくば調律しようとするあの絶倫男に思考回路が毒されている。  まるで期待したかのように少し火照った体に嫌気がさして、レイは布団にもぐりこんだ。シーツが引っ張られて、一瞬アースドラゴンが首を擡げたが、レイがまた動かなくなったので、再び眠りの淵に落ちて行った。

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