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第24話 視察という名の落とし穴

朝から、妙に静かだと思った。 いや、オフィスのざわつきはいつも通りだ。会議の準備でバタつく声も、向こうの島から聞こえる雑談も。 だけど――俺のデスクの斜め向かい。そこだけがぽっかり空いていて、そこにいつもいた(いつき)の姿が見えない。 「……ああ、そうか。今日から出張か」 小さくつぶやいて、気づかれないようにため息を吐いた。 一昨日の夜、「行ってきます」って言ってたっけ。わざわざ俺の顔を見てから。 べつに……いなくても仕事は回る。 そう思って、PCに向き直る。……けど、書類を渡す相手がいつものようにいなくて、朝イチで来ていたはずのコーヒーの香りもしない。 些細なことがいちいち気になって、集中しきれない。 樹がいると、うるさいなと思う日もあった。やたら話しかけてきたり、くだらない冗談を言ったり。 でも今は、それがないだけで、妙に“間”が持たない。 昼になって、気晴らしに外に出ようとしたとき―― なんとなく、無意識でスマホのメッセージ画面を開いていた。 "調子はどうだ?" そう打ちかけて、指が止まる。 ――用もないのに送るのも変やな。 結局、そのまま画面を閉じた。 それでも、頭の片隅にはずっと、“今ごろ何してるんだか”なんて、らしくない言葉が居座っていた。 そんな折、会議室での企画会議。 空いた席の分を埋めるように、俺に向かって飛んできたのが、「非日常体験特集を組みたい」なんて話だった。 ――それ自体はまあ、わかる。 でも、なぜか俺が視察担当にされかけている。 「……ホストクラブに視察ですか?」 「そうそう。雰囲気とか料金とか、接客スタイルとか見てきて。若手社員向けの企画に使えそうなら、って話」 「いや、俺、接客業リサーチの担当じゃないんですけど」 小声で反論するも、部長は「よろしくな!」の一言で片づけた。 隣の吉田まで、「柏木が行った方が説得力あるっしょ? なんか、落ち着いてて“モテ”そうだし」とか、意味不明な理屈で背中を押してくる。 ……樹がいれば、こういうとき一言くらい助け舟を出してくれただろうか。 そう思っても、本人は今ごろ、地方で会場設営の立ち会い中。 逃げ場もないまま、なんとなく流されて―― 気づけば週末、ネオンが瞬く街の入り口に、俺は立っていた。 * 眩しいライト、香水の混ざった空気、耳に心地よくない笑い声。 店内に足を踏み入れた瞬間、反射的に身体が一歩引いた。 「いらっしゃいませー!」 「お足元、お気をつけて」 案内されたテーブルに腰を下ろすと、店長らしき男がシステムの説明をしてくる。 料金、時間、指名制……予想以上にシステムはしっかりしていて、安っぽさはない。 「では、こちらからお好きなホストをお選びください」 そう言って渡されたのは、タブレット端末。 何十人ものホストが並ぶプロフィールと写真。 ……多すぎる。いちいち見ていられない。 適当にスクロールして、目に留まった一人をタップした。深く考えずに。 それから、テーブルには入れ替わり立ち替わりホストがやってくる。 ほとんどテンプレートみたいな会話。 愛想がいいやつ、チャラいの、やたら距離が近いの―― どいつもこいつも似たような話しかしない。 視察だからと真面目に対応はしていたが、段々と感情のない相槌だけが口から漏れるようになっていた。 グラスを持つ手が、なんとなく重い。 ……まだ、何人目だ?そう思い始めた頃。 「初めまして――“蓮”です」 顔を上げた瞬間、俺は一瞬、時間が止まったような感覚に陥った。 ……なんだ、これ。 金髪。整った顔立ち。爽やかなイメージだが、凛とした口元。 それでいて、妙に柔らかい印象もある。 でも俺が凍りついたのは―― その顔が、どう見ても“瀬川 樹”にそっくりだったからだ。 いや、まさかな。あいつがこんな場所にいるはずはない。 「……蓮、って言った?」 「うん、蓮。レンって呼んで」 微笑んで、テーブル越しにすっと身を乗り出してくる。その動きに、一瞬目が離せなくなる。 距離が近い。だけど、不快じゃない。 (あいつ)に、こんな……“色気”はない。 似ている。でも全然、違う。 中身がまるで別人。わかってるのに、頭が混乱する。 「どうしたの? 緊張してる?」 蓮が、静かに問いかけてくる。 「……いや。ちょっと仕事の延長みたいなもんで」 「仕事?」 不思議そうに小首をかしげた蓮の視線が、俺の胸元を見た。 ネクタイとスーツ姿を、それとなく観察してるのがわかる。 「視察で来ただけだから。会社の企画で“非日常感のある場所”ってテーマで調べてて」 「ああ、なるほど。じゃあ……俺、しっかり“非日常”、感じさせないとね」 蓮は、少しだけ笑ってそう言った。その声が、妙に耳に残る。 ……ほんまに似てる。 「ねぇ、下の名前、教えてくれる?」 一瞬、自分に言われたと気づくのが遅れた。 ああ、俺か――と遅れて返す。 「……澄人」 「澄人くん、か」 蓮はふっと口元だけで笑った。どこか満足そうに。 「今日はいい夜になるといいね。俺としては、出会えてちょっと嬉しい」 どこまでも落ち着いていて、無理がない。 ホストって、もっとこう、テンション高めで押してくるもんかと思ってたけど……違う。 この人は、静かに、だけど確実に距離を詰めてくる。 俺はといえば、手に持ったグラスをただ支えてるだけで精一杯だった。 言葉も浮かばず、目線も泳ぐ。それなのに、蓮のことだけは不思議と目で追ってしまう。 「せっかくだし、楽しもうよ。俺も、澄人くんと話したいし」 「……距離詰めんの、うまいんだな」 気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。 「んー、どうだろ」 蓮は一拍置いて、俺の目をじっと見てくる。 「気になった人には、近づきたくなるの、当たり前じゃない?」 冗談めかして笑うくせに、目だけはふざけてなかった。 その温度に、また胸がざわつく。

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