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第132話 アナスタシア

 深いため息を吐いてから、ペリスコット公爵はローテーブルの上にあるティーカップに手を伸ばした。そのままカップに口を付けるのを見て、皆もティーカップに手を持ち上げた。別段毒を警戒しての話ではない。単に皆、報告に夢中で飲むのを忘れていただけだった。  すっかり冷めきったお茶を飲み下した後、ペリスコット公爵は口を開く。 「さて、件のベイストン博士だが……昨日ウィルザック・マルキオン氏より受けた報告は本当か?」  突然出てきたマルキオン教授の名に、レイは目を見張った。どういうことだ? とクラウスに視線で問おうとするが、流石に視線は合わなかった。 「はい。昨夜、ウィルザック・マルキオン氏が『囚われていたアースドラゴンから言伝を頼まれた』と」  昨晩の内に、ペリスコット公爵はマルキオン教授と既に挨拶を交わしたようだ。その際に、レイが麻酔薬で眠っている間にあった話が、どうやらペリスコット公爵に伝わったらしい。昨日はケリーとコリントもこの邸宅に泊まったようなので、ペリスコット公爵に会う前に、二人には事前に共有されていたのだろう。  ペリスコット公爵は、再び面倒そうに瞼を半分ほど下ろした。 「……『ベイストン博士を正式に処罰する前に、博士宅で彼の罪の清算を』とのことだが、意味が分からない。様子を探らせるためベイストン博士の家へ部下を派遣したが、結界に阻まれて近付くことすらできなかったそうだ。更に本人へアースドラゴンからの伝言を伝えたところ、ベイストン博士からはレイ・ヴェルノットの同行を求められたと言うが?」  突然出てきた自分の名に、レイは思わずカップを落としそうになった。報告会が始まってから一度も口を開いていなかったレイへ、一斉に視線が向く。 「俺……私ですか?」  皆目見当がつかない。そう暗に伝えるレイに、ペリスコット公爵は頷いた。 「親しい仲か?」 「いえ……恩人ではありますが……」  レイはカップをソーサーの上に戻し、自身の掌に視線を落とした。  ベイストン先生が、幼少の頃にレイが書いた手紙を大切に持っていたことを思い出す。手紙を丁寧に畳んで手帳に挟み、袖へしまい込んだ手の温度の冷たさが、今更ながらレイの気持ちを沈めた。  ふむ、と顎に手を置くペリスコット公爵が、はっと顔を上げる。 「そうだ。君は、クラウスの婚約者だったな。すまない、本当なら先に挨拶をするべきだった。礼を欠いてしまい――」 「え? あ! いや、その……はい。先月婚約しまし、た……レイです」  二人してオロオロとしはじめるのを、諜報部の面々はやれやれといった表情で見つめてきた。挙動不審な態度を取ったことで、レイは急に火照り始めた頬を仰ぎながら、クラウスの体に隠れるようにそっと座る位置を調整する。ペリスコット公爵が社交嫌いというのは、単純に苦手なだけなのだろう。そうでなければ、高位貴族がそう簡単に謝罪をする場面に出くわすわけがない。まさに自分と同じタイプだろう。そう思いたかった。そも、オルディアス国王と同じ顔でそんな対応をされたら、こちらの調子が狂うのも仕方のないことではないか。 「ルミアの孫、と聞いている。ザルハディアは二度もヴェルノット家に救われたことになるな。帰国後は大変だろう」  ペリスコット公爵が、ははっと笑う。それを見ながら、レイはぱちくりと瞬きを繰り返した。帰国後に何がある? 何が大変なのか分からない。リミッター解除薬のことを今度こそ吐けと言われるとか? いや、そもそもレイは諜報部の人間ではないのだ。明かす必要はないはずだ。  分かっていないことが表情に出ていたのか、ペリスコット公爵が呆れたように見てきた。 「今朝の新聞は読んでいないのか?」  言われて、レイは閉口した。寝坊したのだ。今日に限っては読んでいない。それはクラウスも一緒だったのだろう。二人で気まずそうに顔を見合わせていると、コリントがやれやれと謂わんばかりに今朝の新聞をローテーブルに広げる。  一面を飾っていたのは大きな写真だった。このカメラマンは命が惜しくなかったのだろうか。ドラゴンゾンビの巨体を全てレンズに収めるために、足元から見上げたような角度で取られた写真が目を惹いた。そしてその写真の角に被せるように、引き延ばして拡大した写真が重ねて掲載されている。こちらは、森に佇むアースドラゴンの上に浮かぶ、空に描かれた調合用の魔法陣がに焦点が当てられていた。  レイはごくりと喉を鳴らして、その煽り部分を目でなぞった。固まって動かないレイを横目に、ケリーが面白そうに記事を読み上げる。 「……『絶望を切り裂いたのは魔法か、魔法薬か。突如西エリアに現れた“不浄のドラゴン”は、アースドラゴンをも吹き飛ばし、エルフが棲む森へと侵攻を開始した。皆の頭に、四十三年前に起こった事件がよぎったことだろう。かく言う筆者もその一人だ。当時、エルフの森で暴れたアースドラゴンを討ち、モンスター・スタンピードを食い止め伝説となったルミア・ヴェルノット。その彼女を彷彿とさせる銀色の髪の救世主とは?』……だってよ? 先生?」  よく見ると、確かに空に浮かんだ魔法陣の下、アースドラゴンの頭の上に誰かが立っているのがおぼろげに見える。写真では色までは判別できないが、見る人が見れば、レイじゃないかと思う人はいるかもしれない。だが、実際その程度の写真だ。 「銀灰色の髪というのは、確かにありふれてはいるだろう。だが、伝説の魔術師が四十数年前にやった偉業を、この魔術師が少ないザルハディア王国で他に誰ができるというのだ。そしてその孫が、他国からの出入りが規制されている中、特別に入国し、魔法薬士としてこのザルハディア王国の学会に参加している。加えて空に浮かんだのは、魔法薬士大国としては見慣れた調合用魔法陣」 「“俺がやりました”って言ってるようなもんだよね」  ペリスコット公爵とコリントが口々にレイに諭してくる。手が震え始め、そのままレイはクラウスの方を見上げた。助けを求めた先にいるクラウスの視線はじっと新聞に注がれており、そのまま一点を指差す。 「……『伝説の魔法薬士』だそうだ」 「荷が勝ち過ぎだろう!」  レイの叫びは空しく応接室に響き渡った。  郊外にある一軒家。まるで貴族が逢引用に誂えたような小ぢんまりとしたその家は、簡素な柵で囲まれているように見えた。実際にその家を包んでいるのは、幾重にも重ねられた分厚い結界だった。厳重に中にあるものを守ろうとするその執念じみた結界は、まるで一種の檻のようにも見えた。  ベイストンが護送車の中から出てきた時、彼はあの柔和な笑みをレイに向けてきた。その表情には似つかわしくない程重そうな魔法使い用の拘束具が、ベイストンの両手には嵌められていた。魔法使い用の拘束具は、魔力による支えが全くなくなる。レイが以前嵌められた時には、体のだるさが酷くて立ち上がるのもやっとだった。だが、ベイストンはものともせずに背筋を伸ばし、ゆっくりと敷地の中へと入って行った。 「……『歓迎』するよ」  ベイストンの言葉に反応し、敷地を覆う結界が消える。隣にいたケリーが、小さくため息を吐いた。彼が何を思ったのかは分からないが、レイはいつもはそこにいるはずのクラウスの姿が無い事の方が、気になっていた。クラウスは今、ペリスコット公爵からの指示で別の仕事を担っている。別段心配などはしていないが、先にペリスコット公爵邸を出発して行ったクラウスの様子が少しおかしかったことが気がかりだった。  柵に囲まれた敷地内は、そこだけが春のようだった。花壇に咲く色とりどりの花は大きく開き、玄関までの小路に生えている雑草ですら鮮やかな緑色をしていた。  一歩進むたびに、レイの顔は自然と険しくなっていく。まるで写真のように切り取られた空間のようだ。見目麗しいにも関わらず、ここに生の気配はない。香りも、虫の音も感じない。ここだけが時が止まっているかのような気持ち悪さが、ただそこに在った。  開け放たれたドアを潜る。小さな部屋の中は生活感であふれていた。デザイン性はないが、使い込まれた丈夫そうな家具。日に灼けた黄緑色の薄いカーテン。窓辺にある丸いテーブルの上に、出しっぱなしのマグカップが二つ。しかし、それでもそこに人が住んでいるような気配を感じなかった。  ベイストンが、ゆっくりとした足取りで、奥の部屋へと入っていく。軽そうな木製のドアを押して入って行ったときのベイストンの横顔には、何とも言えない寂しさが滲んでいた。  奥の部屋は寝室だった。窓から白いレースカーテンを通して、柔らかな秋の陽光が入っている。しかし、その部屋の空気は冷え切っていた。  レイは、その異様な光景に心臓が跳ねた。深い悲しみの層を纏うように、茶色と緑色のプリズムがベッドに横たわる女性を包んでいた。  ベイストンがベッドのそばまで近付くと、跪くようにしてプリズムに触れる。 「……ナスチャ…………」  呟き、零れたベイストンの声は湿っていた。愛しさと深い喪失感が、ベイストンの肩を震わせている。レイは二人の時間を邪魔しないように、そっとベッドへ近づいた。  枕を隠すように広がる亜麻色の髪は、ひどく痛んでいた。血の気の無い肌に透明感は無く、そばかすがよく見えた。――これは、生の保存ではなかった。目の前に横たわる女性は、死を切り取られ、ただそこに痛みを残して繋ぎ留められていた。  レイは聞くべきか聞かざるべきか、逡巡した。だが、ベイストンがレイを呼んだ理由を考えると、それまでの迷いもなかったかのように、口からするりと言葉が飛び出した。 「……彼女は?」  問いに対し、ベイストンは鼻をすすり、ぐっと口元に力を入れた。数回、深く息を吸い込む音が部屋に響く。心を落ち着かせるために、目の前の老人には必要な工程のようだった。 「彼女は、呪われてしまったんだ……私の最愛であったばかりに、私の……妻から……」  返ってきた答えは、老人の中で巣食っていた重い懺悔だった。 「彼女は最期の最期まで、笑っていたよ。苦しかっただろうに……痛かっただろうに……」  プリズムに縋るように額を当てるベイストン。その指の色が変わるぐらい力を入れていても、そのプリズムはびくともしなかった。改めてプリズムを見てみると、その発生元は彼女の眠るベッドの下にあった。床に彫り込まれた見たことのない魔法陣の上に、大きな魔力石が乗っている。魔法陣に使用されている文字を、レイは見たことが無かった。 「……アースドラゴンの御業、ですか」 「そうだよ。彼女の親友が……施してくれたんだ」  レイはその魔法陣に彫り込まれた機構を読み取ろうとした。だが、どうにも理解が及ばない。ただ、レイはその機構を見たことがあった。祖母の魔法薬店、その地下にあるルミアの研究室の薬棚だ。あれには時を止める古代魔法がかけられている。だが、その古代魔法を真似しようにも、レイにそれはできなかった。古代魔法であることが分かっていても、それを読み解くことができなければ行使はできない。言い換えれば、古代魔法に適正があるレイですら、ルミアの薬棚に掛けられた魔法を読み解くことができないのだ。目の前にある、ベイストンの恋人を世界から切り離したこの魔法機構のように。 「……ベイストン先生」  レイは静かに彼の名を呼んだ。その後の言葉を、どうにも紡ぐことはできなかった。だが、ベイストンもレイが何を謂わんとしているかを承知しているようだった。  項垂れ、小さく首を横に振る老人は、絞り出すように呟いた。 「嫌だ……離れたくないんだ」 「ベイストン先生」 「嫌だ……嫌だ、ナスチャ……」 「ベイストン先生!」  小さな部屋に、レイの声が響く。それに応えるように、ベイストンの嗚咽が苦しそうに後から続いた。  彼は、とうに狂ってしまっていたのだろう。自身の最愛を失ったことにより、正気でいられなかったのだ。こんな冒涜的な歪みに縋ってしまわないといけなくなってしまうほどに。  ザルハディア王国屈指の魔法薬士、その高みに上り詰めても尚、魔力の相性による呪縛からは逃れられなかったのかもしれない。 「……わかって、いるんだ」  声を詰まらせながら、ベイストンは震える指を眠っている彼女へ伸ばした。しかし、彼女の時を止めているプリズムが、触れることを許さない。 「彼女が、こんなことを望んでいないことも、わかって、いるんだ。……こんな体たらく、彼女は……怒るだろうなぁ……」  ベイストンの指が、彼女の方から、ゆっくりと床下へと伸びていく。上がる呼吸音と、瞬きをしていないのにとめどなく頬を流れる涙が、彼の葛藤をまざまざと見せつけてくる。  ベイストンがレイを呼んだ理由は、このためだったのだろう。おそらく彼一人では、彼女の時を進める勇気が持てなかったのだ。 「……なら、怒られてきてください。きちんと」  レイの声は、震えていた。ベイストンがレイの顔を見る。そして、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、あの柔和な笑みを浮かべようとしていた。 「あぁ……そう、だね……そうしよう。他でもない、君が言うのなら」  ベイストンの震える指が、魔法陣の上にあった魔力石を軽く弾いた。床の上を魔力石が転がり、魔法陣に込められていた魔力がゆっくりと褪せていった。  亜麻色の髪の女性を包んでいたプリズムが、ふっつりと溶け消える。 「あ……あ、あ……あああああああっ!」  ベイストンの声が響いた。その声は、やっと彼女に触れられる歓喜の声であり、決別の時を告げる叫びでもあった。  レイは、静かに部屋を出た。その後ろを、ケリーが黙ってついてきていたが、それに構うだけの心の余裕はレイにはなかった。  玄関を出た先には、既に冬の気配が漂っていた。ケリーが玄関のドアを閉めると、僅かにベイストンの声が小さくなる。 「……あれで、よかったんだよな」  レイは独りごちた。老人の感情の発露は、レイが受け止めるには重すぎた。ベイストンの期待に応えるべく発した言葉が、あれで正しかったのかは分からないが、今の自分に出せる精いっぱいの言葉だった。 「……介錯としては、充分だったんじゃねぇの?」  ケリーの言葉を期待した独り言ではなかったが、どうやらケリーはそう受け取らなかったらしい。 「そうか……傍から見ていてそう思われたなら、本望だ」  レイは弱り始めた足元の草地を見ていた。今、隣にいるのがクラウスじゃなくて本当に良かった。彼はきっと、レイの心に寄り添い過ぎてしまう。だが、レイはそれを望んでいなかった。――本当の幸せとは、好きな人と共に死ねることなのではないだろうか。そんなことを、頭の片隅で考えていたのだから。

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