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第117話 不安・焦燥・せめぎ合い

 予想通りと言ってしまえばそれまでだが、ベイストンの研究室にある薬草類は、呪いの諸症状を抑えるのに適したものが多く、切り傷や骨折等の怪我に対し効能があるものは豊富に置いてあるわけではなかった。処方薬を調合する魔法薬店などとは違うのだから、研究とはあまり関係ないものがあまり置かれてないのは当然だ。  しかし、実験中に起こりうる火傷や爛れ、ちょっとした深い傷を治療する初級ポーションを調合するには、充分であった。 「でも、骨折までは……」  マルキオン教授がケリーの足を一瞥した後、開け放たれた引き出しの中にあるメスにそろりと目が行く。それを視線で追いかけて、ケリーの頬が僅かに引き攣った。 「教授」  レイは自身の左手に貼り付いていた鱗を撫でるように剥がすと、ハンカチで鱗を拭いてマルキオン教授の方へ差し出した。瘡蓋を無理やり剥がしたかのように、鱗で隠れていた深い傷からは盛り上がるようにじわりと血が溢れてきたが、それはそのままハンカチで覆い隠す。 「これ使ったら、骨折ぐらい治せますよね」  なんでもない事のようにレイがそう言うと、マルキオン教授は驚愕を顔に貼り付け、差し出されたアースドラゴンの鱗とレイの顔を何度も視線で往復した。 「も、勿体ない! 上級ポーションの材料にもなるブースト素材を、初級ポーションから中級ポーションにグレードアップさせるのに使うなんて!」  全身で嫌だと拒絶するマルキオン教授に、レイは薬草保管庫を指差した。 「でも、中級ポーションに必須のコバルトハニーはありませんでした。もうこれしかないですよ」 「切開しよ! 初級ポーション二個使おう!」 「切開なんて素人がやることじゃないです! サルベルト教授に言いつけますよ!」  自身の恋人の名前を出され、マルキオン教授の顔が一気に険しくなる。魔法薬士としての矜持と、魔法医である恋人からの視線を天秤に掛けている麗しき魔術師の顔を横目に、レイは魔力石を片手にせっせと調合準備を進めた。  調合台の前で頭を抱えてしゃがみこんでいるマルキオン教授を押しのけるように、必要なものを調合台の横に広げていく。 「ヒールリングリーフ八枚置いておきますよ。先にソディウム溶液だけ作っておきますからね」  魔力を帯びた精製水と光沢のある薄水色のソディウム魔晶石をひっつかんで、部屋の隅にある抽出器へセットした。魔力石のスイッチを押すと、精製水に反応したソディウム魔晶石が淡く光り、じりじりと小さな音をたてながら魔晶石の成分が精製水に溶け始めた。そのまま抽出機の下にセットされたビーカーへと、抽出された溶液がぽたぽたと落ちていく。およそ五分ほどでポーション三本分ぐらいの量は溜まる。研究設備が充実していてなんとも羨ましい限りだ。  振り返ると、唸り声をあげているマルキオン教授が恨めしそうにレイの方を見ていた。 「腹くくりました?」 「教授さん、悪いがやってくれ。時間が惜しいんだ」  両方からレイとケリーに諭されて、マルキオン教授は交互に顔を見上げ、深くため息をついた。 「こんなのやったことないんだからね。失敗しても知らないよ! ……あと、ヒールリングリーフは六枚に減らそう。そして、ルーンハニカムあったよね? あれを三十グラム足して。理由は分かる?」  やると決めたら切り替えるのが早い。立ち上がったマルキオン教授が、急に真剣な眼差しですらすらと指示を飛ばしてくる。レイはその視線を受け止めながら、頭を回転させた。 「……鱗の魔力が強すぎて、他の素材の力が耐えきれずに消滅する可能性を鑑みて、クッション材としてよく使われるルーンハニカムで素材を繋ぎ合わせる狙い?」 「正解」  レイの解答に、マルキオン教授は満足そうに頷いた。そのやり取りを見ながら、ケリーはちらりと奥のドアへと視線を向けた。 「どれくらい時間がかかる?」  ケリーが素早く声をかける。レイはちらりと抽出機の状態を見て、ケリーを見てからマルキオン教授に向き直る。 「ルーンハニカムを入れるなら、ソディウム溶液は多めの方がいいですよね。倍量まではいかなくても」 「そうだね。……いや、念のため倍量欲しい。都度調整する」 「了解。ケリー、調合開始までおよそ十分かかる」  ケリーに向かってそう言うと、マルキオン教授がソディウム魔晶石がセットされた抽出器を見ながら「これ、うちの大学にも欲しいなぁ。いや、でも学生たちに抽出工程を覚えさせるためには――」とぶつぶつこぼしているのをじっと見つめた後、ケリーがそっとレイを手招きして、研究室の奥にあるドアの前へと呼んだ。 「ちょっと、いいか」  ケリーが控えめにそう言って、先導していく。レイは眉を顰めながらも、黙ってその後をついて行った。  ドアの向こうには、下へ降りる暗い階段があった。おそらく入口を覆うように嵌められていた鉄格子の扉は、見事にへしゃげてしまっており、もう意味を成していない。よく見ると魔法機構が施されていたようだが、扉自体がこうなってしまっては正しく発動することはまずないだろう。  そのまま警戒心もなく折れた足で軽やかに階段を降りていくケリーの後を追いながら、レイは地下に進むにつれ嗅覚を麻痺させるような腐臭と、焦げ臭さと戦うことになった。  長い階段を降りきると、鉱山を彷彿とさせるような造りの通路が広がっていた。最低限の補強と灯りがある程度で、非常に視界は悪い。――ただ、レイはこの異様な通路の途中にある、胸が重苦しくなるような魔力痕を感じ取っていた。  一部分だけ灼け焦げたタイルの上に、無念と強い未練が焼き付いている。しかし、その中に微かに感じるほっとしたような安心感もあり、まるで救われたとでも言いたげな魔力痕が、レイの胸を締め付けた。  先導するケリーが、その焦げたタイルをじっと見ながら通り過ぎていく。その表情は固く、普段の飄々としたケリーの姿からかけ離れていた。  脳裏に、ベイストンが取るに足らない事のように言い放った「庭師の男の成れの果てとご対面させた」という言葉がよぎる。レイは一度立ち止まり、胸に手を当てると、黙して頭を垂れた。  おそらく、これがマディの最期だったのだろう。そして、その命を摘み取ったのは――。 「レイ」  数歩先でケリーが呼ぶ声で顔を上げると、目に飛び込んできた光景にレイは息を呑んだ。  それは、鱗の巨塊のようだった。大きな体を丸めたアースドラゴンの鱗が、通路に設置された弱い灯りに照らされ、幻想的な揺らぎを見せている。その巨体は顔を隠すようにこちらに背を向けて伏せているため、どのような表情をしているのかは分からない。ただ、見える背が苦しげに浅く呼吸を繰り返しているのだけが見て取れた。  レイは目を見張り、緊張で体を強張らせながらも、そっとアースドラゴンの前に歩み出た。地に伏せてもなお見上げるほどの巨体は、ヘイムディンズに棲むブルードラゴンの王・ヴェーゼルゴンよりも非常に弱々しい印象を受ける。まるで堪えないと今にも霧散しそうな魔力を、懸命に体の中へ留まらせようとしているかのようだった。 『もう、来たのか。翡翠の魔女の系譜よ』  異質な魔力の波動が目の前のアースドラゴンから発せられ、人の声を模して響いた。その声は、張りつめた焦燥を帯びていた。 「……お初にお目にかかります。レイ・ヴェルノットと申します」  一歩前に出て、レイは名乗った。だが、目の前のアースドラゴンは構わず大きく息を吸い込み、膨らんだ体はため息と共に萎んでいった。 『あの子より先に、吾を断罪しにきたか』  竜の言葉の意味が理解できずに眉を顰めるが、こちらに顔を向けていないアースドラゴンが、レイの表情など分かるはずもない。どう言葉を返せばいいのか分からず口を噤んでいたが、無言で促されたと思ったのか、アースドラゴンが続けた。 『ドラゴンが人に手を出せば、裁定者が現れる。古来より伝えられてきたことが、まさか私の身に降り注ぐとは思っても見なかったが』  諦念を帯びて紡がれた言葉に、レイは後ろに立っているケリーに視線を向けた。しかし、ケリーも意を解さないのか肩をすくめてしまっている。 「……貴方は、人間を食べたんでしょうか?」 『吾は食べてはいない』  控えめに問いかけると、すぐに返答があった。レイは更に首を傾げた。 「呪いの事をおっしゃっているのなら、正当防衛では? 少なくとも、先に貴方へ手を出したのは人間なのでしょう?」  アースドラゴンの言う裁定者については分からないが、このアースドラゴンが人間に呪いを振りまいたことについて「手を出した」と認識しているのなら、人間側との認識に齟齬があるように思える。人間がドラゴンの討伐を決行するのは、あくまでも人間を食した個体だけだ。  しかし、アースドラゴンは深くため息をついた。 『吾の子が、そなたの魔力を喰らったであろう』  その一言に、胃が締め付けられるような感覚を覚えた。アースドラゴンは、あの仔が魔力を喰ったと思っている。もしそれが本当ならば、レイは最悪の事態を想定しなければならない。 「……人間の魔力を喰らったならば、ドラゴンはもう自然界のエネルギーを吸収できなくなりますか?」  一縷の望みをかけて、レイは声を絞り出した。すると、それに反応するように、アースドラゴンがのそりと頭を持ち上げた。まるで肩越しに振り向くように、わずかに顔を傾ける。 『そなたの魔力を一気に喰らったのであれば、そうだな』  レイは、ぐっと奥歯を噛み締めた。 「……すぐに、吐き出しても?」  食い下がるように言ったレイの言葉に、アースドラゴンは深くため息を吐き、ゆっくりとこちらに顔を向けた。その表情はまるでがっかりしたとでも言うかのように、諦念を滲ませている。 『吐き出すものか。吾らが同志の魔力ぞ。お前は好物を口に入れられて、飲み込まずにいられるか?』 「それが毒だと分かっているなら、吐き出すでしょう。貴方が加害者である人間を食べずにいた理由を、あの仔が知らないわけがない。そして、あの仔はとても賢い」  レイの言葉に、アースドラゴンが押し黙った。その表情は、そう思いたいという気持ちと、幼いあの仔がそこまで理性的でいられるかという疑念がせめぎ合っていた。 「人間の魔力の吸収には、どれくらい時間がかかるんです?」  まっすぐに、試すようにこちらを見下ろす金色の虹彩を、レイは負けじと受け止めた。滲み出る魔力の質とその眼光により気圧されそうになりながらも、ぐっと背筋を伸ばす。  あのアースドラゴンの仔が作った張りぼての中に、まだレイの魔力とクラウス自身が残っている。だが、まだ完全にその魔力が溶け切ってしまったわけでないだろう。推測の域を超えていないが、レイには理由もない確信めいたものがあった。  アースドラゴンは、ゆっくりと目を伏せた。 『わからぬ。……だが、急ぐに越したことはないだろう』  僅かな希望に縋るような音を響かせる魔力の波動に、レイはしっかりと頷いた。そのまま先ほどの研究室に戻ろうと踵を返したところで、レイは「あ」と小さく声をあげた。 「聞きたいことがあります」  見送ろうとしていたアースドラゴンに振り返りながら、レイは澄んだ瞳で聞いた。 「あの仔の名前を教えて下さい」

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