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第138話 始まりはここから
控えめに聞こえたノックの音で、重い瞼を持ち上げた。暈けた視界は以前より見えるようにはなったものの、やはり未だに回復はしない。そっと病室のドアが開いて、静かに閉められる気配がする。もう聞き慣れてしまった小さな足音に耳を傾けながら、近付いてくる人物の方へ顔を向けた。
「っ……アル、か?」
喉が絡んだが、何とか絞り出すように声を出すと、ぼんやりと人影がこちらを覗き込んだ。
「……おはようございます。当主様」
穏やかな声で挨拶をする執事のアルに、なんとか動くようになった腕を持ち上げて、起き上がりたいと伝える。アルはきちんとこちらの意図を汲み取り、体を支えて座位をとらせてくれた。背に枕のほかにクッションを挟んで上体を保持するように調整してくれる。
「アルが来たと言うことは……もう一週間か」
支えてもらって日に当たることもあるが、それも調子のいいときだけだ。日がな一日寝て過ごす事の方が多い今となっては、日付の感覚も失われてしまう。
何年間も呪いを受けていたこの体では、すでに生きる気力などとうに失われている。しかも、自身を呪っていた相手が、ザルハディア王国より迎え入れた愛する妻だった事実も、死への願望を後押しする結果となっていた。
「……もうすぐ、クラウス様がお帰りになりますよ」
言い置くようにして、アルが水差しをもって病室の隅にある水場へと移動していく。見えづらい目を凝らすようにその姿を追いかけて、ふと疑問に思う。
「婚約者殿の学会は、二週間程ではなかったか?」
クラウスは、婚約者が参加する学会に護衛としてついて行ったという。オルディアス王の指金かは分からないが、レーヴェンシュタインにとって、あそこは苦い地となってしまった。
妻のリーンが自身を呪っていた事実は、この身に降りかかった呪いが解けた日に、ディートリヒから告げられた。そして、最期を看取ったということも。何故彼女が呪いなどという回りくどい方法を取ったのかは、今のところ不明だ。――本当に私を殺したいほど憎く思っていたのであれば、もっと方法などたくさんあっただろうに。
「それについてもご報告が」
そう前置いて、アルは新聞を取り出した。アルは、目が不自由になってしまった自分の代わりに、この一週間の間に起こった目ぼしい内容の記事を読み上げてくれていた。少し前まではディートリヒが来てくれていたが、まさかディートリヒまでもが、家族を手にかけようとしていたという事実に、驚きと落胆を禁じ得なかった。
アルが読み上げた記事は、外国情勢についての部分だった。ザルハディア王国の主要都市でドラゴンゾンビが出現、それを撃退した人物がいたという。伝説の魔術師の再来を彷彿とさせたその人物の正体こそ明かされていないが、書かれている容姿の特徴を見る限り、オルディアス王国でも一躍時の人となったクラウスの婚約者、レイ・ヴェルノットなのではないか、と実しやかに語られているそうだ。
「ドラゴンゾンビ出現の直前まで、アースドラゴンが学会会場である継智の塔にもいたそうです。そのおかげで会場が封鎖され、学会の開催が難しいことから、帰国も早まったと、連絡がありました」
「……なる……ほど」
アルの話を黙って聞いていたが、言いたいことがあり過ぎて、どこから話せばいいかも分からない。まったくもって面白いことになっている。
「そして帰国した後、当主様へご挨拶に伺いたい、とも」
霞む視界を目一杯広げて、アルの方を見る。雰囲気でしか分からないアルの表情は、非常に穏やかだった。言い出したのはどちらなのか。そう考えた時、自分の特徴をそのまま写しとったかのような顔が、ふと頭を過 った。もう何年も顔を合わせてはいない。光の速さで通り過ぎていったクラウスの顔は、今の年齢を考えるとずいぶんと幼かった。
もう死を待つだけの自分に、視力の回復など必要ない。それでもいいと思っていたが、今の息子の顔も、息子が選んだ者の姿も見られないのは、やはり残念に思う。愛する妻に呪われるような自分が、欲深くも生きたいと願っていいのだろうか。
「……気を遣う必要などないものを」
目を閉じ、瞼を抑えるように顔を覆った。
目を閉じれば、今でも鮮明に二人の女性が自分を見つめてくる。艶やかな栗色の髪をした前妻と、鮮やかな赤い髪の後妻。冷ややかな視線を向けてくる二人は、幻であることは充分理解していた。かつて二人が生きていたころに、そんな表情など向けられたことはなかったのだから。それでも良かったのだ。彼女たちの顔を忘れるぐらいならば。
「それもまた、クラウス様たちのご意思でございます」
返ってきた言葉が不思議で、顔を上げる。アルは、そのようなことを言うような者だっただろうか。なんだかとても懐かしい。息子たちと同じような年齢の人間に、そんなことを諭されるようでは、私もまだまだか。
「今のは、君の父上そっくりだったよ」
「……出過ぎた真似をいたしましたことをお詫び申し上げます」
「その返し方も、そっくりだ」
込み上げる笑いを抑えようとしたが、くっくと喉から声が漏れた。少し肺に痛みが走り、浅く呼吸を繰り返して、息を吐く。なんとも不自由な体だ。初めて会う婚約者殿は、こんな自分を見た時にどんな表情をするだろうか。
「帰国は?」
「おそらく二日後ぐらいかと」
横になろうと動くと、アルの手がすぐさま伸びてきた。体を支え、ゆっくりと無理のないようにベッドの上へ寝かせてくれる。頭が枕の上に乗って落ちついたところで、口を開いた。
「医師を呼んでくれ。現状の確認をしたい」
「かしこまりました」
指示を受けてすぐさま立ち上がったアルに、そのまま続ける。
「それと、今後の治療方針の説明を求める。アルも同席し、書面に起こしてくれ」
ぴたり……と、アルの足が止まった。こちらを一度振り返り、震える声で「はい」という声が返ってきた。病室のドアが開き、アルの影が廊下に消えるのを見送ってから、再び目を瞑った。
鮮やかな赤い髪の姿は、もう見えなくなってしまった。こちらに視線を向けているのは、栗色の髪の女性だけだった。だが、先ほどまでの冷たい視線ではない。その表情は、生前の彼女と同じように穏やかだった。
あぁ、フィー。そんな顔を向けてもらえるような人間ではないのは分かっているんだ。でも、すまない。愛しているんだ。君への愛がなくなったわけではないが、私は、彼女 を深く愛してしまった。そんな彼女から呪われてしまうだけのことを、きっと私はしてしまったのだろう。彼女の顔を思い出せない日が、いずれ私にも訪れる。その時は、どうか今みたいに、私を笑ってくれ。仕方がない奴だと、どうか、私を嗤ってくれ。だから、赦しておくれ。願わくば、彼女が死して尚、安らかであることを、どうか――
レイたちの転移番号が表示された部屋に入っても、直前に行われた転移にて問題がなかったか調べたり、次の準備だの確認だのでしばらく時間はかかる。ただ、レイは転移魔法陣の前で座って待つこの時間が一番好きだった。転移装置に使われている魔法機構を見るだけで心が躍るし、びりびりと感じる魔力の波動に包まれる感覚は嫌いではなかった。遠くで感じるのと、浴びるように感じるのでは、やはり訳が違う。
「……楽しそうだね」
マルキオン教授が呆れたように呟くと、頭 を振るようにレイの隣で立っているクラウスを見上げた。
「微笑ましそうに見てるけど……転移したあとの超絶グロッキー状態を知ってるでしょ? なんでそんなに楽観的でいられるのさ」
はあ、とわざとらしくため息を吐いて、組んだ足の上で頬杖ならぬ顎杖をついているマルキオン教授を見た後、レイはクラウスを見上げた。マルキオン教授の指摘を受けてか、心配そうにこちらを見て来るクラウスに、レイはポケットの中から酔い止めを取り出してひらひらと振って見せた。
「大丈夫。ちゃんと飲んだ」
「……そうは言うが……」
クラウスは言い淀んで、眉を寄せた。渋々エチケット袋も見せると、「そういうことじゃない」と首を振られる。だからといって、今からイヤだと駄々をこねながら震えたところで、余計にクラウスは不安そうにするだろうに。いったいどうしろというのだ。
「少なくとも、僕はまだ帰りたくなかったよ」
意外なことを言い始めるマルキオン教授に、レイとクラウスの視線が集まる。やっと恋人であるサルベルト教授の元へと行けるというのに、そんな言葉が出てくる意味が分からない。二人の顔の上に浮かんでいる疑問符に、マルキオン教授はほとほと呆れたように言い放つ。
「帰ったら、シーズン真っ只中だよ」
「あっ」
今までは自分にとって無関係だった社交界シーズンを思い出す。そういえば、レイは齢二十八にして社交界デビューとなるのだ。しかも、隣にいるレーヴェンシュタイン公爵の後継者、クラウス・フォン・レーヴェンシュタインの婚約者として!
「しかも、今回のドラゴンゾンビ事件でしょ?」
「あ、あぁ……」
追い打ちをかけてくるマルキオン教授の言葉に、レイは思わず手に持っていたエチケット袋を落とした。指が震えてうまく拾い上げられない。見かねてクラウスがレイの足の間に落ちた袋を拾い、ニヤつきながら手渡してきた。
「ただでさえ、後継者の同性婚を国王に承認された初の事例により元々の注目度が高かった上で、『伝説の魔法薬士』の帰還となるわけだな」
楽しそうな響きを奏でる低音とともに、ぽんっと手の上に置かれた袋に視線を落とし、レイはそのまま固まった。
「これは大変だねぇ。……でも、クラウス卿も社交界は不慣れなのでは?」
「確かに慣れているわけではありませんが、毎年国王主催の宮廷舞踏会 には参加していました」
「え? 本当です? 見た覚えがないですね。レーヴェンシュタイン公爵家の美男なんて、社交界の花たちがほっとかなかったでしょうに」
「顔を出すだけ出して、会場を後にしていました。すぐに王城騎士の任がありましたので」
「体よく逃げてたわけですか。羨ましい」
頭上を楽しそうな会話が飛び交っているが、レイはその会話に入り込もうと思うだけの心の余裕が皆無だった。もともとの帰還は数日後だったはず。最初に参加する予定の招待状はどこのものだったか。まさに、今の会話に出てきた宮廷舞踏会ではなかっただろうか? 準備期間が少し延びたと前向きに考え……いや無理だ。どう考えても難しい。
「というより、レイ君ダンスのエスコート経験は? 男性は確実に一度は女性と踊るし、“未来の鞘様”は女性型のステップも踊らなきゃいけないし」
突然話を振られて、レイはぎゅっと唇を固く結んだ。むしろ、レイは女性型のステップの方が得意だった。理由としては、タナート伯爵領にある魔法使い寄宿学校で育ったレイは、女子の人数が少なかったために、身長も相まって、練習のたびに女性型のステップを踊らなければならなかったのだ。もちろん卒業時のセレモニーでは男役をさせてもらえたが、練習できる回数も少なかったため、正直散々な出来であったのは言うまでもない。ラーディーンが公爵配教育係として呼んでくれたマナー講師も、「なんで?」と首を傾げていたのも苦い記憶だ。
「……レイが女性型で踊るのは、私とだけだ」
不機嫌を隠そうともしないクラウスの声に、マルキオン教授は苦笑していた。それはそうである。流石に同性婚に寛容なオルディアス王国でも、結婚もしていないただの同性恋人同士が社交界で踊るのはマナー違反とされている。だからこそ、マルキオン教授はサルベルト教授と社交界で踊ることができない。なるほど、マルキオン教授が社交界嫌いな理由が少し見えた気がする。
転移魔法陣の準備が整ったのか、転移港の従業員が声をかけてきた。待ちくたびれたと謂わんばかりのマルキオン教授が、伸びをするように椅子から立ち上がる。
「ま、目下転移したあとのことを考えましょうか。今回、レイ君は絶対吐けないしね」
その一言に、レイは椅子から重い腰を上げながらマルキオン教授を見上げた。もちろんレイとしても吐きたくて吐くわけではないが、絶対吐けないと言われると少々責任が重い。理由が知りたくなる。
合点がいってないのが分かったのか、マルキオン教授は再び呆れたようにレイを見た。
「……記者たちが張ってないのと思う? 『伝説の魔法薬士』様」
愕然とした。レイの脳裏で嫌な想像だけが膨らむ。週刊誌の見出しで踊る「伝説の魔法薬士、ゲロと共に帰還」「虚弱な未来の公爵配レイ・ヴェルノット」――社交界デビュー前にそれはどうしたってまずい。
「あ、の……今からでも行き先を北の大国にするっていうのは?」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
「皆が待っている」
願望と共に発した言葉は、呆気なく却下された。引きずられるように転移魔法陣の上へ移動するレイは、祈るように天を仰ぐ。遥か高く、転移港が伸びる空の先に、見えない竜の啼く声が聞こえたような気がした――。
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