124 / 136
第115話 この声は届かない
ドラゴンの卵が孵化するまでは、およそ一年間、母親がつきっきりで魔力を提供する必要がある。理由としては、生まれ出でた母体からの魔力の方が、卵の殻への浸透率が良いからだ。もちろん、父親の魔力でもできなくはないが、母親の魔力を分け与えられた卵の方が、孵化後の成長が良く病気にもかかりづらい。
地中にいることで自然エネルギーは吸収できるにせよ、太陽光を浴びることもできなければ、風に揺れる葉末 の音を聞くこともできない場所が、いい環境かと問われればそうではなかった。――何よりも、彼女の精神が持たなかった。種族は違えど友を亡くし、地下深くへ押し込められ、魔力を制限するための枷を嵌められる。人を信じていた彼女にとっては、酷い裏切りでしかなかった。
ショックにより、体内から卵が出てしまうほどに。
彼女にとっても誤算であっただろう。タイミングが悪かったとしか言いようがない。そして、魔力を制限される枷により、卵へ魔力の供給ができないことに、彼女は取り乱した。
しかし、残酷にも人間は、番を人質ならぬ竜質にとることで彼女の枷を外した。逃げたらどうなるのかを、目の前で知らしめてから――。
『彼女が囚われるよりも前に、先に捕獲されていた竜がいた。おそらく、あの男の前任者が研究するのに捕まえたのだろう。……この地で何十年も前にモンスター・スタンピードを起こした奴だ。発情期に掟で決められた範囲を逸脱し、エルフが管理していた森で暴れ回ったせいで、住処を追われた魔物が一斉に動き出した』
アースドラゴンの説明に、コリントとケリーは顔を歪めた。
何十年も前に捕らえられていたアースドラゴンがいる。それはつまり、竜人計画が始まるよりも前に捕獲・飼育が禁止されている生物を、ザルハディア王国は影で保有していたことになる。そして、皮肉にもそれを可能にした人物が、オルディアス王国の諜報部に入る前の魔術師ルミアだということだ。――本当にルミアが関わると、碌なことが起こらない。
『奴は既に弱り切っていた。それもそうだろう、何十年にもかけて搾り取れるだけ搾り取られた後だ。それでも、竜人計画が始動してからは研究対象として生かされていた。眼球も脚も翼もない肉塊と化した同胞は、最後に彼女への警告として見せしめに使われた。――逃げたら次にこうなるのは、吾だとな。……まぁ、ああやってただ生き恥を晒しながら生かされ続けるよりは、あの同胞も良かっただろう』
そして、彼女は卵へ魔力を供給し続けた。決して良いとは言えない環境で、拘束され目の前で鱗を剥がされる自分の番を見ながら、みるみる衰弱していった。
『吾らにとって、逆鱗とは……生を叫ぶ我が仔への最初の贈り物だ』
卵から顔を覗かせた幼き我が仔を虚ろな瞳に映しながら、彼女は自身の逆鱗を剥いだ。生を脅かすほどの激痛に、衰弱した彼女が耐えられるわけがなかった。
『……彼女にとっては、最期の贈り物となってしまったわけだが』
深い悲しみを隠すように紡がれた皮肉の後に、一呼吸おいてアースドラゴンは長い尾を抱えるように丸まり、ケリー達に背を向けた。
『逆鱗は、ドラゴンの魔力の継承だ。生まれ出でた仔に逆鱗を吸収させることで、今まで自らを守っていた殻の代わりに丈夫な鱗を纏わせる。吾の逆鱗でもいいにもかかわらず、彼女は頑なに自分のを継承すると聞かなかった。故に、死んだ。……もう行け。これ以上、話すことは何もない』
背を向けているのにも関わらず、アースドラゴンの大きく息を吐く音が聞こえた。これが、本当に最後だと示すかのように。
ケリーとコリントは互いに頷き合うと、胸に手を添えて頭 を垂れた。
「ありがとうございました」
「貴方に、最大の感謝を」
言い置くようにして姿勢を正すと、二人はそっと足音も立てずに身を翻した。
人間二人分の匂いが遠ざかっていく。アースドラゴンは再び小さく息を吐いた。張っていた気を緩めた瞬間に、襲われる呪いの痛み。――もう疲れた。恨むことも、嘆くことも、もがくことも。
ふと自らの心臓の上にある鱗が視界に入る。鱗の流れに逆らうようにして生えるはずの一枚が、顔を覗かせていた。逆鱗が生える位置はその個体ごとに違うが、自ら剥ぎ取れる場所に生えることがほとんどだ。自分はたまたま分かりやすい場所に生えていた。そして、今はその逆鱗の下には、禁忌魔法を使用したことによる呪印が隠れている。
逆鱗をあの男に剥ぎ取られた瞬間、彼女の死を思い出した。許せなかった。彼女を守れなかったことが。目の前の男が。人間が。この国が。
二度目の呪いの発動は、あの男が我が仔から逆鱗を剥ぎ取った時だ。あの仔の悲痛に歪む顔と絶叫は、今でも脳裏に焼き付いて離れない。白目をむいて力なく地に落ちた小さき体に、あの男が触れようとした。それだけで動機としては充分だった。禁忌魔法の行使をしたことで、呪印はその色を濃くし、心臓に深く根を下ろした。
ぎゅっと体を丸める。枷から伸びる重い鎖がぴんと張って音を奏でた。
掬い上げようと手を尽くしても、何もかもが零れ落ちていく。どうにもできなかった自分自身さえも、何も赦すことはできない。だが、
『……ルブリィ』
君に逢いたい。縋って謝ったところで、我が仔も守れぬ父親など赦してもらえないだろうが。それでも、君に逢いたい。また名を呼んでほしい。もし、赦されるのなら。
呪いが進行し、息を吸うのも苦痛だ。枷を内側から破壊し、呪いを維持するだけの魔力も、もう底を尽く。もう諦めたい。でも、生きねばならない。せめて、あの仔の行く末を見届けるまでは。
アースドラゴンは禁忌魔法を解いた。だからといって呪印が消えるわけでもない。既に深く根を張った死の宣告は、いずれ心臓を絡み取って殺すだろう。それでも、少しでも長く生きるために、魔力の消費を抑えねばならない。
痛みに苦しみながら、アースドラゴンは必死に呼吸を続けた。我が仔の結末を、見届けるために。
ゆっくりと視界が色を帯びていく。眼下に見えたのは、ドーム状に展開された結界と、壊れた窓のある立派な屋敷だった。俯瞰してみたのは初めてだが、レイはそれがペリスコット公爵家のタウンハウスだと一目で理解した。
勢いよく吹く冷たい風に瞬きをした瞬間、しがみついていたはずのクラウスの魔力が、するりと離れていったのが見えた。
訳が分からなかった。レイが握っていたクラウスのシャツも、絡み取っていた魔力も、互いがしっかりと結びあっていたから離れなかったはずなのに。まるで、手を離されたかのように指の間をすり抜けていった。
「っ! クラウスッ!」
半身を翻すように振り返り、あらん限りの力を込めて彼を呼んだ。だが、そこに彼の姿はなかった。
茶色と緑色の幻想的な揺れる光を返す巨体から、広げられた大きな翼。もう膝に抱えられるような大きさではないアースドラゴンの仔が、ばさりと羽ばたき遠のいていく。
必死に手を伸ばしても、空中で投げ出され落下している自分との距離はどんどん離れていってしまう。
「くら――ッ!」
声は、突然背後に現れた水塊にレイが落ちたことで遮られた。人肌ぐらいの水温に包まれたまま、レイはペリスコット公爵家の結界の上へと落ちて行った。
必死に手を伸ばしても、叫んでももう届かない。口から多量の空気が溢れるだけだった。
レイを包んだ水塊が結界をするりと抜ける。結界の構造式を熟知していないとできない芸当に、レイは思わず泣きそうになった。愛しい人の魔力の香りでいっぱいの水塊が馬車用のロータリーの中央に落ちた瞬間、芝の上を大きく跳ね上がってから弾けた。
秋空の下にずぶ濡れで放り出され、レイは身を起こしながらぶるりと震えた。見上げた空にアースドラゴンの姿を探すが、もう既にその姿を見つけることはできなかった。
「レイ君!?」
不意に名を呼ばれ、屋敷の方へ目をやる。壊れた窓のあるベランダから、身を乗り出すようにマルキオン教授がこちらを見ていた。マルキオン教授が身体能力強化魔法を使用してベランダを飛び降りると、軽くよろけながらもすぐさま駆けつけてくる。
「いったい何が……ベイストン博士とのお茶会は? クラウスさんは?」
そう言いながらレイの肩に手を置くと、そのまま纏わりついた水分を散らしてくれた。耳の奥に響く小さな共鳴音を聞きながら、心配そうに顔を覗いてくるマルキオン教授の顔を見た瞬間、レイは唇を噛み締めて俯いた。
「クラ、ウスが……」
かけている眼鏡の上から顔を掴むように爪を立てながら、レイは顔を覆った。
「クラウスが、俺の手を離したんです。俺を助けるために、手を――」
あぁ、違う。そんなところから話したって、マルキオン教授には伝わらない。分かっているのに、頭と心がぐちゃぐちゃだ。感情が理性を上回って、手の施しようがない。
なんとか落ち着こうと浅く呼吸を繰り返すレイを見ながら、マルキオン教授が不思議そうな声を上げた。
「……レイ君、その手は?」
問われ、レイは顔から手を離した。
左手に茶色と緑色に揺れる鱗が二枚貼り付いている。左手を返して見ると、反対側にも二枚ついていた。まるで手を挟み込むように計四枚の鱗がぴったりとついており、右手には一切ない。
レイの脳裏を、ベイストンの杖を握った手に牙を喰い込ませたアースドラゴンの仔の姿が掠めた。そうだ、その時にできた傷口を塞ぐように、鱗が貼り付けられている。
レイはそっと鱗に指をかけた。瘡蓋よりも簡単に剥がれる鱗の下には、まだしっかりと牙が刺さった穴が開いている。傷口から湧き上がるように血が零れ、レイはそのまま鱗を貼り直した。粘着性があるわけでもない鱗は、ぴったりと肌に吸い付いて血を止めてくれている。
四枚の鱗が貼り付いた手をしばし眺めてから、レイは立ち上がろうとした。だが、体がふらつき思うように立ち上がれない。マルキオン教授の手を借りて何とか立ち上がったものの、まるで体の支えがなくなったかのような倦怠感に困惑し、自身の体を観察し始めた。
体内を流れる魔力量が著しく減っている。レイは魔力量がもともと多いため、魔法を連発してもここまで減ったことがない。むしろそんなに減る前に魔力回路の方が根を上げる。
「とりあえず中へ」
マルキオン教授の肩を借りて、タウンハウスの中に入っていく。玄関の扉をくぐると、温まった空気が頬を撫でる。体の緊張が少し解れるも、心配そうに見てくる使用人達に声をかける気にもなれず、レイは終始無言のままマルキオン教授と共に、与えられた部屋へ入って行った。
部屋に入ると、客用の広いベッドが目に入る。今朝はクラウスとここで目を覚まし、アースドラゴンの仔が欠伸をしながら尻尾を立てていたのを見ていたのに、今隣にいるのはマルキオン教授だけだ。
逃げるように視線を逸らすと、マルキオン教授はそのままソファへレイを誘導した。――深く腰掛けて、息を吐く。焦燥感で今にも潰れそうになりながらも、レイは顔を擦りながらどう説明すべきか考えていた。
「……えっと、さっき一瞬見えたんだけどさ」
悩んでいるレイを横目にマルキオン教授が口を開いた。
「飛んでたアースドラゴンって、あの仔の親? すぐ隠密魔法でもつかったのか姿は見えなくなっちゃったんだけど」
組んだ足の上で絡めた指をせわしなく動かしながら、マルキオン教授がおずおずと聞いてきた。マルキオン教授にはアースドラゴンの子守りをお願いしていたが、それを逃がしてしまった手前、もしかしたらレイとクラウスが親竜に見つかって報復を受けたとでも思っているのかもしれない。
「……違いますよ。あれは、あの仔自身です」
レイが静かにそう答えると、マルキオン教授は薄紫色の瞳を光らせながら身を乗り出した。
「……大きかったよ?」
「そうですね」
「なんで?」
「わかりません」
淡々と答えながら大きくため息を吐くと、レイは項垂れた。顔を擦っていた両手を鼻と口を隠すように合わせると、諦めたように事の顛末を話し始めた。
ベイストンがアースドラゴンに手を出したこと。質のいい魔力を多く保持する者で人体実験を行っていたこと。アースドラゴンの怒りを買い、ザルハディア王国の首都の西エリアに住む者に呪いが波及していること。この実験にはザルハディア王国が深く関わっていること。それらを諜報部という機関を抜いて話すのはとても苦労したが、情報元を便宜上ザルハディア国民であるカーレンとしたことで、マルキオン教授は納得してくれた。
マルキオン教授は黙って話を聞いていたが、途中目頭を押さえながらため息をついた。
「……まさか“春の一件”が、こんなところで関わっているとはね」
マルキオン教授の反応に、レイは力なく苦笑した。――そう、レイにとっての始まりは、あの春の一件だったのだ。
今年の春、ザルハディア王国からオルディアス王国へ呪いの浄化薬の依頼があった。その依頼量は前代未聞の多さで、分割輸送を依頼するも敢無く却下された。呪いの浄化薬は、呪われた魔法使いたちが生きるための必需品となる。親交も深い隣国からの依頼を無碍にできるわけもなく、オルディアス王国は輸出を決断。だが、その輸出物の中に弾かねばらならない品質の浄化薬が大量に紛れ込んだ。それが、レーヴェンシュタイン公爵領で製造された浄化薬だった。
その輸出品の中から、絶対に弾かねばならない浄化薬を洗い出す密命を受けたのが、目の前にいるマルキオン教授と、そのゼミナールに所属していた院生であるレイだった。
あの“春の一件”により、レイはその世に出せない呪いの浄化薬がレーヴェンシュタイン公爵領で製造されていることを知り、クラウスと出会うことになる。
ザルハディア王国の首都で起こった広範囲での魔力の呪い。これがなければ、レイはクラウスが処方されていた呪いの浄化薬に疑念を持つことも無ければ、クラウスを呪いから救うために呪いの浄化薬を調達する算段を立てることもできなかったかもしれない。
レイは大きく息を吐くと、どこまで話したか、と思案しながら続きを話した。
「ベイストン先生は……俺とクラウスを人体実験の被験体にするつもりで、今回接触してきたようです」
落ち着いた声色で語った言葉に、マルキオン教授がぱっとこちらに顔を向けた。その顔には、なんと声を掛ければいいか分からないと書いてあり、レイはその心遣いにそっと目を伏せた。
「クラウスは、ペリスコット公爵からベイストン先生の罪が確定したら拘束するように密命を受けたようで」
ここも便宜上ペリスコット公爵家を主体に置かせてもらったが、本来なら諜報部から掛け合って魔法使い拘束用の手錠を融通してもらっただけに過ぎない。だがペリスコット公爵家としても、ザルハディア王国の汚点を白日の下に晒せるのは、もしかしたら“都合の良い事”だったのかもしれない。
「ベイストン先生を拘束し、先生の杖を拾った時……あの仔が飛んできて俺の手を噛みました」
そう呟いて、左手に目を落とす。止血するために貼られた鱗の色が、室内灯の下で揺らめいている。
「その後は記憶が曖昧ですが……恐らく俺を噛んでしまったことにショックを受けたあの仔が、俺とクラウスを体内に取り込んだんだと思います」
「はぁ!?」
分かりやすいぐらい狼狽し、レイの全身に視線を走らせるマルキオン教授を静かに見つめ、レイは奥歯を噛み締めた。
「教授……クラウスはたぶん、まだあの仔の中にいます」
レイは左手をぎゅっと握った。止血はしてあっても、まだそこに怪我はある。鋭い痛みが走ったが、そんなことをレイは気にも留めなかった。
マルキオン教授の薄紫色の瞳が揺れている。レイはまっすぐにその瞳を見据えて、喉が締まるのを感じながらも嗚咽を抑え込んだ。
「これで、最後にします。教授……助けてください」
レイは、目尻に溜まった涙をこぼさないように瞬きを繰り返しながら、マルキオン教授に訴えかけた。この人には、ずっと迷惑しかかけていない。その懐の深さに甘える最後の機会を、レイは懇願した。
鼻の奥がツンと痛み、唇が震える。
マルキオン教授はその形のいい鼻から大きく息を吐くと、呆れ顔でレイを見つめた。
「……高くつくよ?」
組んだ長い脚の上で頬杖をついた麗しき魔術師の口角が片方だけニッと吊り上がる。それを見た瞬間、レイは目尻から一粒だけ涙をこぼした。
ともだちにシェアしよう!

