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第119話 美味なる毒
レイは、品質保持ケースの封印を解いた。ケースを開き、自分で皮下注射できるように特注した注射器を取り出すと、持ち手を引き抜き、魔法薬が入ったカートリッジをそっと外す。
コリントとケリーが黙してこちらを見ているのが分かる。諜報部として、レイが今から何をするつもりなのかを見定めようとしているかのように。
「結局のところ、この薬の効きが悪くなったのは、レイ君の魔力回路がこれを“害の成す異物”として認識するまでの時間が、早くなってしまったことにあると考えられる」
マルキオン教授が、淡々と、そして苦々しく伝えてくる。レイはそれを受けて、頷いた。
「……抗体でもできてるんですかね」
「そんなに頻回に使ってるの?」
じろりと睨みつけるようにレイを見るマルキオン教授の視線を、レイは苦笑しながら逸らした。
「最後に使ったのは、マルキオン教授の解毒剤を調合したあの日ですよ。その前は春です」
「三か月も空いてないじゃないか」
再び非難するようにこちらを見てくるマルキオン教授に、レイは首を横に振った。
「ただ、それよりも前となると、去年の秋ごろでしょうか。その時点では試作当初と同じ三十分は効果がありました。春に使用したときには、既に効果がニ十分に減っていたんですよ。品質についても問題はありません」
マルキオン教授は吟味するかのように、じっとカートリッジを見つめながらたっぷり数秒間熟考し、改めてレイの方へ顔を向けた。
「なら抵抗力そのものがあがってるのかもね。こんなの続けてると、全般的に魔法薬が効かなくなるかもしれないよ」
マルキオン教授が、まるで課題を突き付けるようにレイへ言い放った。レイはちらりとマルキオン教授を一瞥し、
「その時は……教授に調合してもらいます」
と、冗談めかして言い切った。呆れたようにレイへ視線を投げるマルキオン教授が、「僕にいつまで生きてろっていうのさ」とぶつぶつと呟いているのを横目に、レイは調合台の前に立った。
「抵抗力が上がっているなら、抵抗されないようにうまく“騙す”しかないですね」
レイが大きくため息を吐きながら、調合台に手を翳した時だった。
「……僕がやろうか?」
耳を疑うような一言が、マルキオン教授から飛び出した。目を見張りながらレイが薄紫色の瞳を凝視すると、マルキオン教授は眉間に皺を寄せながら付け加えた。
「魔力が万全でもないレイ君が再調合するより、僕がした方が成功率は高い。更に言うなら……相性が悪くない僕が調合した方が効き目が――」
言いづらそうにそう口にするマルキオン教授の優しさに、レイは笑みをこぼした。先ほどまで「悪事の片棒を担がせるつもりか」などと言っていた人の言葉ではない。だが、唯一無二の相手を失うかもしれないその重大さを、この中にいる人間で本当に理解できたのは、マルキオン教授だけだろう。
「お気持ちだけいただきます」
「でも」
「教授」
言葉尻を奪いながら、レイは微笑んでマルキオン教授を見上げた。その瞳に宿る意志の強さに、マルキオン教授も言葉を飲み込んだ。マルキオン教授も分かってはいるのだ。相性がいい人が魔法薬を調合する方が良い事と、そして、それは魔法使いにとっては、パートナーに対する裏切り行為に近いことを。
レイは袖を少しまくり上げた。オルディアス王国の貴族社会では品位を欠く行いだが、ここには、それを咎める者はいない。強いて言うなら、飛んだ薬剤から腕を保護するための袖をまくり上げるというのは、薬士としてはあまり推奨できる行いではない。だが魔法薬士界では、転じてこう解釈される。――必ず成功してみせる、と。
不意に目の前に広がる景色に、クラウスは思わず目を細めた。急成長したアースドラゴンに取り込まれていたはずなのに、唐突に痩せた大地の上に立たされていた。地面は固く乾いており、生き物の気配を感じない。その土から、一本の若木が苦しそうに生えている。まだ樹齢としては数年ほどの木のようだが、既に葉がところどころ枯れ落ちてしまっている。
ふと視線を上げると、深い群青の夜空に、今にも降り注いできそうな程大きな星々が瞬いていた。届かないことが分かっているにも関わらず、手を伸ばさずにはいられないほどの魔力がそこにあった。夜が深まるにつれ、冷えた空気を乾いた大地に下ろし、糧となるはずの力が、逆に若木を弱らせていた。
――幻覚か?
クラウスは警戒しながらぐるりと辺りを見回すと、自身の背後には、山の端を煌々と照らす夕日があった。この景色は見覚えがある。レイがヴェーゼルゴンに施された加護の話を打ち明けてくれた、あの丘だった。その後、一度断られたものの、レイはクラウスの気持ちを受け入れてくれた。あの時の笑顔のような、まぶしくも温かい夕日が目の前に広がっている。
冷気を吹き下ろす冬の夜空と、相反する温かい空気の春の夕日が共存する不思議な空間の中で、心細そうに若木が震えていた。
クラウスは、あのアースドラゴンの魔力に向けて、自身の魔力を伸ばしたはずだった。その魔力が、アースドラゴンの仔に触れた瞬間、この空間に引きずり込まれた。だが、肝心のアースドラゴンの姿が見当たらない。
きゅぅ
すすり泣くようなあの仔の鳴き声が、足元から聞こえる。聞こえた方へ目を向けても、そこには若木しかない。
クラウスは乾いた大地に膝をついて、若木を観察した。よく見ると、その葉末はわずかに茶と緑の幻想的な光を揺らしていた。――本能的に理解した。これが、アースドラゴンの仔だ。そして、夜空と夕日が、レイとクラウスの魔力が見せている景色なのだろう。
小さくため息を吐いて、クラウスはそっと若木の葉に触れようと手を伸ばした。
「……レイの魔力が、寒いのか」
自身の中に取り込んだはいいものの、氷の化身とも謂うべきブルードラゴンに愛されたレイの魔力は、クラウスにとっては夜の気配を纏うひどく心地が良い魔力だが、惹かれてもなお、寒さに弱いアースドラゴンとは相性が悪いらしい。
クラウスの指が若木に近付くと、枝がひょいとくねって逃げた。触らないで欲しいと謂わんばかりの逃げ方に、クラウスは仕方なくそのまま指を下ろした。
レイは、あの仔は賢いと言っていた。少なくとも、レイとクラウスには心を開き、何かと擦り寄ってきていたあのアースドラゴンの仔が、こんな行動をとるにはおそらく理由があるのだろう。だが、確信は持てない。
クラウスは困っていた。諜報部として様々なことを経験してきたが、あいにく子守りの経験はなかった。こんな時に、どう行動するのが最適解なのかが判断できなかった。レイは、あの幼いアースドラゴンの仔に優しく語りかけては、よく撫で上げていたように思う。精神的な接触と、身体的な接触による安心感を与えていたと考えられるが、現状それは難しそうだ。
「何を泣いているのか、残念だが私には分からない」
仕方なく、クラウスはぽつりと零すように唇を開いた。子供の感情を紐解くのは非常に難しい。そも、本人が言語化できていないのだから。
「――怖いのか?」
この精神世界とも言える景色の空間に飛ばされる前、自身の体の感覚すらまともに知覚できない高密度の魔力の中、魔力の波動が感情的にまき散らされていた。混乱、不安、悲しみ、贖罪。入り乱れたあの感情から導き出した答えが、まさにこれだった。だが、アースドラゴンの仔が何を恐れているのか、それがクラウスには理解できなかった。自身より強い存在が、何に恐れる必要があるというのだ。
返答はない。言葉で示されるとは思っていなかったが、これ以上の情報がないことには、八方塞がりだ。ケリーだったら、分かるのだろうか。他人の懐にずかずかと入っていくのに、あまり嫌な印象を与えないあの男の訳の分からないところだ。
困った。クラウスは縋るように頭上で煌めく星々を見上げた。レイの魔力が近くにある。それを感じるだけで、危機的状況であることは変わらないのに、心穏やかにいることができた。
くぅ
寂しそうなか細い声が、再び若木から発せられる。まるで空を羨望するかのように、若木も空を見つめているようだった。
「会いたいか? レイに」
レイの美しく澄んだ魔力を見上げていた葉の先が、頷くようにさらりと揺れた。しかし、その枝葉も、項垂れるように力なく地面についてしまった。会いたいが会えない。そう表すかのように。
会いたいのに会えないという理由には、心当たりがある。レイの手に噛みついてしまったことだろう。その時のレイの表情は、確かにおびえたように固まっていた。だが、それは危害を加えられたことに対してではなく、『ドラゴンが人間へ捕食行動と捉えられるような行動をした』ことに対する心配だった。それが、この仔に分かったかどうかは定かではないが。
あぁ、そういうことか。クラウスは合点がいった。この仔が恐れていることの正体は、至極簡単なことだったのだ。
「大丈夫だ。レイは怒ってない。君を嫌ってなどいない」
そう答えた途端、若木が光を放ち始めた。揺らめく光はそのまま若木全体に広がりを見せ、中心へと集まっていく。その光が弾けた瞬間、もう見慣れた金色の虹彩がこちらを見上げていた。だが、その姿を見た瞬間、クラウスは息を呑んだ。その体を覆っていた鱗の大半が剥がれ落ち、柔らかな皮膚が見えてしまっている。
『……ほんとう?』
きゅあっという声と共に、魔力の波動が鼓膜を震わせた。幼く、たどたどしくも人の声を模した魔力の波が、頭の奥に響いて軽く眩暈を覚える。だが、クラウスはそれを面には出さずに、ゆっくりと頷いた。
「むしろ、君を心配しているだろう。レイは、そういう男だ」
安心させたくてそう伝えたが、アースドラゴンの仔は力なく視線を下げた。
『でも……もう、とぶチカラもない』
その言葉を皮切りに、地面がパキリと乾いた音を立てながらひび割れた。まだそのひびは浅いものの、時間の猶予が残されていないのが見て取れる。
クラウスは天を仰ぎ、そして自身の背後にある夕日を見た。間違いなくレイとクラウスの魔力を現した景色だが、色褪せたりもせずそこにある。
「吸収できなかったのか?……いや、しなかったんだな?」
クラウスが振り返ると、乾いた地面にアースドラゴンの仔がゆっくりと倒れ込んだ。抱きかかえようと手を伸ばした瞬間、グルルと威嚇音を発し始める。
『たべたらダメってしってる。でも、すごく、おいしそうで……ちょっとだけすった。でも、いたくてはきだした』
フーッと荒く息を吐きながら、恨めしそうに金色の虹彩がクラウスを見上げている。
『おまえ、おいしそう。でも“レイ”がみてる。じゃまされる。かじりそうだから、ちかづくな』
そう言ったそばから、アースドラゴンが鋭い牙を見せてきた。口の端からだらりとよだれが零れて落ちていくのが見え、クラウスは冷静に頷いた。
「今、外の状況はどうなっている?」
クラウスはすっと真剣な眼差しで、ぼろぼろのアースドラゴンの仔を見下ろした。力なく目を細め、荒い息を抑えながら、アースドラゴンは弱々しく魔力の波動を出した。
『もり……いちばんたかいたてもの……あそこにとまって、やすんでる』
逡巡し、クラウスは思わずため息を吐きそうになった。一番高い建物とは、恐らく継智の塔の事だろう。たしかに、もうクラウスの肩では止まり木の代わりは務まらないほどの大きさになってしまっている。アースドラゴンを支えられるほどの強度があり、近くに雑木林もあるために自然エネルギーの補給もできる場所としてはうってつけかもしれない。
「……姿は」
『むり』
素早く答えてくるアースドラゴンの反応を受けて、クラウスは目を閉じた。無理というのは、隠密魔法も行使出来ておらず、人々の目に姿も晒してしまっているということだろう。本当に限界なのだ。
予想以上に目立ちすぎている現状に、クラウスは思案した。良い方に捉えれば、衆目に晒されている状態であるうちは、ザルハディア王国がドラゴンの捕獲を試みることはないだろう。情報統制を敷いたところで、他国に漏れるのは時間の問題だ。世界的に禁猟対象・飼育保管禁止生物に指定されているドラゴン種を捕らえようものなら、全世界から後ろ指をさされるのは間違いない。そしてそれは、竜人計画を裏で推し進めた後ろ暗い事実を、白日の下へ晒す要因となりかねない。
しかし、逆を言うなら、内情を知る者も手出しができないと言うことだ。救援は来れないかもしれない。だが、ここでドラゴンが魔法を解いて元の姿に戻り、クラウスと共に継智の塔へ降り立とうものなら、『アースドラゴンの中に人間が取り込まれていた』という事実を嬉々として発表し、討伐という大義名分を掲げて、この仔を素材とするだろう。
どうする。いや、クラウスはどうしようもなかった。中からはどうすることもできない。だが、このままでは取り込まれるか、この仔が死ぬかのどちらかの未来しかない。どうにかしなければ。
その時だった。
あたたかな春の夕日と、凍てつくような冬の夜空の隙間を縫うように、魔力の本流のような猛る風が吹いた――。
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