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第126話 悪夢の再来
彼女が笑った顔が好きだった。陽だまりのような彼女は、自分には勿体ないほど、いい女だった。たった数年、彼女の声が聞けないだけで、記憶の中の音がすでに褪せてしまっている。
彼女を見て、触れられない肌に、感じられない体温に、聞こえない声に、絶望しながら迎える朝を、あと何回繰り返せばいいのだろう。
「……ナスチャ」
水分が足りない口内では、思うように声にはならなかった。呟くように彼女の名を呼びながら、ベイストンは重い瞼を持ち上げる。揺れる視界に映るのは、無骨な馬車の屋根だった。頭を上げて自身の状態を確認する。硬い寝台の上に寝かせられ、四肢は拘束されている。加えて手首には魔法使い用の手錠が嵌められていた。体が重だるい理由が分かり、ベイストンはそのまま頭を下ろした。どうやら、護送用の馬車の中らしい。
「気が付きましたか」
こちらの顔を覗き込むようにして声をかけてきた男に見覚えはなかった。切りそろえられた短髪を見るに、恐らく貴族のお抱え騎士なのだろう。視線を走らせても、男の衣服は平民のそれで、貴族の家紋は見えない。だが、確実にザルハディア王国騎士ではない。そうであれば、ベイストンが拘束されるわけがないからだ。
「貴方には、特定不可侵生物の違法飼育ならびに、呪いの浄化薬の不正流出の嫌疑がかけられています」
聞いてもいないのに、男はベイストンの置かれている状況を説明し始めた。ベイストンはその話に興味を持てず、視線を馬車の中に走らせた。流石に護送車の中に、時計はなさそうだ。
「……何故、貴方程の方が、こんなことをしでかしたんです?」
不意に、男の声に感情がこもる。非難じみた言葉に、ベイストンは再び男の方を見た。男の眉は寄っており、唇には力が入っていた。目を凝らして見ても、やはりその男に見覚えは無かった。少なくとも騎士に知り合いはいないはずだ。加えて、魔術師に偏見のあるこの国で育った者ならば、例え魔法薬士として名高いベイストンであっても、面と向かって「貴方程の方」などとは言わないだろう。
失望を隠そうともしない男を、ベイストンは黙って見ていた。
「貴方は……私の妹の、命の恩人です」
男が苦しげに絞り出した声に得心がいき、ベイストンは小さく頷きながら天井を見上げた。言葉を発そうとして、喉が絡む。軽く咳払いをしてから、ベイストンは口を開いた。
「……妹さんの名は、何というのかな?」
視界の端で、男が少し俯いたのが見える。名を聞いたことで、更に失望を招いたのかもしれない。
「コニーと言います。ただ、貴方は知らないでしょう。正確には、貴方が開発した薬のレシピに救われたんですから」
「……なるほど、なるほど」
ベイストンは何度も頷きながら、目を瞑った。ベイストンは魔法薬士ではあるが、学生時代の実習以外で患者を診たことはない。研究を重ねることで、より良い薬の開発に努める研究者であった。だからこそ、こうして直接患者や患者家族と関わることは、彼の人生において貴重なことだった。ただ目の前の男にとっては、そんなことなど与り知るところではないだろうが。
「コニーの夫は資産家でして、彼の恨みや嫉 みに巻き込まれたようでした」
ベイストンは男の語る過去を、目を瞑ってただ聞いていた。そんなことを言わなくても、ベイストンが研究していたのは呪いの治療法なのだから、コニーという娘が患ったのは、呪いが関係していることなど言われなくても分かっていた。だが、この男が言いたいのはおそらくそんなことではなく、妹自体が呪われるような人物ではないと、言い訳がましく伝えたかっただけなのだろう。
「全身に痛みが走り、起き上がれない日が続きました。次第に食べることもできなくなるほどに」
「……ふむ」
ベイストンは相槌を打ちながらも、よくある話だと思っていた。呪う側の負担は相当だ。その愚行に結果をもたらすためならば、命を賭してくる者がほとんどだ。そのために、短期決戦に持ち込む必要がある。
まさに、当時ナスチャが受けたように。だが、この男はベイストンを命の恩人だと言っていた。ということは、コニーという娘は生きているのだろう。ナスチャとは違って。
「そのコニーさん、は、元気にしているのかね?」
ベイストンは目を瞑ったまま男に聞いた。興味が湧いたわけではなかったが、長く生きた分、身に付いたベイストンの処世術だった。この男が話したそうなことを、少し促すだけの意味のない言葉だった。
「はい、おかげさまで」
「なら、それでいい」
男の返事を聞いて、ベイストンは話を切り上げた。目の前にいるのは、あくまで患者の家族であって、患者自身ではない。ベイストンには、この男の話に価値を見出すことができなかった。
ベイストンは再び目を開け、ゆっくりと視線を走らせた。護送車に窓はなく、外の日差しは入らない。仕方なく、ベイストンは拘束されて重い腕を少しだけ持ち上げた。
「……私は、どれくらいこうしていたのだろうか?」
気を失ってから、どれくらいこうして魔力を封じられていたのか。まさか自分がこんな状態になるとは、想定していなかった。
男は深くため息を吐き、懐から懐中時計を出して覗き込んだ。
「もうすぐ、一時間ほどですかね。魔術師としては大変厳しい状態でしょうが、ご勘弁ください。貴方のこれまでの功績や、事実関係がきちんと明らかになれば、命は助かるで――」
「はははっ! 一時間! 一時間か!」
男の言葉を遮るように、ベイストンは笑い始めた。声を上げた後も、噛み締めるようにベイストンは笑い続け、しまいには咽 始めた。突然、何が可笑しいのかも分からないのに、目の前の老人が笑い始めれば、男は奇異の目を向けることしかできなかった。
一頻り笑った後、大きく息を吐いて、ベイストンはやっと男の方に顔を向けた。
男は見た。先ほどまでのベイストンの柔和な表情とは打って変わり、その目には力がこもっていた。老人の口元は笑みを抑えることができず、前歯が見えていた。
「私の杖は、どうなっている?」
問われ、男は反射的に護送車の角に立てかけてある老人の杖を見た。どうなっている、とは? 訳が分からない。馬に引かれているために揺れてはいるが、現にそこに――。
男は、目を見開いた。その様子を見て、ベイストンの笑みが深くなる。
杖の持ち手、そこにはまっていた赤い魔力石が、とろりと溶け落ちていた。赤い雫は杖を辿るように滴り、床に小さな赤い水たまりを作っていた。
男はゆっくりと腰を上げた。腰に下げていた剣の柄に手がかかる。異常事態に対し、警戒をするのは当たり前のことだった。
「ふふ、私が死んだ後に発動する予定だったが……魔力が遮断されてしまっては発動するのも道理か。まさか生きている間に見ることになるとは」
愉快。その言葉を体現するように満足そうな笑みを浮かべる老人は、再び天井を見上げていた。
「さぁ、四十年前の悪夢の、再来だ」
訳が分からない言葉に、男が問いかけようとした。護送車が止まる。地面が細かく震えている。何かの響きの伝播のような振動の後、遠くの方で爆発音が響いた。
『……そう言うのなら、どうすれば人間を狙わないという確たる証拠となるのか、教えてもらえる?』
苛つきを抑えようとしているのが充分伝わってくる。コリントが言うのは尤もで、正直誰がどうすればこの仔が人間を襲わない個体として生きていける保証をしてくれるのか、見当もつかなかった。
「……この仔の父親に、聞いてみよう。少なくとも、人間には判断できない」
レイが視線を彷徨わせながら、そう言った。その瞬間、クラウスの顔の横に、彼の魔力が集まった。レイがその一点を見つめると、クラウスの魔力が徐々に形を変えていく。
逃がすか?
魔力で形作られた文字に視線を這わせ、レイはクラウスの意図をくみ取り、目を瞑って小さく首を横に振った。クラウスは、万一リュールゥが“人の味を覚えた個体”と判断された場合にすら逃がすつもりか、と問うてきたのだろう。短い言葉でも、レイの心算を推し量ってくれているのが充分に伝わってきた。
気持ちとしては逃がしたい。どこか遠いところで、人に会わずに生きて欲しい。そういう気持ちはもちろんある。……だが、レイはそうするわけにはいかなかった。
リュールゥを処さねばならないと判断され、人の手の届かないどこか遠いところにリュールゥを隠した場合に、このレイにだけはとことん甘い男がどういう行動をとるのか、想像に難くない。――レイの目の届かないところで、クラウスはリュールゥを殺すだろう。リュールゥが本当に化け物として処理されてしまうような事態が起こる前に。そうなってしまった時、レイが心に傷を負わないように。ただ黙って、実行に移すのだろう。きっと、“諜報部の鉄仮面”を顔に貼り付けて。
『ただの時間稼ぎにしか思えないけど』
コリントの声は明らかに呆れていた。合理的な行動をとらないこと、そして今までだったなら、クラウスもコリントの意見に賛同し、行動を起こしていただろうに、レイと関わったことで、彼の諜報部としての行動が変わってしまったことに対しても、同様に呆れているのがよく分かる。
分かりやすく不満げな声を聞きながら、レイは服を掃う。
「とにかく移動する。教授と合流して、それから――」
言い切る前に、レイは身構えざるを得なかった。低く、足の裏から大地を圧迫するような音が響いてくる。地面が震え、数秒後には遠くで大きな爆発が起こった。距離はあるが、その方向は森の方ではなかった。
都市の西エリア。薬草畑があるような場所から、土煙が立ち上っている。離れているにもかかわらず、大地から噴き出したように土埃や小石が空を舞い、クラウスが張っていた結界の上に降り注いだ。
火薬のような臭いはしない。その代わり、禍々しく重い魔力の悪臭が漂っていた。
立ち上った土煙を見上げていると、不意にクラウスの腕の中にいたリュールゥが目を開けた。のそりと体を起こし、土煙の先を、虚ろな目で険しい表情を浮かべながら睨みつけていた。
ギ、ぁぎゃ! と、苦しそうに震えながらも威嚇音を発するリュールゥ。その反応を見て、レイはクラウスと目を合わせた。
リュールゥは、呪われた魔力の持ち主に対し、異常に攻撃的になる傾向がある。だが、ここまで怯えるような威嚇音は初めて聞いた。――何かが起こっている。
『……なんだ……あれ……』
コリントの絞り出すような驚愕の声が小型通信魔法機器から流れる。あまり動じないコリントらしからぬ畏怖の反応に、再びレイとクラウスが土煙を見上げた。
土煙が風に流され、中の様子がうかがえるようになった。いや、正確には、土煙の中にいた何かが、ずしんと重い地響きをさせながら一歩前に出たことで、姿を現した。
黒ずみ、ぬめりのある皮膚はところどころ腐り落ちていた。だが、かろうじてその巨体と骨格により、その正体がなんだったのかは見るからに明らかであった。だがその骨格には、背から生えているはずの翼が無かった。
長い口先、塔ほど見上げるような巨体。おそらく元は、アースドラゴンだったはずの存在。
『……ドラゴン、ゾンビ……ッ!』
遠くで人々の悲鳴が聞こえる。恐怖と混乱が渦巻く足元を気に留めることもなく、中身がない双眸は、真っ直ぐに西の森の奥を見据えていた。ドラゴンゾンビは、そのままゆっくりとした足取りで、森の方へと一歩、また一歩と行進しはじめたが、足が無いのか、家屋をなぎ倒しながら這うようにして進んでいた。
レイは静かに恐怖と戦いながら、記憶を遡っていた。あの禍々しい魔力を、つい最近どこかで感じたはずだ。どこだ、何かで確実に――。粟立つ肌を擦ろうと左手に触れた時に、はっとする。
思い出した。ベイストン先生の杖に使われていた、淀んだ色の魔力石。それを解析魔法にかけた時に感じた、あの呪いの根源と同じ魔力だ! あの時も、リュールゥはあの杖の呪われた魔力に反応して、レイに噛みついていた!
『総員撤退! 仮称・ドラゴンゾンビは、ゆっくりと西の森を目指して進行中! 我々の手には負えない! クラウス! レイとマルキオン教授の安全確保の上、避難しろ!』
すぐさま飛ぶコリントの怒号のような指示に、クラウスは即座に反応した。リュールゥを片手で抱えたまま、レイに手を伸ばす。腕を取られ、引っ張られるようにレイはクラウスと共に誘導煙幕弾の着地地点へと走った。
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