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番外編3 義兄の話(上)
時間が足りない。
新しい事業を起こすことがどれほど大変なことなのか、加えて管理者がいない状態が長く続いた領地の状態を確認し、それを正常に戻す作業がどれほど大変なことなのか。また、後継者となった張本人 がいないこのタイミングでないと、代理決済が下せないことも相まって、ラーディーンはとにかく焦っていた。過去の自分がしでかしたことぐらい、自分で片を付けていまいたかった。
広い執務室に、コチコチと時計の針の音が響いている。これは聞きなれた音ではあるが、座って見える視界は半年前と比べると違っている。
オルディアス王国の首都フィルドンにある、レーヴェンシュタイン公爵邸。その執務室は、レーヴェンシュタイン公爵本人しか使わない場所であった。しかし、数年前にレーヴェンシュタイン公爵が病に伏せたことで、この執務室の主となったのは、次男のディートリヒであった。
長男が戦争で帰らぬ身となったことで、転がり込んできた後継者という役柄は、ディートリヒの両肩に重くのしかかった。そして、それを応援すると表では言うものの、影では「魔術師でもないのに」「白金髪も持たない」「レーヴェンシュタイン公爵家も落ちた」と揶揄する親類縁者。彼らに教えを乞うことがディートリヒにできていたのであれば、きっと彼は第二王子陣営に付け込まれることはなかったかもしれない。しかし、獰猛な親戚たちがレーヴェンシュタイン公爵の後継者を傀儡にしようとしたならば、恐らく今のレーヴェンシュタイン公爵家はなかったと言わざるを得ない。
ディートリヒがレーヴェンシュタイン公爵家の藍色の瞳を持っていたことで、血縁であることだけは認めてもらえていたのが、彼にとってレーヴェンシュタイン公爵家を背負うだけの支えであった。――そして、それすらも今は、隠しながら生きている。
目の疲れを感じ、ラーディーンははっとして鞄の中から目薬を取り出した。これは、決して目の疲れを和らげるものではない。自身の瞳の色をありふれた青色に変えるための魔法薬だった。
執務室で自身が座る席であるパートナーデスクの引き出しを手早く引き出すと、手前の方にあった小さな手鏡を手に取った。このサイズの手鏡を男性が使うことはめったにない。そのため女性用の手鏡の中で、なるべくすっきりとしたデザインのものを北の大国で見繕ったものだ。
手鏡を覗き込む。そこには、最近やっと見慣れた自分の顔が映っていた。魔法薬が切れて、生まれた時から変わらない藍色の瞳が、鏡越しに自分を覗き込んでいる。
ディートリヒは、大罪人だ。ひと月ほど前に幽閉を言い渡された身だった。クラウスを殺害しようとし、浄化薬の私物化と不正管理、レイの拉致監禁傷害。これだけのことをしでかして死罪にならなかったのは、むしろ「生き恥を晒して死ね」と言われていると思ったが――まさか、こうして名を捨て顔を変え、再びレーヴェンシュタイン公爵家を支えるために身を粉にして働かせるための刑だとは、思いもよらなかった。
目薬を差す。一瞬沁みるような痛みがあれど、それはすぐに消失する。毎朝、毎昼、毎晩行っているので、流石にその反応にも慣れてしまった。再び手鏡を覗き込むと、綺麗な青色に染まった瞳がそこにあった。まるで別人のような姿が、ラーディーン・ウィルヒム、今の自分だ。
手鏡を引き出しに戻して、再び書類に目を落とした。過去三か月分の滞っている報告と、過去のデータを天秤に掛けて、不明点は洗い出して再提出を求める。問題ないものは代理決済印を押す。再提出されてきた報告書に目を通す。指示を出す。それを何度も何度も繰り返し、代理決済印を押した書類を入れる保管箱がいっぱいになったところで、紐で綴じて特殊封蝋を使用しレーヴェンシュタイン公爵の家紋を押した。
溜まった国への報告書は、特定の保管箱に入れ、転送に耐える特別な封蝋で綴じて転送するのが習わしだ。そして、一定の家格より上の家門は、執務室にその転送装置を設置することが可能だ。
ラーディーンは立ち上がると、保管箱を持って執務室の片隅にある台座に近寄った。つるりとした黒い石に、魔法陣が彫り込まれている。これは、王城の隅にある受け入れ所に転送され、どこの家の転送装置から何が送られてきたのかが記録されると同時に、中身をスキャンされて害のあるものが入っていないか確認される仕様となっている。
ザルハディア王国のスパイを出し、国の事業である浄化薬の品質を貶めるような行為を行ったレーヴェンシュタイン公爵家に、家格があるというだけで信頼ある転移装置が置かれたままというのは、皮肉以外の何物でもない。
魔法陣の上に重量のある保管箱を置くと、ラーディーンは魔法陣を起動した。ォオッと音を奏でて、魔法陣が薄緑色の光を放つ。その光が保管箱を包み込むと、あっという間に弾け、保管箱は見る影もなくなった。
無事に転送されたことを確認し、ラーディーンは昼食の時間であるのも構わず、パートナーデスクに立てかけるように置いてあった自身の鞄を手に取った。着任時にウィルヒム伯爵が調達してくれた新品の革鞄だ。飾り気もなく、滑らかで丈夫、かつ物がよく入る。まさに実用的な鞄だった。
昔の自分なら「レーヴェンシュタイン公爵家が持つに相応しくない」という理由で絶対手を出せないものだっただろう。しかし、今は名ばかり貴族である伯爵位。こういった実務に合った鞄を持つことができる。まさに、罪人を受け入れる際に、貴族の矜持もなく、給金の三分の一を家に入れるということで快諾してくれた伯爵の“深い懐”には、敬意を表さねばならないだろう。
鞄の中身を確認し、立ち上がる。魔法薬士の研究機関など、流石に分野が違い過ぎる。自身の目で確認できるところは確認し、国の指定を受けた卸売業者を見つけ出さねばならない。一旦薬草市場に行って、並んでいる業者の規模を確認するだけでもいいだろう。大手過ぎると足元を見られる可能性もあるが、幅広い伝手があるため研究に必要なものを手に入れやすくなる。……おそらく。何がいるかも分からないが。
薬草業者の一覧の手配と、実際に見に行くだけの馬車の用意は朝食の時点で依頼しているから、もう準備はできているだろう。腰を上げたところで、執務室のドアがノックされた。
「どうぞ」
声をかけると、「失礼いたします」と慣れ親しんだ声がした。――アルバート・ルキン、通称・アル。ディートリヒの乳母の子で、代々レーヴェンシュタイン公爵家に仕えてくれている家だ。子宝も多く、健康的な家系であり、子供は皆地方の貴族の下で働いている。つまり、ディートリヒとアルは所謂“乳兄弟”だ。
レーヴェンシュタイン公爵家の本邸はレーヴェンシュタイン領にあり、首都フィルドンの邸宅は家令がいた。ディートリヒが後継者になるにあたり、教育は受けていたとはいえ、右も左も分からぬ者が治めるには、レーヴェンシュタイン公爵領は一筋縄ではいかなかった。その邪魔をしていたのは、親類縁者だけではない。この家令が一番の曲者だった。
親戚からの推薦状を片手にやってきた家令は、ディートリヒを御 すために第二王子陣営に引き込んだ人物でもある。そして、ディートリヒがそれに気付いて家令を解雇すると、古参の使用人を引き抜いて出て行った張本人であった。ただ、出て行った使用人たちのほとんどは、魔術師でもなければ頭角を現すような才を持つわけでもないディートリヒが、後継者の座に就くことをよしとしなかった者でもあったので、ディートリヒとしては何も問題はなかった。――だからこそ、次の職に就くための推薦状も持たせずに解雇という形をとって報復としたのだが。
そんな中で、フィルドンのレーヴェンシュタイン公爵邸に残ってくれた使用人達は、決してディートリヒを後継者として認めたわけではなかった。古参の使用人達が抜ける中で、まだ若く経験の浅い彼らがレーヴェンシュタイン公爵家に残ったのは、アルの父親の存在が大きい。問題の家令よりも、当時執事長をしていたアルの父親を慕う者が残ってくれていただけだった。しかし、そのアルの父親は「家令が表立って何か問題を起こしたわけでもないのに、一方的な切り方をすれば遺恨が残る。痛み分けにしておくべきでしょう」と自ら職を辞した。現在彼はレーヴェンシュタイン公爵家の田舎に引っ込んで、悠々自適なスローライフを送っている。
現在、アルは父親の役割を引き継ぎ、若くして執事長に収まっている。彼にも苦労を掛けてしまっているが、ディートリヒとして接していた間、彼は嫌な顔一つせずに、付き従ってくれた。
ドアが開き、その後ろからアルが姿を現す。その視線は、何かを考えたように一瞬強張り、次の瞬間には柔和な執事らしい表情に切り替わった。
「ウィルヒム様、食事は――」
「大丈夫です。時間が惜しいですから」
アルの言葉を遮るように、短く断りを入れる。
ラーディーンは、極力アルと接点を持たないようにしていた。ただでさえ、幼い頃から共に過ごしてきた仲なのだ。ほんの些細な事でも、自身がディートリヒだと露顕してしまう可能性は潰しておくべきだ。
アルは何も言わず、小さなこげ茶色のバスケットを一つ掲げて見せた。
「そうおっしゃるかと思いまして、ランチボックスにいたしました。片手で食べられるフィンガーサンドイッチです」
ラーディーンは、思わずアルの方を見た。おそらく焼きたてのパンで作ったのだろう、おいしそうな香ばしい匂いがバスケットの中から漂っている。食欲を刺激され、ラーディーンは空気とともにその芳しい香りを吸い込まないように、息を止めながら足早に部屋を出た。――ラーディーンは焦っていた。
フィンガーサンドイッチは、よく昼食を抜くディートリヒのために用意されていたメニューだ。もしかしたら、すでに勘付かれているかもしれない。
いつだ。いつバレた。初日に玄関で挨拶をしたときは、確かに一度驚いた顔をしていたが、瞳の色をじっと見つめてひどく落胆されたのを覚えている。あの時は、確実に“他人の空似”と判断されたはずだ。まだその日からひと月も経っていない。どこでやらかしたというのか。皆目見当がつかない。
素早くアルの隣を通り抜け、歩き慣れている絨毯の上を競歩よろしく進んでいく。ほぼ走っているような速さであったが、ぎりぎり貴族の嗜みとして“廊下を走る”という一線は越えてはいなかった。いや、結局優雅さの欠片も無く、貴族としての模範的姿から逸脱しており、ただの言い訳に過ぎないのだが。少なくとも、ディートリヒだったならしない行為だ。
後ろから追いかけて来る気配がなくなったところで、ラーディーンは息を整えるために、速度を落として歩き始めた。使用人たちの好意を、無碍にしてしまった。今更そんな罪悪感に苛まれながら、使用人用の通路を進み続けた。ラーディーンは伯爵位であり、本来ならこんなところを通ってはいけないのだろうが、雇われた立ち位置としては『家令』のような位置になる。であるならば、自分も使用人の立場としてこの通路を使うべきだと思っていた。
正直、ラーディーンとしては、屋敷の表から出入りするのすら億劫だった。髪を短く刈り上げたとして、帽子を被ってしまえば、シルエットはディートリヒそのものだ。帽子を被らずに外に出るような教育は受けていない自分としては、何も被らずに外出するというのも気が引けてしまう。
以前だったら絶対身につけなかった明るい灰色の型落ちコートを着て、同色の帽子を被る。これが、今の自分にできる最大の抵抗だった。
魔法薬士協会と薬草市場を見て回り、目ぼしい業者をリスト化して帰路に就く。これを基に、レーヴェンシュタイン公爵領に出入りしている業者にも打診をしてみるしかない。通いの業者としても、公爵家に出入りを許されているという看板があるため、分野違いの業者の紹介は自然と慎重になる。
馬車に揺られながら、好きでもない帽子を脱ぎ、ため息を吐きながら持参した新聞の一面を飾る引き延ばされた写真に視線を落とした。
隣国ザルハディア王国で起こった、ドラゴンゾンビ騒動についての記事だ。ザルハディア主要都市の薬草園の地下から突如現れたドラゴンゾンビと、それを一撃で仕留めた『伝説の魔法薬士』と注釈が付いた画像には、空を翔け抜ける閃光と、森を背景に佇むアースドラゴンの頭上に浮かぶ、遠くからでもはっきりとわかる魔法陣が映っていた。記事では、ドラゴンゾンビを屠ったことへの賛辞と共に、アースドラゴンの鼻先に人が立っているという信じがたい事実と、その人物について様々な憶測が並んでいた。
伝説の魔術師ルミアを彷彿とさせるような人物が、ただの魔法使いであるわけがないという声と、ザルハディア王国で冷遇されている魔術師たちによる地位向上を目的としたプロパガンダだったのではないかという声も、書かれていた。
ラーディーンはその拡大されてぼやけて見える人物を睨みつけるように見つめた。そんなことをしたからといって、誰なのか確証を得られるわけではないが、どうにもこれが身近な人物に思えてならなかった。そしてその人物は、今、クラウスと共にザルハディア王国へ行っている。
再びため息が零れ落ちる。そのまま通信魔法機器を起動し、オルディアス王国転移港へと連絡を取った。依頼内容としては、「社交界シーズンに突入したが、話題となってしまったレイ・ヴェルノットがザルハディア王国にいるために、帰国時にその姿を収めようと記者が押し寄せる可能性が否定できない。互いの安全のために、秘密裏に転移港を出発できるよう助力を願う」というものだった。
ゆっくりと走る馬車が、レーヴェンシュタイン公爵の裏門を潜る。使用人が荷受けする場所に馬車が止まると、ラーディーンはすぐさま馬車を降りた。昇降階段など出されずとも、この馬車には一段足を引っかけられる簡易的な足置きがある。後継者として扱われなくなったことによって、むしろ昔より早く行動できるのは、性に合っているように思えた。
だが、今日ほど自分の不運を呪ったことはない。いや、流石にそれは言い過ぎだが、つくづく自分はついていないらしい。使用人用の出入り口の前に、背筋を伸ばして微笑むアルの姿を見て、好きでもない帽子を目深にかぶり直す。
「おかえりなさいませ」
アルが頭を下げた。日も暮れ始めているにもかかわらず、わざわざ自分を出迎えるために出てきたようだ。通常、このぐらいの時間帯は忙しいのではないだろうか。主が不在にしている分、使用人たちも手が空く頃合いなのかもしれないが。
「……戻りました」
苦々しく呟くようにそう告げて、足早にアルの横を通り過ぎる。その歩調に合わせるように後ろからアルもついてきた。こちらはアルから離れようとしているのに、当人はにこやかに一定の距離を保ちながら追いかけてきた。
「私に、出迎えは、不要、だっ!」
軽く切れ始めた息の合間にそう言うが、アルは笑みを深めるだけだった。
「主からは、主の家族の“ように”扱うよう指示されております」
息切れもせずに涼しげにそう言うアルは、むしろ何故か楽しそうだった。しかもそうあの愚弟 が指示したというのも、なんだか癇 に障る。奴は何を考えているんだ。こうやって接触を増やせば、正体に気付く可能性があるだろう。それに、私はもう家族ではないのだ。
逃げ込むように執務室へ駈け込もうとした。しかし、後ろにいたアルが一気に足を速めて執務室のドアの前に立った。
「……何をしている」
苛立ちを抑えずにそう聞くと、アルは柔和な笑みを絶やさず、手を自身の胸に当てて答えてきた。
「主より、ウィルヒム様の週末の仕事は夕方以降禁止するように申しつけられております」
流石にこれには頭に血が上りそうだった。そんな馬鹿な話があるか。まずその指示を自分が聞いていない。それがそもそもおかしな話だ。
「嘘だな」
「おや? バレましたか」
こちらの指摘に舌でも出しそうな勢いで悪びれもせずにそういうアルに、ついに怒りがピークに達した。自分は外部の人間ではあるものの、下の者に舐められるというのは、レーヴェンシュタイン公爵家の規律の乱れに繋がってしまう。だがそれを、他でもないアルがしたという事実が、どうにも見過ごせなかった。
「私の邪魔をするのなら、こちらにも考えが――」
「嘘つきが嘘をつかれて怒るなんて、オフィーリア様はきっと笑われますね」
頭が真っ白になった。その一言を発したアルの目の奥だけが、一つも笑っていなかった。久しぶりに聞く母の名前に、全身の血が下がっていくのを感じた。
遠くから近付いてくる使用人の足音で我に返り、魔法で執務室のドアノブを下げて、アルを押し込むように執務室に入る。すぐさまドアを閉めて内側から鍵をかけ、後ろにいるアルを問い質そうと振り返った。
アルが、すぐ目の前にいた。あまりの近さに驚いて一歩退くと、ドアノブが腰に当たって痛みが走った。その隙をつくかのように、アルの左手がラーディーンの顔の横、右手がラーディーンの左脇を通すようにドアに着いて、全身で逃がさないとラーディーンを閉じ込めた。
分厚い木製のドアを押さえつけるアルの指は、力が入って爪の色が変わっていた。部屋の前を通っていく足音よりも、間近に感じるアルの息遣いが耳に残る。
「……ディート――」
「言うな」
アルが口にした名を、吐き捨てるように遮った。その瞬間、アルの顔から表情が消えた。苦しそうに歪む目が、俯かれて見えなくなった。
かつて、アルがこんな表情を自分に見せたことがあっただろうか。自身の父親がレーヴェンシュタイン公爵家を離れた日でさえ、こんなに辛そうな表情を浮かべたことなど無かったというのに。
「――った……」
アルの口から漏れた声の前半は聞き取れなかった。いや、聞き取れなかったのではない。正確に言えば、音になっていなかった。子音が僅かに聞こえた程度で、判別できるほどのものではなかった。
ゆっくりとアルの体が倒れ込んでくる。肩にあたるアルの額の感触とともに、慌てて支えようと手が一瞬前に出たが、そんなことをしていいか分からなくて、宛てもなく行き場を失ったまま宙に固まってしまった。
「生きてて……よかった……」
肩口で紡がれる音が妙に湿っぽく、あたたかく。アルの震える手がゆっくりとラーディーンの――ディートリヒの背に回るまで、ただなされるがまま立ち尽くすことしかできなかった。
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