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番外編3 義兄の話(中)

「先ほどは……大変失礼をいたしました」  うっすら腫れた瞼で、アルはパートナーデスクに座るラーディーンにお茶を差し出した。立ち上る湯気とお茶の香りが、当時を思い出させる。  たった数か月前まで、自分は向かい側にある後継者席に座っていた。そして、同じようにアルが淹れてくれたお茶を当然のように飲んでいた。しかも、冷めるまで放置した挙句に味わうこともなく。  ソーサーからカップを持ち上げ、そのまま口へと運ぶ。口内に広がる味は華やかで、決して仕事の片手間に飲むようなものではなかった。 「……初めて飲む香りだ」 「お昼を召し上がっていらっしゃらないので、胃に優しいものを選びました」  そう伝えてくるアルの表情は、普段の柔和な表情に戻っていた。  カップの中の赤みを帯びたお茶は、まさにアルのようだった。終始穏やかで、何事にも動じず、黙って付き従ってくれていた彼の優しさが、張りつめていた神経をほぐしていく。  だからこそ、先ほどアルが見せた表情が、頭の片隅にちらつく。執事としてのアルではない。執事の仮面に隠されていた、遠い記憶の面影が重なった。  乳兄弟ということもあり、幼い頃は共に学び、良き友のように笑い合い、喧嘩をしていた日々が思い出された。そんな彼が、レーヴェンシュタイン公爵家を乗っ取り、壊そうとしていた自分に対し、涙を流して「生きていてよかった」と言ってくれるとは、思いもよらなかったのだ。  その動揺が、今も尚、尾を引いている。 「……何故、分かった?」  揺れるカップの中身を見つめながらそう言うと、アルは黙って懐から手鏡を取り出した。何も言わずに鏡面をこちらに見せて来て、ラーディーンは大きくため息を吐いた。  油断した。瞳の色が戻っている。パートナーデスクの引き出しから目薬を取り出し、さっさと両目に滴下すると、じんわりと沁みる目薬の痛みはすぐに消失し、アルの手の中にある手鏡に青色に染まった瞳が映り込んだ。 「その目薬は……持ち運ぶわけにはいかないのですか?」 「替えがない。持ち出して万一にでも紛失したら、元も子もない。今日は致し方なかったが、基本的に外出することはないだろうから、しばらくは問題はないだろう。未来の鞘様(ヴェルノット卿)には既に新しいものの依頼をかけているが、材料の入手と調合設備が整わないことには、どうにもならないらしい」  ため息交じりに、再びカップを持ち上げる。一口含み、そのまま飲み下す。こんなにゆっくりとしたお茶の時間を、久しく取っていなかった。本当なら今も仕事を進めてしまいたい気持ちはあるが、仕事をさせないように画策していた本人を目の前にして、流石に書類を広げられなかった。 「なるほど。だから物置になっていた離れの片付けと掃除を急がせたわけですね。レイ様の研究室になさるために」  アルの言葉に、そのまま頷く。本館のすぐそばにある離れには、もともと小さい子どものいる使用人が住んでいた。住み込みで働く以上、子どもがいる家庭が主人もいる本館で生活するのは、互いに気を遣うだろうとの配慮であった。しかし、今はそういった家族構成の使用人がいないため、物置と化している。 「では明日の午後にいらっしゃるのは、研究室用に改装するための業者ですか。聞きなれない名前でしたので」 「あぁ」  アルの質問に答えながら、苦々しくカップをソーサーに置く。その業者の手配をしたのはクラウスだった。おそらく国の御用達なのだろうが、ディートリヒとしてはあまり歓迎できるものではなかった。研究とは秘匿性の高いものだ。加えて、レイの調合はあまり国に関わらせない方が良いものも混ざっているという。ならば、レイの研究室の改装工事に乗じて、何らかの仕掛けが施される可能性だって高い。レーヴェンシュタイン公爵家として、国に対する忠誠心は高くあるべきだが、全てを明け透けに見せるべきではない。と、ラーディーンは考えていた。  二人の間に、沈黙が下りる。何かを言いたげなアルが話を続けないのは、恐らく自分にもアルに話したいことがあることが分かっているからだろう。それを、アルは待っている。 「……怒って……いや、恨んでいるだろう?」  口から出てくるのは、いつもこんな言葉ばかりだ。そんなことはない、などという甘言が出てきたところで、信じたりなどしない癖に。そう自嘲しながらも、一度出てしまった言葉はどうにも止まらなかった。 「言うなら今だぞ。“ディートリヒ”として聞いてやるのは、これが最後だ」  さぁ言え。そうでなければ、自分もアルも、区切りをつけられない。だが、言ったら最後。自分をディートリヒとして扱おうとするな。そう言外に含ませて、睨みつけるようにアルを見る。  アルの視線が、真っ直ぐこちらに向いている。一度しっかりと目を閉じ、大きく吸った息をゆっくりと吐き出す。意を決したようにぐっと肩に力が入り、目が開かれた。 「……では、お伝えいたします」  緊張した面持ちで、アルが再び息を吸った。どんな罵詈雑言が飛んでこようと、全てを受け入れる。その覚悟で、腹に力を入れて傾聴する。 「――――かねてより、お慕い申し上げておりましたっ!」  はっきりと、執務室に響く声。長針が天を指す時だけ、コチリとやけに大きな音を立てる壁掛け時計が夕食の時間を告げる。定時になったら自動で閉まるようになっている執務室のカーテンが、窓から差し込む夕日をさらさらと隠していく。  どうやら、耳がおかしくなったわけではないようだった。直前までの全てを受け入れるという決意が、一瞬で瓦解する。そうでなければ、なんとも意味合いが変わってきてしまう。 「……あの銀色の狼に心を奪われていた貴方は、後継者となられたあと、すぐに結婚を迫ってきた野心溢れる婚約者様を、一言『邪魔』と切って捨てられた」  先ほどよりは声量を幾分か落としたアルの言葉に、ディートリヒの心臓は跳ねた。フィオラーシカのことも知っている。本来なら、レーヴェンシュタイン公爵家としてふさわしくない行動すら、アルは見守ってくれていたのか。……それとも、フィオラーシカのことを第二王子陣営に漏らしたのは、もしかして。 「元婚約者様が、ディートリヒ様がいない秘密基地に忍び込み、あの狼に一服盛ろうとしていたのを見た際にも、正直このまま見て見ぬふりをしてしまえば……などと後ろ暗い気持ちになったのも、事実でございます。私は、あの銀色の狼に嫉妬しておりました」  罪悪感から恨み言を聞こうとしていたのにもかかわらず、いつのまにかアルの懺悔にすり替わっている。というより、あの婚約者にもバレていたのを今初めて知った。確かに、フィオラーシカの身の回りのものは、あの婚約者が懇意にしている商家を使っていた。その伝手で露呈したか。 「元婚約者様の口を塞ぐのが遅れてしまい、結果的にディートリヒ様の政策に影が出てしまったのは、私の落ち度でございます。……父のようにうまく立ち回れなかったのを、悔いてございます」  悲痛に歪むアルの表情に、ディートリヒは頭を抱えた。自分ではうまく隠せていると思っていたのに、婚約者にはバレ、アルにも気を遣わせていた。加えて自分を想うあまり、内々に処理しようとさえしてくれていた者を一瞬でも疑ったことを恥じた。  アルの顔をどうにも見ることができないまま、苦々しく絞り出すように口を開く。 「いくら渡した?」 「……流石に闇夜に乗じたとは思われませんでしたか」 「なら、“口を封じた”と言うだろう。亡くなったとして相手が隠す必要もないしな。……で、いくら渡したんだ? レーヴェンシュタイン公爵家の財政負担がないところを見ると、私費だろう」  以前ならあった前髪を掻きあげるようにして、痛くなりはじめた前頭部を指で揉む。まさかアルが自分のために自腹を切っていたとは思いもよらなかった。結局自分は、詰めが甘いのだ。そして、それを周りにフォローされていることに気付けていない。  アルが示した金額を聞いて、グッと奥歯を噛み締める。ディートリヒの私財は、全てレーヴェンシュタイン公爵領の運営とフィオラーシカの保護費に充てるよう計上してしまっているため、即金で返すことが難しい。 「…………分割でいいか」 「要りません」  あっさりと断られ、睨みつけるようにアルを見上げる。しかし、アルは静かにこちらを見つめ返してきた。頑として譲ろうとしない。 「家臣としての範疇を超えている」 「私が勝手に行ったことです。受け取れません」 「……アルバート・ルキン。退職金として渡してもいいんだぞ」  脅しつけるようにそう言っても、アルはむしろ開き直るばかりだった。 「クラウス様とレイ様がお許しにならないでしょう」  そして、言っていることも的を射ている。自分の立ち位置を理解している者の強気な発言は、少々面倒くさい。気持ちの重さを支えるように、眉下のくぼみを指で押し上げるようにして、机の上に肘をついた。 「……私の気が済まない」  名を捨てたとしても、知らないうちに家臣に役目以上の負担を強いていたことが分かったのだ。むしろ自分の尻を自分で拭くために新たに手に入れた名でもある。ここで甘えるわけにはいかない。 「では、私の願いを聞いていただけますか?」  僅かに上ずった声。アルのその言葉に、こちらにも緊張が走る。 「…………言ってみろ」  ソーサーの端を持つ指が、少しだけ落ち着かない。先ほどの勢いに任せた告白絡みでないことを祈りながら促した声は、少し低かったようにも思える。  アルの視線がそっと泳ぐ。右上、左下、下、そしてまっすぐ自分を見て、唇が開かれる。 「……明日の午前中、一緒に出掛けていただけますか?」  まっすぐ見つめられ、ディートリヒはすぐに勘付いた。――コイツ、ひよったな。 「そんなものでいいのか?」 「はい……とりあえず、一旦は」  段々しょぼくれていくアルを見ていると、なんだかこちらがいじめているような気持ちになってくる。むしろ今精神的にいじめられているのはこちらのはずなのだが。しかし、「一旦」などと言われると、こちらの返済がいつ終わるのか心配になってくる。 「わかった」  短く答えると、アルはにっこりと微笑んだ。そんなほっとした表情をされると、こちらとしては非常に複雑だ。 「では、朝食が終わりましたら出発いたしますので、よろしくお願いいたします」  そう言って頭を下げると、アルは素早く退室していった。自分以外は誰もいない執務室に、一人取り残される。明日の午前中が潰れるのであれば、今の内に仕事を進めるべきなのは分かっているが、このままここで仕事を続けても、恐らく再びアルに「夕食だ」と邪魔されるだろう。中途半端に進めるぐらいならば、夕食後に始めよう。そんなことを頭の隅で考えながら、アルの言葉を反芻する。 「…………あれは、朝食はきちんととれ、と言う意味か……ちゃっかりしている」  苦笑して、まだ温かいカップを持ち上げた。鼻孔をくすぐる華やかな香りで緊張が解れた瞬間、ディートリヒの思考は回り始めた。アルは明日はどこに出かけるつもりなのだろうか。外行きの一張羅など、自分はもう持ってなどいないのだが。

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