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第10話 無防備でかわいい柏木さん
フローリングの一角。
あのとき雑貨屋で柏木さんが買って、照れながら隠していた猫柄のクッションのすぐそば。
ペット用のベッドが、さも当たり前のようにそこに置かれていた。その中から、ふわりと白い影が顔をのぞかせる。
――え、猫……?
思わず足が止まる。予想してなかった光景に、頭が追いつかない。
隣では、ふらつきながら柏木さんがすとんとその場にしゃがみこむ。ふにゃっと笑って、白猫に柔らかく声をかけた。
「メイ、ただいま」
白猫も、「にゃあ」と小さく鳴いた。
それだけで、空気が一気にほぐれていく。
……ああ。
頭の中で、ずっと引っかかっていた“彼女”の存在。
メイちゃんって、この子のことだったのか。なんだ、そういうことか。
いろんな感情が一気に緩んで、思わず肩の力が抜けた。
勘違いしていた自分がちょっと恥ずかしい。でもそれ以上に、胸の奥にふっと温かいものが灯る。
「おそくなってごめんな、メイ」
メイと呼ばれた白猫は尻尾をピンと立てて、柏木さんの足元にすり寄っていく。顔をこすりつける仕草が、なんとも甘えん坊で、健気で。
「めちゃくちゃかわいい……ですね」
猫も、柏木さんも。
「うん、ほんまにかわいいんよ。メイ、待っててくれてありがとうな」
柏木さんは、猫に話しかけるときだけ声が明らかに優しくなる。酔っ払ってるのに、その小さな頭を撫でる指先まで、普段よりずっと柔らかくて。
「柏木さんって、猫の前だと優しくなるんですね」
「……ええやろ、べつに」
不意に関西弁が混じるのは、たぶん照れ隠しだ。目を逸らしながら口を尖らせるその顔が、やたらと素直で。
「確か、メイちゃんと一緒に暮らして三ヶ月でしたっけ」
そう振ってみると、隣の柏木さんはほんの少しだけ目を細めて頷いた。
「ああ。元は保護猫でな、大人になってからもずっと引き取り手が見つからんかったらしい」
「それで、柏木さんが?」
「……まあ、縁があったつーか。俺、そんなに人付き合いも多くねぇし、在宅仕事のときもあるから、メイといてやれる時間はあるしな」
「……やっぱり、優しいですね」
「は?」
間髪入れずにそっけない声が返ってきた。でも、その声の奥には微妙に照れがにじんでいて。
「いや、だって、なかなかできることじゃないですよ」
「……そんな大したことちゃうやろ」
誰かに頼まれたわけでも、見返りがあるわけでもなくて。ただ、自分の目で見て、自分で決めたんだろう。
そういうとこ、すごく柏木さんらしい。
一見クールで近寄りがたい空気をまとってるのに、その内側にはこんなにも静かな優しさを持ってて。
――またひとつ、新しい一面を知ってしまった。
それにしても、メイちゃんはすっかり安心しきった様子で、柏木さんの足元にぴったり身体を寄せて丸くなっている。
俺のことなんて、最初から視界に入ってないみたいだ。
そっと手を伸ばしてみるけど、ふいっとしなやかに身を引かれる。
……はい、見事に警戒されてます。
「おまえ、ぜんっぜん歓迎されてへんやん」
「うっ……言わないでくださいよ、それ」
小さくグサリとくる。いや、けっこうダメージでかい。
「昔からなぜか動物には懐かれなくて……なんでですかね。弟にはすぐ懐くくせに」
「へぇ……そうなんか」
「はい。弟は……なんていうか、可愛げあるし、優しそうにも見えるんですかね。俺なんかよりずっと、好かれやすいんですよ」
ちょっとだけ自虐混じりに言ったつもりだったのに――
「んー……でもな」
柏木さんはちらっとこっちを見て、少しだけ口元をゆるめた。
「おまえも、たぶん……そうやってちょっと拗ねてるとこ、わりと可愛いで」
「……えっ?」
聞き返そうとしたけど、柏木さんはもうメイちゃんをそっと抱き上げて、隅の寝床に運んでいた。
毛布の上にちょこんと置かれたメイは、丸まったまま満足そうに目を閉じる。
そのまま柏木さんは、ふらふらとベッドに向かって横になった。
「……柏木さん?」
軽く肩を叩いてみても、反応はない。
ネクタイはゆるんでるけど、スーツのまま。このまま寝たら、絶対に寝苦しいだろうし……下手したら風邪ひく。
「柏木さん、寝るならちゃんと着替えたほうがいいですよ」
「ん……」
「ほら、起きてください。せめてジャケット脱ぎましょう?」
軽く肩を揺らすと、柏木さんがぼそりと呟いた。
「……いつき」
「え……?」
今、俺の名前……呼んだ?
「……ぬがせろ」
「えっ?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
でももう一度、同じ声が落ちてくる。
「だから、スーツ……くるしいから脱がせろ」
「……了解です」
内心、動揺しながらも返事だけは冷静に。そっとジャケットのボタンを外し、片腕ずつ丁寧に袖を抜く。体温がじわっと指先に伝わってきて、思わず息を呑む。
柏木さんはベッドに身を預けたまま、目を閉じてる。無防備というか……きっと、もう完全に気を許してるか、酔いで何も考えられなくなってる。
「ちょっとは協力してくださいよ」
「ん……してる」
柏木さんは微かに腕を動かしたけど、動きはゆるくて頼りない。結局、全部俺がやることになる。
「シャツ、前開けますね」
ネクタイの結び目をほどいて、第一ボタンに指をかける。シャツの隙間からのぞく首筋に白い肌。軽くドキッとして、目を逸らしかけた。
……落ち着け、俺。
そう言い聞かせながら、ひとつ、またひとつ……ボタンを外していくと、シャツの隙間から胸元があらわになる。
でも柏木さんは無言のまま目を閉じていて、眠ってるのか、うっすら起きてるのかわからない。
俺はそっとベルトに手を伸ばす。金属のバックルが「カチャリ」と音を立てた。
そして、そのままベルトを引き抜いて――
スラックスに手をかけ、腰のあたりをほんの少しずらした、そのとき。
「……っ、おい……!」
柏木さんの声が、はっきりと響いた。
まぶたが開き、視線が俺を射抜くように突き刺さる。
「まて……さすがに下は……」
「脱がせてって言ったの柏木さんですよ」
「それは……ちが……」
ぐいぐいと押しのけようとしてくるけど、力が入ってない。抵抗はしてるのに緩すぎる手つきで。指先が触れるたび、息遣いが少し変わる。
それでも柏木さんは、完全に拒絶するわけでもなくて……。
俺は、ゆっくりと、息を吸った。
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