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第130話 安堵の先に

 凍り付いたドラゴンゾンビは、音もなく墜落した。クラウスとアースドラゴンが築いた歪な櫓に着地した瞬間、それまで動いていたのが嘘だったかのように、音もなく歪な巨体は崩れてしまう。まるで、元々が粉の塊だったのかと思うほどに、細かい粒となって櫓の表面を流れていく。突然冬が訪れたのかと錯覚するほどに、冷えた空気が肌を撫でた。  捕まえていた巨体が瓦解したことで、クラウスは伸ばしていた自身の魔力を、血振りするかのように素早く振ってから戻した。  そよ風で飛んでしまいそうな程の細かい粒子と化したドラゴンゾンビを見ながら、クラウスは先ほどの光景を反芻する。夕闇が迫る空に線を引くように放たれた攻撃用魔法薬。一介の魔術師では到底行使できない高度な攻撃が、魔法薬士によって行使されてしまった。もちろん、ドラゴンの鱗という超レア素材があったからこそできたことではあるが、魔法薬なのに器に閉じ込めないという発想の転換や、攻撃用魔法薬の圧縮を研究していた彼の経験がなければ、失敗に終わっていただろう。  西エリアから、様子を窺うように騎士たちがそっと出てきたところで、クラウスは隠密魔法を行使した。ぎりぎりの戦いになる可能性もあったため、戦闘中は隠密魔法を使用していなかった。顔はマルキオン教授のクラバットを拝借して隠していたため、恐らく露見していないと思いたい。  ドラゴンゾンビの成れの果てが再生しないか確認したいところだが、レイの方も心配だ。避難しろと言った手前、コリントたちはもういないかもしれないが、後続監視は任せよう。そう判断し、クラウスが小型通信魔法機器に手をかけた時だった。 『く、らうす……っ!』  苦しくも艶やかな声が、自分を呼んだ。その瞬間、クラウスは何も考えずに走り出した。ドラゴンゾンビの足止め役のために駆け付けた時よりも速く、さながら一陣の風のように森を駆け抜けた。  暗緑の木々たちの間をすり抜け、細い枝が髪を掠めるが、気にも留めずに走り続ける。  先ほどのレイの声は、まるで調律時の喘ぎ声のように甘やかな響きを纏っていた。確実にリミッター解除薬の副作用が出ている。その恐怖が、クラウスを焦らせていた。今、レイの近くには、魔力の相性が“悪くない”マルキオン教授がいる!  走りながらも、意識は小型通信魔法機器に注がれていた。レイの嬌声が聞こえてきてしまうのではないか、そう思うと気が気でなかった。やはり、レイから離れるべきではなかったのだ。それがたとえレイたっての希望であり、調合の際にもしもの事態が発生した場合は、師であるマルキオン教授がサポートに入るからと、あの自信に満ちた顔で言われたからといって、押し切られてはいけなかったのだ。  ざぁっと足を滑らせるようにして止まり、目に入った光景に、クラウスは全身の血が冷たく下がっていくのを感じた。レイが、マルキオン教授の片腕に抱かれ、気を失っている。倒れそうになったところを地に着く寸前で受け止めたような体勢のまま、マルキオン教授はもう片方の手で魔法を行使していた。手の上には魔法陣があり、その上を一枚のハンカチがくるくると回っていた。その魔法は、レイが行使しているのを見たことがある。おそらく解析魔法だろう。 「安心して……って言っていいのか分かんないけど、麻酔薬を使ったみたいだね。魔力からのアプローチによる麻酔薬は、生命維持機能はそのままに意識を深く沈めて体の感覚も遮断するから……あ、意識が落ちて倒れ込んだところを受け止めただけだからね! 僕のせいじゃ――」 「分かっている」  状況を説明している最中に、とってつけたように並べられた言い訳をバッサリと切り捨て、クラウスは眠っているレイの体を受け取った。意識はないのに、熱に浮かされているように大きく呼吸を繰り返している。しかし、触れているレイの体からは、平熱より高い熱は感じられない。 「ぅンっ」  体温を確かめるために頬にそっと手を添えただけで、眠っているはずのレイが鼻から抜けるような声を上げた。ただそれだけにもかかわらず、聞いたこちらの脳が痺れるかのような甘さがあった。  クラウスは素早くマルキオン教授の方に視線を走らせると、マルキオン教授はすかさず視線を外した。 「あー、えっと……馬どこ行ったかな。逃げられてたら困るなー。魔物の餌になっちゃうし。僕、先に帰るね。あ、心配しないで。流石に魔物に遭遇したらすぐ逃げるから」  視線を彷徨わせながらそう言うと、マルキオン教授がそそくさと立ち去ろうとする。クラウスはその後ろ姿に釘を刺すように伝えた。 「タウンハウスに着いたら……時間をいただきたく」  マルキオン教授はぴたりと足を止めた。この事件が起きるまでは、クラウスはマルキオン教授に敬意をもって接していた。先ほどまでの高圧的な物言いから、この事件が起きる前までのような口調に戻っていても、今ではもう深い溝のようなものができてしまっている。だがそれでも、協力関係であることは変わりがない。  そのあたりの線引きはきちんとする。そのクラウスからの意思表示に、マルキオン教授は天を仰いだ。  曰く、話は仕事が片付いた後と言うことだ。強い魔法の気配を感じ、マルキオン教授が振り返った時には、クラウスとレイの姿はそこにはなかった。恐ろしい速度で隠密魔法を行使して、もう出発したのだろう。 「……僕、やっぱり命ないかも……」  その独り言ははっきりとアースドラゴンの耳にも届いたが、聞こえなかったフリをして、薄紫色に光る髪の魔術師に声をかけた。 『人の子よ。頼みたいことがある』  響く人語を模した魔力の波動に、マルキオン教授は跳ね上がった。まさかアースドラゴンが自分に話しかけると思っていなかったのだ。今までしたことのない経験に心躍るのを隠し切れそうにない。  だがその興奮も、長くは続かなかった。アースドラゴンからの頼みごとの内容が、あまりにも予想外の内容だったからだ。  レイの部屋に入る。眠っているレイをベッドの上に寝かせ、靴を脱がそうと体を離すと、レイの魔力がクラウスに纏わりついてきた。驚いてレイに目を向けるが、本人は静かに眠っている。 「……レイ?」  分かっていたが、呼びかけても反応はない。魔力の感知能力が高いレイなら、きっとこういった時に相手が何を伝えようとしているのか分かるのだろうが、生憎クラウスはそんな能力を持ち合わせていない。  拘束力のないレイの魔力の中で、クラウスはレイの靴を脱がし、ベッドの横に揃えた。クラウスがレイに贈った綺麗な飴色の革靴も、どうやら馴染むほどには履いてくれているようだ。次は何を贈ろうか。そう思いながら、先ほどの胆の冷える空の旅を思い出して、クラウスは小さく息を吐いた。自分が贈った些細なものも、彼は大切にし過ぎてしまう。まさか飛ばされたリボンを、身を投げ出してまで追おうとするとは思っても見なかった。  ベッドに腰かけ、レイの眼鏡を外そうとしたが外れない。空中で落とさないように、眼鏡のつるの先同士が紐できつく結ばれている。よく見ると鼻あてがレイの頭に食い込んでおり、痛そうだ。頭を持ち上げれば外せるかもしれないが、意識がないとはいえ、それは苦しそうだ。  クラウスはレイの頭と紐の間に指を差し入れて挟むと、一瞬だけ指の接触部分に小さな火魔法を行使した。紐を一瞬で焼き切り、すぐに鎮火させる。紐の先の熱さが引くのを待ってから、クラウスはレイの眼鏡を外した。  くっきりと眼鏡の鼻あての痕が残るレイの顔を覗き込む。吐息の熱さだけは変わらず、少し苦しそうに見える。リミッター解除薬の副作用によるものなのか、それとも強い魔法麻酔薬を使用したことによる反動なのかも分からない。  ほどなくして、廊下を歩く足音が聞こえ、クラウスはベッドから立ち上がった。まるでこちらの意図を読み取ったようにレイの魔力が離れていき、むしろクラウスはそれが名残惜しくも感じた。  ドアの前にいる気配が、なかなかノックをしてこない。仕方なくクラウスが魔法でドアを開けると、ノックをしようと挙げた手が彷徨ったまま行き場を失い、勝手に開いたドアの前で固まったマルキオン教授がいた。  無言で見つめると、腹を括ったような顔をしたマルキオン教授が一歩部屋の中に入り、後ろ手にドアを閉めた。 「……お招きいただき、ありがとうございます」  厭味としか受け取れないお礼を受け、クラウスは何も言わずに来客用のソファへ向かった。  気まずい相手にとって、無言は最大の圧力でしかない。クラウスはそれを重々承知していた。だが、クラウスは何も応えるわけにいかなかった。  マルキオン教授がソファに座り、じっとこちらの動向を窺おうとしている。クラウスは一度ゆっくりと目を瞑り、気持ちを整えてから再び目を開いた。 「……今回の」  クラウスが口を開くと、マルキオン教授の顔が少し強張った。一度言葉を切り、マルキオン教授が息を呑むのを確認してから続ける。 「ザルハディア王国への同行について、ご協力いただいたにも関わらず、重ねて危険な事件に巻き込んでしまったことを、深くお詫び申し上げます」  クラウスが言い終わると、マルキオン教授の視線がまっすぐにクラウスの顔に向いた。長い沈黙。マルキオン教授がクラウスの言葉を理解するのに、数度ゆっくり瞬きができるほどの時間がかかった。 「…………へぁ?」  よく分からない音が、マルキオン教授の唇から漏れる。しかし、クラウスはそれに構わず更に言葉を重ねた。 「お詫びとお礼については、帰国後に改めてお話させていただきます。ただ、一連の事について、大変申し訳ありませんが、箝口令を敷くことが決定しており――」 「ちょ、ちょっと待って」  クラウスの言葉を遮り、マルキオン教授はこめかみに指を当てながら、困惑した表情を浮かべた。 「あー、えっとね。事前にレイ君を通して、コリントさん? から、宣誓魔法の行使も必要であることは説明を受けているし、あなた方の目的は知りませんけど、なんとなく“聞かない方が良さそうな話”なのは察してるので、深く説明する必要はないです」  マルキオン教授は、一度肩の力を抜くようにしてこめかみを押さえる手と反対の手を振った。 「いや、えっと……こんなの藪蛇なのは分かってるから言いたくはないですけど……僕も、それなりの覚悟をしてここまで来たんですが」  少しの怯えを滲ませ、マルキオン教授はため息を吐きながらも、話を切り出した。 「医療現場では、ままある話なんです。婚約者がいる相手に医療行為を施したことで、魔力に惹かれて破談になる、とか。そこまでいかなくても訴訟を起こされるとか、色々……。ただ、やはり緊急時対応によるものだから、医療側に責任は問えないことになってるんだけど……その、今回のことについては、必要だったとしても……えっと……そこまででは、なかった……でしょう?」  自ら罪を告白したことで少し肩の荷が下りたのか、はたまた開き直りか、マルキオン教授は言葉を選びながらも饒舌に話し始めた。 「僕が勝手にしたことで、レイ君が望んだことでもなかった。レイ君に落ち度は全くないよ。だから、婚約者である貴方の怒りの矛先は、僕だけに向けられるべきであり、こんなことを言うのは大変勝手なのも重々承知の上ですが、もしお目こぼしを戴けるなら、家門と僕の恋人を咎めるようなことをしないでもらえると、ありがたいです」  そこまで言い切って、マルキオン教授はクラウスの言葉を待った。しかし、藍色の瞳を持つレーヴェンシュタイン公爵家の後継者は、その表情をぴくりとも動かさずに、ただ黙ってソファの前にあるローテーブルに視線を落としていた。 「……レーヴェンシュタインは」  クラウスの答えはひどくあっさりとしていた。 「マルキオン伯爵家も、サルベルト伯爵家にも、危害を加えようとはしない。レイが望まないだろう」  その言葉に、マルキオン教授はほっと胸をなでおろしたが、だがまだ不安は拭い切れなかった。自分への報復がどのようなものなのかをまだ聞いていない。再び気を引き締め直し、クラウスの言葉を待つ。  じっと藍色の瞳を見つめても、その表情からは感情を読み取れない。怒りも悲しみも、完璧に鳴りを潜めてしまっている。 「私個人の感情は、私が向き合うべき自身の問題だ。私からは特に、貴方を咎めたり、何かを求めるようなことはしない」  拍子抜けするほどに、クラウスはこちらにとって都合のいいようなことばかりを口にする。マルキオン教授は思わず怪訝な顔でクラウスを見た。  一瞬の間。その後に、クラウスがベッドに横になっているレイを見て、表情が一気に人間味を帯びる。 「レイが貴方をどうしたいか、それに全てを委ねる。……だが、もう貴方は、相応の罰を受けたでしょう」  再び藍色の瞳と視線が交差する。マルキオン教授は、クラウスが何を謂わんとしているかが分からなかった。そして、クラウスの表情が、一気に不機嫌に歪んだ。 「……“レイに嫌われたかもしれない”。少し落ち着いたあと、彼は普段通りに貴方と接するだろう。しかし、その不安は一生拭えない。……今回の一件で、貴方にとってそれが一番苦しい罰でしょう。私にはそれが分かる分、貴方にとっての一番の罰がそれであることが、一番許せない」  クラウスの言葉に、マルキオン教授は自身の胸にそっと手を添えた。何かつかえがとれたような、腑に落ちたような、よく分からない感覚が胸を支配していた。  目の前の男は、まるで自分がレイに好意を持っているかのように語る。確かに否定はしきれない。本当に気に入っていた。一番の愛弟子だった。そしておそらく、サルベルト教授と出会ってさえいなければ、きっとマルキオン教授はレイを失う痛みに耐えることはできなかっただろうことも予想できる。そして彼が語るように、自分の婚約者に他人が好意を向けていることが許せないという点も理解できる。  全て納得できる。だがやはり、レイとサルベルト教授を天秤に掛けた時、傾く先は、決まっているのだ。 「僕が愛しているのは……ファーレン・サルベルト、ただ一人ですよ」  マルキオン教授は、ただ静かに微笑んでそう答えた。クラウスの視線がじっとマルキオン教授を捉え、それはすぐに逸らされた。嘘偽りのない本心であることは、どうやら信じてもらえたらしい。だが、視線を逸らしたクラウスをマルキオン教授は眺め続けた。  正直、冷たい印象しか受けないこの男に、レイが惹かれる理由が分からなかった。それほどまでに魔力の相性という呪縛は、魔法使いにとって重いのか。そんなことを考えるほどに。  しかし、今はレイがこの男に惚れた理由が、なんとなく分かるような気がした。  不意に、ベッドが軋む音がする。二人の視線がぱっと音のした方に向くと、むくりとレイが上体を起こしていた。  クラウスが立ち上がり、すぐにベッドに向かって行った。だが、マルキオン教授は腰を浮かせたまま、ベッドの方へ向かうことができなかった。  おかしい。あの魔法麻酔薬を摂取して、こんなに早く目覚めるわけがない。その異常事態を観察したい気持ちと、遠目でも分かる程、意識レベルがクリアではないレイの状態を見て、心がざわついて足が動かなかった。  明らかにぼうっとしているレイに、クラウスが近付いた瞬間、レイは腕を重たげに持ち上げ、クラウスの顔を引き寄せた。 「――っ!」  突然始まったレイからの熱い口付けを、クラウスはそのまま受け入れたが、視線だけがマルキオン教授に向いた。  部屋から出ろ。有無を言わさない無言の視線に、マルキオン教授は慌てて部屋を飛び出した。

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