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番外編2 アダルトたちの回顧録4

「あら、意外ね」  事の顛末を伝えた時、身構えていた自分が愚かに思えるほど、目の前の許嫁は平然としていた。むしろ、その態度がこちらとしては意外だった。絶句する自分から手元に視線を落とし、細く華奢な指がカップを持ち上げた彼女は、夏の暑さとは無縁のカフェと同じような涼やかな様子で、既に冷め始めている紅茶に唇を付けた。  バネッサ・クレイフォルマン。実業家として有名なクレイフォルマン伯爵家の長女であり、私の幼少からの許嫁であった。魔法医家系のサルベルト家とクレイフォルマン伯爵家は、私の祖父が当主をしていた時代に、当時のクレイフォルマン当主の命を救ったことでできた縁だった。両家とも家族ぐるみで親交があり、私とバネッサが生まれた時に、将来の話が出たのはごく自然な流れだっただろう。 「……怒らないのか?」 「その反応すらも意外だわ。逆に何故“私が怒っていない”と思えるの? そこまで貴方、人の心に寄り添えない人だったかしら」  彼女の視線は、室内に置かれている魔法機構が組まれた空調設備(クーラー)よりもひどく冷えていた。その視線から目を逸らしたい気持ちを我慢する。責められるべきことをした自分には、その罰を受ける義務があると思った。  音もなくソーサーの上にカップを置き、呆れたような視線を向けてくるバネッサは、そのまま黙って自分を見つめていた。もしかしたら、傍から見れば恋人たちの甘いひと時に見えるかもしれない光景も、実際はこんなものである。  許嫁からの指摘には、ぐうの音もでない。いや、当然怒るだろうと思っていたのに、怒っているように見えなかったのだ。見せない努力をしているということに、この場面で辿り着ける男がいるならば会ってみたい。  そんなときにすら、あの日出会った薄紫色の髪の男が頭を過る。アイツなら、もしかしたら思い至れただろうか。いや、違うな。アイツはへらへらと笑いながら、他人の地雷原を飄々と歩いていくような奴だ。怒られないぎりぎりのラインを見極めるのは得意でも、流石にこれは怒られただろう。 「そんなに私は貴方のパートナーとして『不足』していたかしら」 「そうじゃない。そうじゃないんだ、バネッサ」  彼女の視線が不意に下がり、零された自虐を私はすぐさま否定した。どう言い繕っても、彼女を傷つけてしまったことには変わりはない。言い逃れるつもりはない。――これは完璧に身から出た錆であり、サルベルト家とクレイフォルマン家の、内々の動きだったのだ。  話は少し遡る。  物心ついたときには、自然とバネッサは近くにいた。感覚としては従妹のような、妹のような……いや、そんな関係性にも当てはまらない、一緒に住んでいないだけの家族だった。妹、弟、バネッサ。それだけ近かったのだ。  彼女のことを将来の伴侶として意識できないまま月日は流れ、貴族学校を卒業してからは進路が分かれた。私は国立魔法大学の魔法医学部へ進み、彼女はフィラルゾン侯爵領の私立魔法医療学園へと進んだ。  バネッサが私と同じ魔法医の道に進もうとしたことに、私は少しうしろめたさを感じていた。彼女にとって私という存在がどれほど大きかったのかを突き付けられるようだった。無理に進むことはない、と彼女に伝えても、「私の意思だから」と彼女は微笑んでいた。バネッサは私と同じ国立魔法大学へ進むことを希望していたが、実業家であるクレイフォルマン家としては、開業医を多く輩出している学園へ進むように彼女を説得したようだ。将来、私が開業する道を選んだ時のための、布石だったのだろう。  将来の伴侶としての付き合い方が欠如したまま、互いの進路も分かれてしまえば、自然と会う頻度は落ちる。むしろ魔法医学の勉強に、そんな時間を取る暇などない。無理やりあけた隙間時間で義務的な逢瀬(デート)を年に数度持つだけの、希薄な関係に成り下がってしまった。  会うたびに、バネッサのことを“将来の伴侶としてみなければならない時間”が積み重なり、違和感と疲労だけが募る。時間をおいて繰り返し見る彼女の顔は、回を重ねるごとに笑顔が消えていっていた。決定的だったのは、調律を試みたときだった。  結論から言うと、問題なく調律はできた。それはお互い分かっていたことだろう。可もなく、不可もなく。ただ、そういう対象としてバネッサを見られない自分が、彼女を抱くという行為に対する罪悪感が、彼女にも伝わってしまっていたのだろう。――彼女は帰宅後に、家族に隠れてひっそりと泣いていたらしい。  それを知ったのは、クレイフォルマン家当主であるバネッサの父親が、私を訪ねてやってきた時だ。暗い顔をしながら「ちょっと話を聞かせて欲しい」と、父と一緒に応接室に入り、わざわざ防音結界を張って設けられた、事情聴取の機会だった。恥ずかしながら私はその時初めて、彼女が自分とは違い、きちんと胸の内に甘い恋心を育てていたという事実を知ったのだ。  貴族間での婚姻に、そういった恋愛感情が挟まる余地などない。一生自分が違和感を抱えながら生きればいいだけなのだと割り切っていた。実父とバネッサの父から問われたことで、私はそこでやっと自身が抱えている気持ちについて吐露する機会を得た。それにより、自分よりもはるかに人生経験も豊富な二人が頭を抱え始めてしまったのを見た時は、どうしようもない程に、男として不甲斐なく感じた。  ――バネッサには幸せになって欲しい。だが、彼女を幸せにできる自信がない。  その一言で、しばらく親同士が顔を見合わせた。 「……これが親の業というやつか」 「本人の気持ちを無視してしまった結果は、私たちが背負うべきなんだろうね」  小さくため息を吐いた二人に、ただ頭を下げ続けることしかできなかった。バネッサの父親が帰る間際、見送りに出た私に一言、 「親は子供の幸せを願うものだ。だからきちんと、君も幸せになるんだよ」  そう言って肩を叩いてくれたことが、何よりも嬉しかった。  しかし、ここからが問題だった。バネッサは、私からの好意が全く向いていないことに気付いてしまった。このままでは二人に待っているのは仮面夫婦という未来のみ。正直、そんな家などごまんとあるが、互いの親は非常に良好な夫婦関係を築けていることもあり、その延長にある子同士の結婚が冷めきっているというのは、耐えがたいことだったらしい。しかもバネッサの一方的な恋心が、本当の意味で実を結ばずに枯れるのを待つというのも、本人にとっては辛いものであるはずだ。  許嫁解消に向けて、今度はバネッサの意思確認が行われた。しかし、バネッサは了承しなかった。 「――私は魔法医になりたい。サルベルト家のご家族は皆いい人たちばかりだし、こんな良縁、他にはない。魔法医家系に入ることで患者が安心してもらえるなら、例え愛されていなくたって、私にとってはメリットしかない。それに、決してファーレンは私を蔑ろにする人間じゃないのは、お父様も分かっているはず。それに、私の生き方に寄り添ってくれる旦那様が、ファーレンのほかにいるかしら?」  そんな主張をされてしまえば、両家としては破談しづらい状況となる。決して私も、バネッサを憎く思っていたわけではないのだから。しかし、その話の場に同席していたバネッサの母は、彼女の主張に小さく首を横に振ったという。 「バネッサ。しつこい女は、嫌われますよ」  母親のその一言で押し黙ったバネッサを見た時に、市場の荒波を見定めながら家を発展させてきたバネッサの父親は、女心を理解することなど一生できないと悟ったという。  どうするか。ここで、男三人の悪だくみが始まった。バネッサから諦めるように仕向けるにはどうするべきなのか。その議題に対して、私が諦めるという案が出なかったのは、バネッサの母親の一言があったからだ。 「一方的な感情を持ったまま愛されないっていうのはね、日常を共にする上でひどく人を歪ませるものだから……あとあの子、頑固だから。貴方にそっくりね、ファーレン」  結局、男三人で出せるような案は、私がバネッサの好みから外れることぐらいしか思い浮かばなかった。なら、どんな手段を使うのか。二人の年齢を考えると、この夏の長期休暇中に破局しておけば、秋にある社交界シーズンに間に合う。事は一刻を争うというのに、そんなときに私はボランティア団体と共にフェルスロン砦へと向かっていた。  フェルスロン砦から心身ともに疲弊して戻ってきた私を更に疲れさせたのは、なんでそんなことになったのかと頭を抱えるばかりの愚策だった。父の同期であり、私が所属しているゼミの教授であるコルフスト教授に、どうやら父は愚痴をこぼしたらしい。それを揶揄うように笑いながら、コルフスト教授はこう言ったそうだ。 「なら、今度開催するサークル活動にファーレンを招待しようか? なに、実際に“夜の部”に参加しなくったっていいんだよ。『ヤったよ』って口裏合わせてくれそうな同年代の子もいるし、そちらとしては不義の大義名分だけ手に入れられればいいんだからさ」  時期的な焦りからなりふり構っていられなかった父が、その名案ならぬ迷案に乗っかってしまったせいで、私はあのサークルに参加することになってしまうわけだ。こういう時に、どうして男という生き物は馬鹿になってしまうのだろうか。  全てが誤算だった。まさか自分が、本当に誰かと一夜を共にすることになるとは思ってもいなかった。しかもそれが、私が下ということが大いに解せん!  待ちくたびれたと謂わんばかりに重たいため息を吐かれて、はっと我に返る。バネッサの冷ややかな視線を受けて、言葉を選んでいる間に意識が違う方へと向かってしまっていた。  カップに指をかけたのに、持ち上げるだけの気力もない。許しを乞うつもりもなく、ただ何事もなく彼女が諦めてくれるように願うとしたら、むしろこの不誠実な態度は正しいのだろうが、必要以上に彼女を傷つけるようなことをしたいとも思っていなかった。  ――いや、結局不貞を働いたのは事実なのだから、言い訳も何もないか。 「私が……言い出せなかったのが悪い。すべて、私が悪い」  カップから指を離し、バネッサを見る。こちらを見定めるようにしてまっすぐ見つめてくる瞳に、影が差さないか。それだけを心配していた。 「バネッサ。君が私を好いてくれていたのに甘えていた。だが、私はその心に応えることができない」 「いまどき、恋愛結婚している貴族なんてそんなにないわよ。むしろ私たちなら、今まで通りの家族みたいな関係でいられて、いいんじゃないかしら」  貴族らしい微笑みを浮かべるバネッサを見ると、心が痛む。彼女は過去に一度も、私にそんな顔を見せたことはなかった。必要がなかったのだ。彼女は心から私と触れ合ってきた人だったから。それが今は、本心を隠し、一般的な常識で包み隠してでないと話せなくなってしまっている。そんな顔をしていないと保てない家族という枠に、一体どんな価値があるというのか。  不意に、彼女の唇が震え始めた。艶やかな深紅の唇が、彼女の我慢の限界を示している。 「ファーレン……お願いよ。ちゃんと、私が悪いことにしないと……諦められないじゃない」  何度も繰り返される瞬き。上下する睫毛が、必死に感情を零さないように羽ばたいているように見えた。だが、どうしろというのだ。彼女の何が悪かったというのか。彼女を愛せなかったのも、不貞を働いたのも、全て私なのに。  ゆっくりと顔を横に振る。 「バネッサは悪くない。君の努力は必ず実を結び、多くの人を助けるだろう。君のような人が、魔法医を目指してくれて本当に良かったと思っている」 「……やめて」 「だが、その道すらも“私が進んでいる道だから”という理由ならば、どうか自由に生きて欲しい」 「やめてって言ってるでしょうファーレン!」  声を荒げ、はっと周りの視線を気にしてきょろりと見回すバネッサに、私は尚も続けた。 「バネッサ……私は……」  すっとカップの中に視線を落とす。普段は注文することもない苦みと酸味のある香りを放つ、薄紫色の紅茶がゆらりと揺れていた。 「――好きな人ができたんだ」

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