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番外編2 アダルトたちの回顧録7
声に驚いて、トトゥオンの唇が離れた。僕の手を掴んでいた力も緩くなった隙に、全身の力を使って押し返した。体勢が崩れてよろめくトトゥオンを尻目に、僕は思いっきり床に唾を吐き捨てて口元を拭った。その行動に、トトゥオンの機嫌はあからさまに悪くなったが、それでもズンズンと近付いてくる長身の男の気配に、たじろいでいた。
それもそうだろう。声をかけてきたその男は、魔術師の癖にきちんと剣の稽古を欠かさない貴族の中の貴族、短く切られた黒髪は少しの乱れも見せずに整えられ、長身を活かすようにきちんと背筋を伸ばし、誰もが恐れる上官 の異名を持つに相応しい威圧感を携えていた。
「……これはどういうことですか。トトゥオン先生」
魔法照明に照らされた夜の化身のような男がトトゥオンを見下ろす視線は鋭く、怒りに満ちていた。しかし、トトゥオンは声の主が誰か分かると、なんだと謂わんばかりに調子を戻し、別段乱れていない燕尾服の襟元を整え始める。
「まったく、恋人との逢瀬を邪魔するのは、些か野暮というものではないか? サルベルト君」
誰が恋人だこの陰湿付きまとい 野郎が。心の中で毒つくが、相手は子爵。爵位を持たない者としてはそんな暴言を吐ける立場ではない。しかしそれはサルベルトも同じはずだ。むしろサルベルトの方が分が悪い。トトゥオンは魔法医だ。縦社会が強い魔法医界で上の立場の者に反抗的であるのは、いい結果をもたらさない。
サルベルトの目が、襟元を整えるトトゥオンの袖をじっと見ていた。そうやってさりげなく薄紫色の刺繍を見せているのが分かり、怒りがふつふつと沸いてくる。
「……恋人……ですか」
呟くようにそう言って、サルベルトの視線がこちらに移った。全身を上から下まで隈なく見られ、こちらの装いにトトゥオンの特徴色が入っていないかを確認される。もちろんそんなものは一切入っていない。僕の燕尾服は基本の黒色だ。
「と、言う割には……装いは揃えられてないようですが?」
サルベルトの一言に、トトゥオンの表情は一気に険しくなった。
「……男同士ではなかなか視線も厳しいからね。私は気にしないが、健気にも彼は私のために一歩引いてくれたようだ」
引いている。引いているとも。お前の発言には。そう思いながらも、普段ならいざ知らず、社交の場では話している相手同士以外が割って入ることは許されない。サルベルトは明確にトトゥオンの名を呼んで会話を始めた。その会話にいる上位貴族の許可がなければ、例え伯爵家であっても、爵位を持たない僕は話に入ることができない状況だ。僕の言を封じる手段をよく心得ているトトゥオンの方が、残念ながら一枚上手である。
「……恐れながら申し上げますが、それは違いますよ。トトゥオン先生」
何をとち狂ったか、サルベルトが真顔で貴族であるトトゥオンの言葉を否定した。言葉は丁寧だが、今のコイツの真顔ほど威厳と圧力に満ちたものを見たことが無い。呆気に取られているトトゥオンに目もくれず、サルベルトは自身の胸ポケットからポケットチーフを取り出すと、先ほどと同じように威圧的に大きく足を踏み出して僕の方へと歩み寄ってきた。
サルベルトは、そのまま目を丸くしている僕へポケットチーフを差し出してくる。その袖口についていた大きなカフスが魔法照明に照らされてきらりと光っていた。僕がなかなかポケットチーフを受け取らないせいで、ポケットチーフを差し出したまま動かない腕に、回廊の外から差し込む白い光が当たって、彼のカフスが煌々と光を返していた。大振りのカフスの石は冷たい床に青みがかった淡いピンク色の光をちりばめていて、それがとても美しかった。
訳が分からず固まっている僕を呆れたように目を細めて見て来たサルベルトは、そのままポケットチーフで乱暴に僕の唇を擦り上げた。生地に良いシルクが使われているのか肌触りは悪くないが、指の力が強くて少し痛い。
「な、なにを言っているんだ。現に彼は何の色も入れていないじゃないか!」
トトゥオンが動揺しながら僕の全身を検分するように上から下へと視線を走らせる。トトゥオンの視線は不快でならないが、そんなことよりも、サルベルトの視線が僕に注がれているという事実に頬がカッと熱くなった。
「いいえ、彼は入れてますよ」
ポケットチーフをまるでゴミをつぶすかのような勢いで握りしめ、そのままサルベルトは僕の肩を優しく抱いた。
「――“黒”を」
時が止まった。目の前のサルベルトは、本気で気が触れたのではないかと思った。基本の黒色を、さも僕がお相手の特徴色のつもりで身に着けていると言い張るその姿が、あまりにも面白くて、嬉しくて、本当に面白くて!
あまりの言い草に肩が震え始めてしまい、気付いたサルベルトが黙れと謂わんばかりに僕の肩に添えた指を喰い込ませてきた。痛い。痛いのに込み上げる笑いがどうにも止まらない。
「何、を……?」
意味が理解できないのか、トトゥオンが頬をひくつかせながら問い返す。この頭でっかちが効かせた機転を理解しないなんて、本当にこの人と僕は合わないなァ。
だが、それ以上のうまい言葉が思い浮かばないのか、サルベルトは口を噤んでしまった。いや、こういうの苦手そうだもんね。むしろそれなのにこんなに頭の可笑しいことを思いついてしまうサルベルトのクレイジーさに、僕は感動でうち震えていた。
――でも、それ以上に僕は……嬉しかったよ、サルベルト。
僕は口を出すことはできない。だから、行動で示すほかに道はなかった。僕の肩をがっちり掴んでいた手を取り、ダンスを踊るように僕はくるりと回ってサルベルトの腕から逃れると、そのまま彼の腕を掲げるように持ち上げた。一瞬きらりと光ったサルベルトのカフスが、僕の燕尾服に綺麗な色を照らし出す。
サルベルトがはっとして、顔を背けた。バレてないとでも思ってたのかな? おあいにく様。
僕の突然の行動に、トトゥオンは掲げられたサルベルトの腕を見た。袖口にある大振りのカフス。そこにはめられた石の色は、まるで僕の髪の色とそっくりの、薄紫色だった。
「う……ウソだ。サルベルト君、が? ……いや、君が勝手につけただけだろう!」
トトゥオンが、自分がしたことを棚に上げてそんなことを言い始めた。実際そうではあるのだが、そうやって食い下がるのは見苦しいにも程がある。呆れて物も言えないが、そもそも僕はこの場で話すことはできない。仕方なく、僕は見せつけるようにそのままサルベルトのカフスに軽く触れるようなキスを落とした。
窺うようにサルベルトの目がこちらを向く。夜空を写し取ったような目が潤み、恥ずかしそうに僕を見ている。さっきまであんなに堂々としてたのに、なんてかわいい顔を見せるのさ。
僕の行動に愕然とした表情を浮かべるトトゥオンに、サルベルトが咳払いをしてから向き直った。おや、取り繕うのはお上手なようで。
「トトゥオン先生。貴方の先ほどの行動については、私からテゥンクト教授に報告いたします」
「ま、待って! ……頼むから、見逃してくれ……」
毅然とした態度のサルベルトに対し、頼むと言いつつも頭を下げようとしないトトゥオンに、サルベルトの目がすっと細くなった。威圧感が増す表情に、僕は唇を丸めて、込み上げる爆笑を我慢するので精いっぱいだった。
「見逃してほしいなら、条件は三つあります。一つ、私の恋人に粉をかけるようなことはもうしない。一つ、彼の恋人が私であることを他に言及しない」
サルベルトがすらすらとトトゥオンに条件を列挙していく。まぁ確かに、実際は恋人でもなんでもないのに、噂なんてたったら困るのはお互い様か。条件を聞きながら、僕も冷静に頷いていた。
条件はあと一つというところで、サルベルトは絡めていた僕の手を解き、そのままそっと背に添えて前に押し出した。
「一つ、彼に誠意をもって、謝罪を」
まさかの条件に、僕はぱっと振り返ってサルベルトの顔を見た。彼の目はトトゥオンに向けられていたが、僕が振り返ったことで、サルベルトの視線がこちらを向く。
回廊の外にある照明に背を向けている関係で、逆光になったサルベルトの表情は読み取りづらい。それでも彼の目には、こちらの胸を温めるような体温が宿っていた。
「…………えっと……ウィル君」
長い沈黙の後、寒気がするような声で愛称を呼ばれ、僕は脱力して半分ほど目を閉じた。そのまま視線をすっと声の主であるトトゥオンに向けると、僕よりも隣にいるサルベルトの方を見てびくりと体を震わせたトトゥオンが、慌てて腰を折り頭を下げた。
「うぃ、ウィルザック・マルキオン伯爵令息に無体を働いたことを、心よりお詫び申し上げます……」
そう言い終わった後もぷるぷると震えているトトゥオンを見下ろした。僕はやっと話せる権利を得たが、なんだかどっと疲れてしまって、上手く言い返すことが何も思い浮かばなかった。
「あー……正直今までされたことを考えると簡単には許したくはありません」
頭を下げたまま体を大きく震わせたトトゥオンが、縋るような目でこちらを見上げて来る。いい年した男にそんな顔されても、なんだか情けなく感じてしまう。
「もう金輪際、僕に関わらないで欲しいですし、見せびらかすようにして、その色を使って欲しくはないです。その色は……彼が身に着ける色なので」
そう言ってちらりとサルベルトの方を見ると、星屑をまぶしたような彼の目は、複雑そうにこちらを見ていた。おや? なんでそんな目になる?
そう疑問に思いつつも、僕はそのままトトゥオンに向き直った。
「……もう、お帰りください」
そう静かに告げると、トトゥオンは小さく頷き、そのまま回廊を戻って行った。一度こちらを振り向いたが、しばらく僕らを見つめてから、寂しそうに肩を下げてとぼとぼと歩いて行ってしまう。
トトゥオンの姿が見えなくなるまで見送った後、僕はサルベルトを見た。彼もじっとこちらを探るように見ている。どちらが先に口を開くのかを見極めようと間合いを測るような時間が続いた。
いや、でも助けてもらったのは僕だ。先に口を開くなら僕か。意を決して肺に空気を入れた。
「助けてくれて――」
「すまなかった」
そして、同時に口を開く。何だろう。タイミングがいいのか悪いのか。顔を見合わせて、ふっと小さく笑い合った。
「……何が?」
サルベルトが口にした謝罪の意味が分からなくて、僕は首を傾げながら彼に問いかけた。すると、サルベルトは気まずそうに視線を下げる。
「…………勝手に……その、カフスを……」
「僕の 色を身につけたこと?」
言いづらそうにしているサルベルトの言葉を解釈して口に出すと、彼はこくりと頷いた。むしろ今回はそのおかげで助かったと言えるのだが。ここで勝手につけるななんて話をするほど、野暮じゃないつもりなんだけどなぁ。
僕はサルベルトの手を取り、そっと袖口についている薄紫色のカフスをなぞった。
「……ずいぶん、小さな主張だね」
くすりと笑うと、サルベルトはそのまま押し黙ってしまった。交際していると見せつけるカップルのほとんどが、トトゥオンのように分かりやすく相手の特徴色を取り入れる。それに比べると、なんとも慎ましく、いじらしいじゃないか。
「そういう意味で、受け取っていいんだよね?」
そう聞いても尚、サルベルトは答えない。ここまでお膳立てしてるのに、がんとして開かないこの男の口を、なんとしても抉じ開けてやりたくなる。僕はカフスを触っていた手を、そのままつつつっと撫で上げて、彼の肘の辺りに優しく手を添えた。
サルベルトの眉がピクリと動いた。そのまま、彼の喉が小さく上下する。その様子を見ると、どんどん意地悪したい気持ちが湧いてきてしまう。サルベルトの手を取って、そのまま自分の頬にあてがうと同時に、もう一方の手はサルベルトの肩に置いた。
眉間に深く皺を刻んだサルベルトが、我慢できないとでも言うかのように、僕の腰に手を回して引き寄せてきた。
「……私は、君と添い遂げることができない。だから――」
「だから諦めようとして女の子を侍らしてたけど、諦めきれずに追いかけて来たんでしょ? 分かってるよ」
――皆まで言わなくても。
僕は目を閉じて、そっと彼の体温に包まれていた。それだけでもう、心がじんわりと温かい。
この二か月間、サルベルトのことを考えなかった日はなかった。どうしているのか。元気でいるのか。彼が婚約者と仲良くしている姿を思い出しては悶えている自分が気持ち悪かった。たった一回肌を重ねた夜を特別視して恋に落ちるとか、そんな陳腐な恋愛小説のヒロインのような自分が耐えられなかった。
遠くの舞踏会場の喧騒が小さく響く回廊で、僕らはしばらくそのまま抱き合っていた。
「……ねぇ、ちょっと提案なんだけど」
ふと思いついて僕が彼の胸元から顔を上げると、サルベルトも僕を抱きしめる腕を少し緩めてくれた。
「このまま二人でしけこまない?」
ごふっと噴き出すサルベルトの頬が、みるみるうちに朱く染まっていく。それを見ると、あ、やっぱりちょっとこの提案の仕方はまずかったかと、内心反省した。
「き、君という奴は……俗物の塊か!?」
「いいでしょ別に! お互い両想い! ダメ!?」
「だめ、では……いや、ダメだ。君の婚約者殿が――」
「僕の婚約者は従妹なんだけど、“彼女が”いるの! 僕はその隠れ蓑のために無理やり頼み込まれてなった婚約者! 従妹もその彼女も長女じゃないから結婚できる! お分かり? 破棄予定の婚約だよ!」
互いに捲し立てるように言い合って、下世話な話が回廊に響き渡る。それでも尚、反論しようとしてきたサルベルトの唇を強引に奪って黙らせると、僕はそのままサルベルトの手を引いて、パーティ会場を後にした――。
「――授、教授! 着きましたよ!」
いつの間にか体で感じていた馬車の振動は無くなっていて、教え子の芯のある声に意識が浮上する。……あぁ、いいところだったのに。
大きく伸びをしてから体に巻きつけたひざ掛けを引っぺがすと、僕は眠い目を擦りながら前の席にいるレイたちに声をかけた。
「ん……おはよう」
欠伸を噛み締めながら簡単にひざ掛けを畳んで席に置いている間に、外で御者が降りるための昇降階段を設置し終えた音が聞こえた。僕が立ち上がると同時に、気配を感じ取った御者が馬車のドアを開けてくれたので、重い体を引きずるように外へと向かう。
「……あの、教授!」
昇降階段を一段降りたところで、レイが後ろから声をかけてきた。帽子のつばを押さえながら「ん?」と振り返ると、少し迷ったように視線を彷徨わせたレイが、意を決したように口を開いた。
「俺、魔法薬士と魔法医の長きに渡る蟠 りを解くのは、教授たちの役目だと思ってます。……学会、お疲れさまでした」
そう言い放ってニコリと笑うと、レイはそのまま馬車の中へと引っ込んでしまった。言われたことを反芻しながら、残りの階段を降りる。昇降階段がさっと片付けられ、馬車が出発するのを見送る間も、ずっとレイの言葉が眠かった頭の中でぐるぐると回っていた。
正面玄関を抜けて足を踏み入れた校内は、長期休みが終わりかけているためか帰省から帰ってきた平民学生でにぎわっていた。それを横切るように教授棟に向かう。逸る気持ちに応えるように足が前に出た。サルベルトが今日ここにいるかなんて聞いていないし、予定よりも早く帰国することになった上、そういえば連絡も取っていなかった。サルベルトが僕の事など待っているわけもない。
今年の夏にあった爆破テロのせいで、元よりも綺麗に修繕された僕の教授室の目の前に、彼の教授室はある。律儀なサルベルトは、在室していたらきちんと在室の札を掲げているが、今は赤い不在の札がかかっている。
――ま、そうだよね。こういう時に、連絡しておけばよかったなぁなんて思ったりするのに、つい連絡することを忘れてしまうのが僕だ。目の前に面白そうなことがあったり、予定が詰まってたりすると、こういうところを疎かにしてしまう。パートナーにしてみれば、たまったものではないだろう。いや、冷静に考えると、貴族は社交界シーズンだ。もともと忙しい彼が、ここに残っているはずもなかったのだ。
諦めて自分の教授室の鍵を開けて入る。廊下と同じぐらい冷えた部屋の空気が、心の中をすっと通って行った。荷物を放り投げるように乱暴に置くと、椅子に座って磨かれた自分のデスクの上に顔を突っ伏する。
疲れた。学会も大変だったけど、それ以外にあったことが強烈過ぎて、学会で得た知識をまとめるだけの気力も湧かない。そんなことよりも、とにかく魔力の不調が問題だ。きっと馬車であんな夢を見たのも、あの社交界シーズンの時と同じぐらい、魔力の調子が良くないせいだろう。
サルベルトに会いたい。会いたいなら、帰る先は家であり、行くべき先は彼が参加している会場だろう。同じ医療業界で、伯爵家同士。おそらく同じ家から招待状ぐらい来ているだろうから。
ため息と共に重い体を鼓舞して自分の鞄を浮遊魔法で引き寄せた。立ち止まっている暇なんてない。早く帰ってきたなら、やるべきことを終わらせてしまわないと。学会の資料の整理と、旅費の精算と、あと――。
気持ちを切り替えて鞄を開いた時だった。部屋の外から、小さくドアが閉まる音が聞こえた。思わず鞄を持っていた手が止まる。自然と視線が持ち上がり、見えない廊下を注視してしまう程に、勝手に膨らむ期待を抑えようと必死だった。
小さな、しかしながらしっかりとしたノックが聞こえ、椅子を蹴飛ばすように立ち上がる。
「……どなたですか?」
普段ならこんな聞き方はしない。でも、本当なら居留守を使ってしまいたかったという気持ちが、そんな問い方になってしまった。正直疲れているし、早めに帰国したんだから、自分のために時間を使いたかった。だって、廊下にいるのが彼な訳が――。
「…………私だ」
低く、ためらいながら絞り出すように返ってきた言葉に、僕は即座に開錠魔法を行使した。かちゃりと開く鍵の音を合図に、ドアがゆっくりと開く。
ドアの影から現れたのは、きっちりと整えられた黒髪の、長身の男だった。普段はそんな姿を見せることもしないのに、記憶の中の彼よりも、目の前のサルベルトはひどくくたびれて見えた。
机を乗り越える勢いで僕がドアの方へと駆け寄ると、サルベルトは素早く部屋に入り、ドアを閉めた。
互いが求めあうように、それ以上の会話もないまま、飛び込み合うように固く抱擁し、唇を重ね合わせた。閉じた瞼から、じんわりと涙が滲む。込み上げるような喜びが鼻腔を刺激して、唇を奪い合っているために呼吸がしづらくなってきた。
「なんで――」
「待ってた」
奪うのは唇だけではなく、続くはずの言葉もだった。間髪入れず、短い返答。そして再び互いの呼吸を奪い合う。全身が震える。もうどうにも止まらない衝動に従った行動は、理性などという脆い枷などまるでないと嘲笑い、二人の頭を馬鹿にしていった。
サルベルトが僕のコートを脱がし、僕はサルベルトの白衣を脱がした。互いの身ぐるみを一枚ずつ剥がし合いながら、そのままソファになだれ込む。
「ウィル」
甘い安堵を纏って脳に直接響く僕の名は、依存性の高い麻薬のように思えた。
「おかえり」
耳の裏から首筋に沿って、彼の冷たい指が降りていく。待ちわびた感触に体が鋭敏に反応を示すが、頭では違うことを考えていた。くすくすと思い出すように笑うと、サルベルトの顔は容易に不満を訴え始める。その反応も面白かったけど、あんまり揶揄うとへそを曲げるから、すぐさま僕は素直に答えた。
「名前を呼ぶなんて……そんなに僕を抱きたいわけ?」
思い出した過去を話の種にそう言うと、サルベルトはしばらく思考を巡らせて、ふっと柔らかく笑って見せた。細めた目の隙間から覗く瞳が、夜空に浮かぶ星を際立たせるようにきらりと光ったように見えた。
「また懐かしい話を――」
そう言いながらも、彼は「では、遠慮なく」と謂わんばかりに防音結界を張った。
時間の関係で、満足いくまで音を合わせることなどできるわけではなかったが、それでも互いが妥協できるところまでは肌を重ねることができた。ピロートークなんて悠長なことはできないが、互いの家に行くまでの間に、僕はザルハディア王国で起こったことを、守秘義務に違反しない程度にかいつまんでサルベルトに話した。なかなか経験することもないような僕のザルハディア王国冒険譚を、サルベルトは時には心配そうにこちらを見やり、時に研究者らしい顔つきで聞いていた。
話は尽きなかった。それでも短い逢瀬の時間は過ぎていく。僕らは互いに、自分たちが目指したい場所を目指して歩く、恋人であり、仲間であったから。
ぐっと我慢をしながら離れて、「ではまたあとで」と言って僕たちはそれぞれの帰路についた。
会えない時間が愛を育むなんてものはくそくらえだと思っているが、僕たちはそれぞれやれることはやれるだけやりきりたいという性格だったから、結果的に愛の鮮度が保たれているのだと思う。……いや、一般的な愛情からはちょっとずれてしまっている気もするけれど。でも若くない僕らのような仕事人間は、休むことも仕事のように組み込んでいるから、その時間を互いに重ねるようにスケジューリングするようになった。だから、きちんと二人の時間も取ることができる。……ここ最近は、ちょっと僕が忙しすぎて厳しかったけれど。
でも、今日に関しては大丈夫。さっきちょっと充たしてもらえたのもあるけれど、僕は今夜、彼の色に身を包み、そしてサルベルトは、薄紫色のカフスを付けて、再び会えるのだから。
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