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第20話 気まずい出勤日

side 柏木 澄人 電車の窓に映る自分の顔が、どこかぼんやりしている。 寝不足、ってわけでもないのに、気だるい。いや……気恥ずかしい、が近いか。 ラッシュを抜けて、会社のビルに到着。 エレベーターを上がって、いつも通りに挨拶を交わし、自分のフロアへ。 ――“いつも通り”、のはずだった。 ……あー、顔、合わせづら……。 今さら何を、って思うかもしれん。 でも、“あんなこと”の後に、職場で普通に顔を突き合わせるなんて無理がある。 気にしないようにしてても、視界の端に勝手に入り込んでくる。 瀬川 樹。 一昨日、俺の部屋で……いや、やめとこ。思い出すだけで耳の奥が熱くなる。 「柏木さん、おはようございます」 不意に背後から、あの明るい声がする。 背中がびくっと震えたが、とっさに表情を整える。 「……ああ、おはよう」 すれ違いざま、ちらっと横を見ると、案の定。 あいつ、少し笑ってた。目が合った瞬間、ニヤッとした顔に、もう嫌な予感しかしない。 「柏木さん、“体”は大丈夫ですか?」 小声。けど、確実に聞こえるトーンで、さらっと言ってきやがる。 「……っ、お前な……!」 思わず声が裏返りそうになるのを必死に抑えた。 慌てて周囲を確認する俺を見て、樹はさらに悪ノリする。 「俺、あれだけじゃ全然足りなかったんですけど?」 「ここ会社やぞ……!」 「わかってますよ。でも柏木さん、今ちょっと顔、赤いです」 「赤くなってねぇし……!」 必死に言い返すけど、もはや説得力なんてない。 顔を手で覆いたくなる衝動を押さえて、俺は足早に歩き出す。 けど、後ろからぴったりついてくる足音。 まるで飼い犬か何かみたいに、一定の距離を保ちながら、ずっとついてくる。 席に着いてからも、あいつの視線を感じるだけで、もう集中できる気がしない。 ……こっち見んな。 心の中で念じてもまるで通じない。 案の定、隣の席の吉田が声をかけてきた。 「柏木、なんか今日、顔赤くないか?」 「いや、別に……暑いだけや」 「冷房、効いてるけどな?」 「知らん……」 なんとかごまかして、パソコンに視線を落とす。が、やっぱり無理。 タイピングがずれて、ミスばかりだ。 * 昼前、コピーを取りに倉庫奥の小部屋へ。 ひと息つける、数少ない逃げ場のはずだった。 扉を閉めた、その瞬間。 すぐ背後に人の気配。 ……なんでや。なんでこうも、グイグイ来るねん。 「……おいバカ、ちょっとは距離取れや」 「無理ですね」 案の定、すぐ後ろにいた。 振り向く前に、背中にそっと指先が触れる。微かな熱。鼓動が跳ねる。 「ねぇ、柏木さん」 「……なんやねん」 「好きです。……本気です」 耳元に落ちたその言葉に、体が一瞬で強張った。 心臓の音が、うるさすぎる。 「返事は今すぐじゃなくてもいいです。でも……」 何も言えずに立ち尽くす俺に、あいつは続ける。 「いつか、ちゃんと聞かせてほしいです」 「……会社で、そんなこと言うか普通」 「普通じゃない関係ですよね、もう」 「そういう問題じゃねえよ……!」 感情が爆発しそうで、声をあげてしまった。 ハッと我に返って、深く息をつく。 「……あー、マジで……なんで……」 「俺は、柏木さんに惚れてるからです」 「っ、おまえさぁ、」 「……あの夜の柏木さんの声、すごく好きですけど……」 「言うな!!」 振り向いたら、樹の目の奥がまっすぐ俺を見ていて、どこにも逃げ場がない。 「……キス、していいですか?」 「だめや」 一歩でも動けば、息がかかりそうな距離。 「じゃあ……ハグだけ」 「おい」 「だって、今日の柏木さんも、めちゃくちゃ色っぽい。俺、理性が……」 「黙れ!今すぐここから出ろ!」 「じゃあ柏木さんも一緒に出ましょうよ」 「ちげーよ!一人で反省しろ!」 叫ぶ俺をよそに、樹は小さく笑う。 そして、さっきとは違う、穏やかな声で囁いた。 「……また、会えますか?」 その声がやけに優しくて、反則だった。 俺は目を逸らす。 「……知らん。気が向いたらな」 「じゃあ、期待してます」 にっこり笑って、先に部屋を出ていく。 閉まるドアの向こうで、あいつの足音が遠ざかっていくのに、胸の鼓動だけはしばらく治まらなかった。 ……ったく、油断も隙もない。 なんなんだ、あいつ。気持ちが追いつかへん。 ――それでも。 ふと、“また会う夜”を想像してしまう自分がいて。 さっき触れられた背中の場所を、ずっと意識し続けてた。

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