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第30話 ゆらめく夜と揺れる心

食後、帰るには少し早い気がして、ふたりで街をぶらついていた。 ちょうどいい気温と風。すれ違う人の話し声も、今日はどこかやわらかい。 雑貨屋の前を通りかかったとき、澄人くんがふと立ち止まり、そのまま無言で店に入っていく。 後を追って入ると、彼は棚の前でしゃがみ込み、何かを手に取っていた。 「……どうしたの?」 「いや、別に」 澄人くんの手にあったのは、猫のイラストが描かれた、小さなハンドタオル。 「猫、好きなんだ。可愛いね」 そう言って微笑むと、澄人くんは少しだけ目をそらして答えた。 「うん……可愛……ちゃう、なんとなく目に入っただけやし」 その一言に、俺は思わず目を細める。 ――ん? ちゃう……? 「……関西弁?」 首を傾げると、ハッとした澄人くんが小さく肩をすくめた。 「……まあな」 「隠してた?」 「べつに、隠してるとかじゃ……」 口ごもる様子がちょっと面白くて、俺はさらに詰めるように顔を近づけた。 「ふーん。そういうの、素の感じが出てて好きだけどな」 「……からかうなって」 照れてるっぽいのが妙に可愛くて、つい笑ってしまう。その反応が見たくて、またちょっと意地悪を仕掛けたくなる。 「ねぇ、普段もそうやって喋ってくれたらいいのに」 「……知らん」 唇を尖らせてそっぽを向く姿に、俺はくすっと笑った。この人の、知らなかった顔がまたひとつ。 「そろそろ行くか」と立ち上がる澄人くん。 手にはしっかりとさっきのタオルを持ち、スタスタとレジの方に歩いていく背中を見ながら、つい小さく呟いた。 「……ほんと、ズルいな」 もちろん、聞こえないように、わざと少しだけ後ろを歩いて。 そのまま雑貨屋を出て、駅前の広場を歩いていると、ふらふらと足元のおぼつかない男が、澄人くんの方に近づいてきた。 「おにーさん、キレイだねえ」 澄人くんが軽く眉をひそめる。 「は……?」 「俺さ、そーいう顔、好みなんだよね。ちょっとだけ、相手してくんない?」 明らかに酔ってる。距離感も常識も吹っ飛んでて、顔をぐいっと近づけてくる様子に澄人くんが一歩引いた。 その瞬間、俺は無言でその間に割り込んだ。澄人くんの前に立ち、男をまっすぐ睨む。 「悪いけど、人のものに手ぇ出さないでくれる?」 低く抑えた声に、周囲の空気が一瞬ぴんと張りつめる。 「……あ? なんだよ、お前」 「彼氏です。この人の」 あえてさらっと言ってやると、澄人くんが小さく「はっ?」と息を呑んだのが横から聞こえた。 男の表情がわずかに引きつる。 「彼氏って……蓮、お前……」 俺はさらりと、澄人くんの手を取って自分の後ろに隠す。 「ほら、いいから。黙ってて」 男が睨んでくるのを、俺は薄く笑って受け流す。舌打ちとともに、そいつは立ち去った。 静かになった路地裏。ふたりきりになった途端、澄人くんが俺の手を振りほどいた。 「……“彼氏”って、なんだよ」 「言っといたほうが早いかなって。ああいうの、めんどくさいだろ?」 「でも……」 「ん?」 「……変な誤解される」 顔を逸らして言うその声に、俺はちょっとだけ意地悪く笑ってみせた。 「じゃあ……ほんとの彼氏だったら、よかった?」 一瞬、澄人くんの足が止まる。言葉も動きも、ぴたりと凍りついたみたいに。 「……そういうこと、冗談でも言うなって」 「ふーん。じゃあ、まんざらでもなかった?」 からかうように覗き込むと、顔をしかめながら澄人くんが前を向いて早足になる。 「助かったのは事実やけど、それとこれとは別」 後ろ姿に追いついて並ぶと、ふと小さな声が落ちてきた。 「……でもまぁ……ありがとうな」 そっぽを向いたまま、それでもちゃんと伝えてくるあたりが、ほんとに澄人くんらしい。 「ん、どういたしまして」 こんなふうに、ちょっとずつ踏み込んで――でも、無理はしない距離感。 ……今はそれが、悪くないと思った。 これって、どこまでが“仕事”で、どこからが“感情”なんだろう。 普段、客に向けて使ってる距離の詰め方、笑顔、気配り―― 今、それをまるごと自分が喰らってる感覚。 ただ、タチが悪いのは、澄人くんがそれを「計算」じゃなく「素」でやってることだ。 無防備で、天然で、ズルいくらい無自覚。 「……楽しかった、今日」 その声にふと目を向けたら、澄人くんがこっちを見て笑ってた。やわらかくて、ちょっと照れたような笑み。 「俺もさ、今日会えてよかったって思ってる。もっと、澄人くんのいろんな顔、見たくなった」 「……俺、そんなおもしろい人間ちゃうけどな」 当の本人は、こっちのざわつきなんてなにも気づいてない顔してんのがまた、腹立たしい。 「……もうこんな時間か」 澄人くんがスマホの画面を見て、ぼそっとつぶやいた。 まだ帰したくない。このまま終わるには、今日の空気が甘すぎる。 「……もし、まだ少しだけ時間あるなら……寄り道しない?」 「ん? 寄り道?」 不意を突かれたように、彼の眉が動く。 「うん。静かに話せるとこ。人目も気にせず、ゆっくりできる場所」 試すみたいに視線を合わせると、澄人くんはすぐに答えなかった。たぶん、迷ってるんだろう。 「……場所は任せる。澄人くんが、落ち着けるとこなら」 澄人くんの目が一瞬、俺を見てから外れた。 「んー……あっ! メイのご飯……」 「……は?」 メイ? ……誰? まさかの彼女か――と身構えた俺の横で、澄人くんはあっさり言った。 「猫。うちの」 ……え、猫? その一言で、頭の中で描きかけてた“メイ”像が一気に崩れた。 「……ああ、そっちか。びっくりした」 「なんでびっくりすんだよ」 「いや、」 “彼女かと思って焦りました”なんて言えない。 代わりに、わざとらしく口角を上げてみせる。 「じゃあ、そのメイちゃんに挨拶しに行ってもいい?」 「……は?」 澄人くんが不意を突かれたように目を丸くする。 「ご飯あげるついでに、ちょっとだけお邪魔します」 「……部屋、散らかってるけど」 「平気。部屋を見に行くわけじゃないから」 軽く笑ってそう言うと、澄人くんは小さく息を詰めて、視線をそらした。

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