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番外編2 アダルトたちの回顧録5
『好きな人がいる』。その一言を、嘘でもいいから言えばどうか。そんな案が出なかったわけではない。だが、そんな薄っぺらい嘘を私がバネッサ相手に吐いたところで、すぐにバレるのが落ちだと、すぐさま却下されたのだ。
だが、実際はどうだ。蓋を開けてみればどうと言うこともない。胸がツンと酸味を帯びて苦しくなるような感情が、あの薄紫色を思い出すだけで湧いて出てくる。噓から出た実 という言葉があるが、予定された嘘が真実になってしまった。ただそれだけのことなのだから。
バネッサが、真偽を見極めようとこちらを見ている。そのたった数秒間で、彼女の眉が自然と寄り、瞼を追いかけるように下がった。今にも涙が潤んだ目から雫となって落ちてしまいだった。
「……本当、なのね。一夜の過ち、とかでもなく」
最後に付け加えられた一言は、きっとバネッサの願望のようなものだったのだろう。冷静に思い返してみれば、むしろ一夜の過ち以外の何物でもなかった行為だ。だが、それを一夜の過ちで終わらせてしまいたくない自分がいるのは、紛れもない事実だ。
ゆっくりと頷く。それをしっかりと見届けてから、バネッサは目を閉じた。目尻からすばやく零れ落ちる涙は、彼女の頬に通った道筋を残して、テーブルクロスの上に染みを残した。ハンカチを取り出そうとした気配が分かったのだろう。彼女は片手でこちらの動きを制止し、自身のハンドバッグから綺麗なレースのハンカチを取り出した。一昨年の春に、私が入学祝いで贈ったイニシャル入りのハンカチだった。
ハンカチを目に当てて、ただ彼女は微動だにもせず静かに呼吸を繰り返していた。その姿を、私はただ黙って見ていることしかできなかった。
少し離れたテーブル席の女性客が席を立つ。こちらをわざわざじろりと睨みつけるように見てから、そそくさと店を出て行った。この店を選んだのも、破局を周知するためのものだった。彼女にとっては、捨てられた女というレッテルはしばらく付きまとうだろうが、私が悪い男であるという醜聞を一手に引き受けるためでもあった。どうやら効果はてきめんのようだ。今去って行ったのは、噂好きで有名な男爵夫人。男爵夫人と仲のいい侯爵夫人はクレイフォルマン伯爵家のお得意様でもある。おそらく秋の社交界では、バネッサの事を悪く言う者はいないだろう。
「ふ……ふふ……」
ハンカチを目に当てたまま、目の前のバネッサが突然笑い始めた。今までそんな笑い方などした姿など、見たこともない。まだ顔を上げようとしないバネッサを凝視していると、彼女は大きく息を吐いてからやっと顔を上げた。
穏やかなで、力の抜けた笑顔。小さい頃の、彼女の表情にそっくりだった。
「あーなんだか、馬鹿らしくなってきたわ」
吐き出すようにそう放ってから、バネッサはハンカチをテーブルの上に置き、そのまま小さなフォークを持ち上げる。今まで手を付けられていなかった目の前のシフォンケーキにフォークを入れて、口に運ぶ。艶やかな赤い唇が小さく動き、そのまま咀嚼して嚥下する。
「ファーレン。悪いけど私、決めていたことがあるの」
バネッサの声には、力が宿っていた。切り出された言葉に一体なんだと思いながら続きを待ったが、バネッサは再びシフォンケーキを口に運び始めた。まるでこちらが当てるのを待っているかのように置かれた間にしびれを切らし、続きを促そうとした時に、彼女はにっこりと微笑んで話し始めた。
「私、魔法医免許を取得したら、フェルスロン砦の救急魔法医に志願する」
「……は?」
耳を疑うような一言に、思わず口から間抜けな声が出た。その反応が面白かったのか、バネッサの笑みが深くなった。何も面白くない。思わずテーブルの上で握っていた拳に力が入った。
「フェルスロン砦は西の大国との戦争の最前線であり、魔物との戦闘も絶えない場所だ。女が行くような場所じゃない!」
「そういう頭が固くて差別的なところ、早く直した方が良いわよファーレン。嫌われるわよ」
ばっさりと切り捨てられるように言われ、思わず閉口する。つい最近似たようなことをマルキオンにやらかした身としては、正直ぐうの音も出ない。
ただ、女性が行くべきところではないというのは、変えられない主張だった。ただ危険だという理由だけではない。いつも緊張状態に晒されている人間は、時に理性的でいられなくなる。抑圧され、はけ口を探す。それが自分よりも弱そうに見える相手ならばなおさらだ。それが一方的な罵倒で済めばいいものである。
「ちょっと言葉が足りないけど、優しいファーレン。真面目で、頑固で、ストイックで、涼しそうに見えてすごく中身が熱い馬鹿」
最後に余計な一言を添えてから、バネッサはシフォンケーキを半分以上も残したまま立ち上がった。
「戦争が終わったら、そのまま私は魔法救命医として転々とするか、実績を引っ提げて騎士団専属魔法医にでもなるわ。だから、たぶん私は生涯、結婚はしない」
「バネッサ!?」
驚愕の声に、バネッサは悪そうな笑みを浮かべてバックを持ち上げた。
「自分以外の人と婚約させようとか考えているんだったら、思い通りにならなくて残念だったわね。せいぜい、私に魔法医なんていう道を教えちゃったことを後悔なさい。そして、さっさと振られておしまいなさい。泣きついてきたって、私はもう結婚なんてしてやんないんだから」
颯爽と歩き出すバネッサを追いかけようと慌てて立ち上がった時、彼女は肩越しにこちらを見ながら言い放った。
「さよなら。ファーレン」
その一言で、ただ立ち尽くした。周囲からの視線が突き刺さる。バネッサが鳴らす軽やかなヒールの音が遠くなっていくのを聞きながら、私はただ、テーブルの上に置き去りにされたレースのハンカチを見つめていた。
振られに行って、見事にばっさりと振られてからというもの、バネッサの一言がまるで予言であったかのように、あの薄紫色の髪をした男と会うことができなくなった。少し前までは、学部共同の図書室で多量の資料を難しい顔をしながら睨みつけていた姿を見ることができていたというのに。
あの時に声をかけておけばよかった。連絡先を交換しておけばよかった。そうすれば約束を取り付けることぐらいできただろうに。遠目に見るだけで実行に移さなかった自分に腹が立つ。いや、仕方がないだろう。いざ話しかけようかと思った時に、自分を組み敷いてきたあのひょろい男が、得意げな顔で「また抱かれに来たの?」とでも言い出しそうな想像が頭を過ってしまった。想像に難くないのがまた腹の立つことこの上ない。
ただ、自分の気持ちを伝えるのなら、けじめをつけてからでも遅くないだろう。そう思って先延ばしにした結果がこれだ。かといって、伝えたところで色よい返事が返ってくるかも分からない。あの男も伯爵家なのだから、婚約者の一人ぐらいいることだろう。
不意に通信魔法機器がメッセージの受信を知らせてきた。急いで内容を確認すると、送り主はコルフスト教授だった。「今から来ていいよ」という軽いメッセージに、私はかけていた椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
図書室で必要な書籍を借りる。コルフスト教授の学会参加について行くために、返却までに時間がかかることを相談し、通常返却期限が近付かないとできない延長手続きを同時にさせてもらった。その足で急ぎコルフスト教授の教授室へと向かう。今日は参加する学会の追加資料が届いたとのことで、コルフスト教授が在室している間にそれを受け取りに行かねばならない日だった。教授も忙しい身であるのは重々承知しているが、いつまで教授室にいるとは書かれていなかった。
言っては何だがコルフスト教授は人の都合に合わせることが大の苦手だ。もし万一、今まさに教授宛てに連絡が入り、「呼ばれたから行って来る」といなくなってしまうような人だ。しかもそれを私には伝えずに。連絡手段は置手紙。最新の手術道具の扱いはすぐさま覚える癖に通信魔法機器の扱いは苦手だからと咄嗟の時には使おうともしない。非常に面倒だ。
コルフスト・ゼミに所属するゼミ生は、皆肩で風を切るように歩くともっぱらの噂だ。その元凶が教授にあると言うことも、早々に浸透してほしいものだ。
頼むからいてくれと祈りながら教授室をノックする。「はい」というコルフスト教授の返事を聞いて安堵しながら部屋に入った。相変わらず教授室は片付いていなかった。来客用のソファには白衣と鞄が投げ出され、ローテーブルには三日前の日付のゴシップ誌が置かれ、その上には食べかけのまま放置されて乾いて硬くなったパンがあった。これはいつから置いてあるんだろうか。考えるだけで首元に嫌な汗が滲む。
「お、来たね。無事に振られたかい? 色男」
「……おかげさまで」
苛立ちを抑えながらもそう言うと、コルフスト教授はカッカッと笑い声をあげながら机の上にある分厚い包みを開き始めた。中から出てきたのはこれまた分厚い冊子だった。前回配られた資料のあと、発表のレジュメが先に届いたということだろう。読んで先に頭に入れておき、質疑応答を先に準備するのが通例だ。
「今回の学会開催地は、北だからね。風邪ひかないようにちゃんと調節できる恰好で行かないとね」
「……夏ですが? それに霊峰ヘイムディンズの麓という訳でもあるまいし」
「人間、寒暖差にやられるんだよ。知ってる? あっち、夏でも部屋を冷やすための空調設備 ないんだよ?」
レジュメの束を浮遊魔法で浮き上がらせて、一冊こちらに寄こしながらコルフスト教授は機嫌よく答えた。……どうやら、二週間前の調律が非常にうまくいったらしい。その前までの激務による尖った空気はまるで感じられない。
かくいう私も、正直戸惑うほどに調子が良く、先日課題で出された難易度が高い医療魔法もすんなりと行使出来た。毎回フェルスロン砦から帰ってきた後は非常に不調で仕方がなかったが、あの腹の立つ笑顔を浮かべるウィルザック・マルキオンと行った調律が、今日に至るまで好調を維持している。些か疑問を持つほどに。
「そうそう、君の因縁の相手からの預かり物もあるよ」
言われてレジュメの表紙から視線を上げると、コルフスト教授は笑顔でこちらを見ていた。“にんまり”という表現がこれほどまでに当てはまる笑顔を、私は過去に見た覚えがない。
「因縁? 誰です?」
頭の中をサルベルト家と敵対している貴族の顔がざっと流れていく。もしくは勝手に私を目の敵にしていると噂の学生か? いや、しかし彼は中間考査で負けてからすっかりおとなしくなっていたと認識していたが……。
しかし、こちらが本当に見当が付いていないことを察知すると、コルフスト教授は「なんだつまらない」とでも言いたげな目をしながら、散らかったデスクに肘をついた。
「サークルの自己紹介の時に、君が一発かまされそうになった相手だよ」
言われて、はっとする。そうだ。コルフスト教授は私たちが本当の意味で夜の部を共に過ごしたことを知らない。もともと口裏合わせを依頼する予定だったし、そのまま次の日はさっさと解散の流れになってしまった。私も私で調律時に手玉に取られたことが不服でマルキオンに近付かないようにしていたために、傍から見れば形だけの謝罪をしたものの、仲違いしたままだと思われているのか。
……仲が深まったと思っているのは、もしかしたら私だけかもしれないが。
コルフスト教授は引き出しの中から留め具 で留められた紙の束を一冊分取り出すと、レジュメと同じように浮遊魔法で私の手元まで飛ばしてきた。魔法で転写したのだろうレポートの表紙には、わざわざ「ファーレン・サルベルト氏用」と手書きで書かれていた。
「ウィル君、いい子でしょ」
レポート用紙を捲ろうとした瞬間に声をかけられ、自分は今何を問われたのかが一瞬理解できなかった。このレポートを一人で作り上げたことによる人材としての評価なのか、それとも人柄を指したのか。あるいは別の何かだったのか。
コルフスト教授は困った奴だと謂わんばかりにこちらを見つめて来る。
「あんまり邪険にしないであげて。彼、サークルでも結構気に入られてるんだから。……両刀っていうのもあるけど」
「教授」
窘めるように口にした声は、普段よりも幾分か低かった。その自覚はあった。コルフスト教授がそれをどう受け取ったかは分からないが、「何も言ってないよ」と誤魔化しながら肩をすくめた。
そんな折、部屋の外からぱたぱたと誰かが走ってくる音が聞こえ、私はそのまま振り返った。床に置かれている荷物を蹴飛ばさないように数歩ドアから距離を取ると、足音の主はそのままこの部屋のドアを素早くノックした。
「教授、失礼します。校長が至急来て欲しいとのことで」
「はいはい、今行くよ」
廊下からかけられた声に、疲れたように返事をしてコルフスト教授は立ち上がった。その様子を見て、私もすぐさま部屋を後にした。教授は不在時にきちんと施錠する人だ。学校の規則上、施錠することにはなっているが、鍵を持つのが嫌で魔法で封印してしまうずぼらな人もいる。そんなことをする人に限って「机の上に手帳を忘れた」と事務局に届けるよう指示をするが、ドアが開かなくて途方に暮れている事務員を見ると、少し哀れに思う。
「じゃ、また学会で」
「お疲れ様でした」
挨拶を交わして呼びに来た事務員とコルフスト教授の後ろ姿を見送って、私はそのまま手の中にある彼のレポートに視線を落とした。
数項めくってみるだけでも、こと細かく魔法薬の処方について書かれているのが分かる。処方する魔法医に知っておいて欲しい事項がピックアップして書かれており、その裏付け資料も添えてある。ぱらぱらとめくっていくと、ちょうどレポートの半分を過ぎたところで、一枚のメモが挟んであるのが見え、慌てて数項戻った。
――どうぞお幸せに。名前を呼んでもらえなかった者より。
名前が書かれていなくとも、このメモを入れた者はすぐにわかった。彼はこのメモを、どんな表情で綴ったのだろうか。どうせ、にやにやとほくそ笑みながら書いたに違いない。こちらの事情を知らないとはいえ、書かれている内容は皮肉が効き過ぎていた。
「はは……滑稽すぎる」
思わず口をついて出た自嘲に、頭の固い自分が同意してくる。
許嫁に捨てられるように仕向け、自分はまさに好きになった相手から振られたわけだ。気持ちを伝えるまでもなく。
気持ちを伝えるだと? お前は一体何をしたいんだ? ファーレン・サルベルト。そう問いかけてくる自分に、心の中で全くもってその通りだと同意した。――自分は、サルベルト家の長男だ。家の後継者は同性婚が認められていない。気持ちを伝えて、万一、あのウィルザック・マルキオンが気まぐれを起こして自分を受け入れてくれたとして、共に生きていくことなどできないのだ。
私たちは、男同士なのだから。
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