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第9話 酔っ払い先輩と俺

気づけば、グラスは何杯目かもわからない。 空いた皿とボトルが、いつの間にかテーブルの上を埋め尽くしていた。 「……ちょっと飲みすぎたな」 柏木さんはそう言って、椅子の背にもたれかかり、静かに目を閉じた。 赤く染まった頬に緩んだ口元。いつものピシッとした印象とは違って、どこか無防備だ。 「柏木さん、だいぶ酔ってますよね」 そう声をかけると、柏木さんはうっすらと目を開けて、少しだけむすっとした顔になる。 「そんなに、よってねえよ……」 いやいや、どう見ても完全に酔ってると思うけどな。 そういえば今日の柏木さんは、普段より少しだけ口数が多くて、笑う回数も明らかに多かった気がする。 「……まだ飲めるし」 その言い方すら、どこか拗ねた子どもみたいで思わず笑ってしまいそうになる。 けど、下手に笑ったら機嫌を損ねそうだからぐっとこらえた。 「はいはい、酔ってないですねー」 「……んだよ、人を子ども扱いして」 そう言いつつも、声が眠たげでまったく迫力がない。 ……ほんと可愛いなあ、この人。 そんな俺の内心に気づくわけもなく、向かいの席から吉田さんが笑い声を上げた。 「おいおい、柏木、どうしたー? らしくねぇな~」 「てか樹、おまえいつの間に柏木さんとそんな仲良くなってんの?」 三上までニヤニヤしながら言ってくるもんだから、俺は誤魔化すように空のグラスをまとめながらそっと立ち上がった。 「じゃあ、そろそろ帰りますか」 「そうだな」 すると、柏木さんが自分の財布から万札を何枚か取り出し、吉田さんに渡そうとする。 「……よしだー、これで足りる?」 「ははっ、多すぎだって」 吉田さんが苦笑しながら、数枚を柏木さんの手に押し戻していた。 会計を済ませて店を出た後、吉田さんが俺に小声で言ってきた。 「瀬川、あいつ任せていい?」 「え?」 "あいつ"って柏木さんのことだよな。 「……あ、はい。了解です」 「サンキュ。じゃ、俺はタクシー拾って帰るわ」 そう言って、軽く手を振って去っていく吉田さんの背中を見送る。三上も、「俺帰り道、逆だわ」と言って駅のほうへ。 「……柏木さん。ちゃんと歩けます?」 そう声をかけると、薄く目を開けた柏木さんが小さく笑った。 「……ふぅん。おまえが送ってくれるん」 「まあ、そうなりますね。ていうか、それ以外ないでしょ」 「歩くの、だるい」 「じゃあおんぶします?」 「……殺すぞ」 語気は弱いくせに、ちゃんとツンツンした返しが来るのがなんか笑える。 「……で、タクシーですか? それとも電車?」 「タクシー。歩きたくない」 「はいはい、わかりました。じゃあ、こっち」 手を軽く引くと、柏木さんはすこしだけバランスを崩しながらも素直についてくる。 俺はタクシーの通る通りへと歩きながら、深く息を吐いた。 「柏木さん、自宅の住所は?」 「ん……スマホ見て。あ、ロックは……」 パスコードを打ち込むのを見せてるあたり、完全に警戒心がなくなってる。 こんなふうに人に任せるタイプじゃないのに、それだけ酔ってるのか、それとも……少し気を許してくれてるのか。 ちょうど一台のタクシーが見えたから手を挙げると、すっと寄ってきた。 「じゃあ、乗りましょうか」 「……ん」 ふらつく足取りのまま柏木さんが後部座席に滑り込み、そのあとを追うように、俺も隣に腰を下ろす。 「行き先は――」 柏木さんのスマホに表示された住所を運転手に伝えると、車が静かに動き出す。 隣では柏木さんがぐったりと俺に身を預けている。 「柏木さん、くっつきすぎじゃないですか?」 「……狭いんだよ」 俺の右腕のあたりに、彼の髪がかすかに触れている。体温も呼吸の音も、すぐ隣。 ちょっと、いや……だいぶドキドキしてきた。 「眠いなら、少しだけ寝てもいいですよ。着いたら起こしますんで」 「悪いな……」 ぽつりと漏れる声が妙に素直だった。普段なら、絶対こんなふうに頼らない人なのに。 「別にいいですよ。こんな柏木さん、レアですし」 「レアってなんだよ……」 「いや、普段クールなのに、今日はちょっと可愛いんで」 「……べつに、かわいくないやろ……」 目を閉じたまま、そう返してくる。 ツンとした口調のくせに、言葉の端に眠気と照れが滲んでる。 しばらく静かな車内に揺られながら、俺は思い出したように口を開いた。 「柏木さん、これから俺のこと……“樹”って呼んでもらっていいですか」 「……いつき?」 「はい。名字より、下の名前呼んでもらえたら嬉しいなって」 「いつき、か……いい名前やん」 タクシーの振動に身を預けたまま、柏木さんは小さく笑った。 *** 柏木さんの自宅マンションに着き、部屋の前まで来たところで、大事なことを思い出した。 ……たしか、彼女と一緒に暮らしてるって言ってたっけ。 途端に、急激に現実に引き戻される。 いや、俺はただの後輩だし男だし、浮気だとか、誤解されるようなことにはならないはずだけど。 でも――もし玄関を開けた瞬間、彼女さんが立ってたら。 「誰?」って、冷たい目で見られたら。 ……正直、想像するだけで気が重い。 「柏木さん、彼女が待ってるんですよね」 「あー……うん、まあな」 口調は曖昧だったけど、否定はされなかった。 「お邪魔します……」 小さくそう言って、柏木さんを支えながら玄関のドアを開ける。 部屋に入った瞬間、俺は少しだけ拍子抜けした。 シンプルで整った内装。落ち着いた照明。 ソファのクッションもテーブルの上も、生活感はあるのに、どこか静かな空気が流れている。 「あの……」 玄関先からさっと部屋を見回す。けれど、女性ものの靴もバッグも、小物も見当たらない。 ――“メイちゃん”の存在感が、どこにもなかった。 じゃあ、“一緒に寝てる可愛い存在”って……? 問いかけかけた言葉が喉元で止まり、ただ沈黙だけが、玄関の空間に満ちていた。

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