30 / 64
第30話 ゆらめく夜と揺れる心
食後、帰るには少し早い気がして、ふたりで街をぶらついていた。
ちょうどいい気温と風。すれ違う人の話し声も、今日はどこかやわらかい。
雑貨屋の前を通りかかったとき、澄人くんがふと立ち止まり、そのまま無言で店に入っていく。
後を追って入ると、彼は棚の前でしゃがみ込み、何かを手に取っていた。
「……どうしたの?」
「いや、別に」
澄人くんの手にあったのは、猫のイラストが描かれた、小さなハンドタオル。
「猫、好きなんだ。可愛いね」
そう言って微笑むと、澄人くんは少しだけ目をそらして答えた。
「うん……可愛……ちゃう、なんとなく目に入っただけやし」
その一言に、俺は思わず目を細める。
――ん? ちゃう……?
「……関西弁?」
首を傾げると、ハッとした澄人くんが小さく肩をすくめた。
「……まあな」
「隠してた?」
「べつに、隠してるとかじゃ……」
口ごもる様子がちょっと面白くて、俺はさらに詰めるように顔を近づけた。
「ふーん。そういうの、素の感じが出てて好きだけどな」
「……からかうなって」
照れてるっぽいのが妙に可愛くて、つい笑ってしまう。その反応が見たくて、またちょっと意地悪を仕掛けたくなる。
「ねぇ、普段もそうやって喋ってくれたらいいのに」
「……知らん」
唇を尖らせてそっぽを向く姿に、俺はくすっと笑った。この人の、知らなかった顔がまたひとつ。
「そろそろ行くか」と立ち上がる澄人くん。
手にはしっかりとさっきのタオルを持ち、スタスタとレジの方に歩いていく背中を見ながら、つい小さく呟いた。
「……ほんと、ズルいな」
もちろん、聞こえないように、わざと少しだけ後ろを歩いて。
そのまま雑貨屋を出て、駅前の広場を歩いていると、ふらふらと足元のおぼつかない男が、澄人くんの方に近づいてきた。
「おにーさん、キレイだねえ」
澄人くんが軽く眉をひそめる。
「は……?」
「俺さ、そーいう顔、好みなんだよね。ちょっとだけ、相手してくんない?」
明らかに酔ってる。距離感も常識も吹っ飛んでて、顔をぐいっと近づけてくる様子に澄人くんが一歩引いた。
その瞬間、俺は無言でその間に割り込んだ。澄人くんの前に立ち、男をまっすぐ睨む。
「悪いけど、人のものに手ぇ出さないでくれる?」
低く抑えた声に、周囲の空気が一瞬ぴんと張りつめる。
「……あ? なんだよ、お前」
「彼氏です。この人の」
あえてさらっと言ってやると、澄人くんが小さく「はっ?」と息を呑んだのが横から聞こえた。
男の表情がわずかに引きつる。
「彼氏って……蓮、お前……」
俺はさらりと、澄人くんの手を取って自分の後ろに隠す。
「ほら、いいから。黙ってて」
男が睨んでくるのを、俺は薄く笑って受け流す。舌打ちとともに、そいつは立ち去った。
静かになった路地裏。ふたりきりになった途端、澄人くんが俺の手を振りほどいた。
「……“彼氏”って、なんだよ」
「言っといたほうが早いかなって。ああいうの、めんどくさいだろ?」
「でも……」
「ん?」
「……変な誤解される」
顔を逸らして言うその声に、俺はちょっとだけ意地悪く笑ってみせた。
「じゃあ……ほんとの彼氏だったら、よかった?」
一瞬、澄人くんの足が止まる。言葉も動きも、ぴたりと凍りついたみたいに。
「……そういうこと、冗談でも言うなって」
「ふーん。じゃあ、まんざらでもなかった?」
からかうように覗き込むと、顔をしかめながら澄人くんが前を向いて早足になる。
「助かったのは事実やけど、それとこれとは別」
後ろ姿に追いついて並ぶと、ふと小さな声が落ちてきた。
「……でもまぁ……ありがとうな」
そっぽを向いたまま、それでもちゃんと伝えてくるあたりが、ほんとに澄人くんらしい。
「ん、どういたしまして」
こんなふうに、ちょっとずつ踏み込んで――でも、無理はしない距離感。
……今はそれが、悪くないと思った。
これって、どこまでが“仕事”で、どこからが“感情”なんだろう。
普段、客に向けて使ってる距離の詰め方、笑顔、気配り――
今、それをまるごと自分が喰らってる感覚。
ただ、タチが悪いのは、澄人くんがそれを「計算」じゃなく「素」でやってることだ。
無防備で、天然で、ズルいくらい無自覚。
「……楽しかった、今日」
その声にふと目を向けたら、澄人くんがこっちを見て笑ってた。やわらかくて、ちょっと照れたような笑み。
「俺もさ、今日会えてよかったって思ってる。もっと、澄人くんのいろんな顔、見たくなった」
「……俺、そんなおもしろい人間ちゃうけどな」
当の本人は、こっちのざわつきなんてなにも気づいてない顔してんのがまた、腹立たしい。
「……もうこんな時間か」
澄人くんがスマホの画面を見て、ぼそっとつぶやいた。
まだ帰したくない。このまま終わるには、今日の空気が甘すぎる。
「……もし、まだ少しだけ時間あるなら……寄り道しない?」
「ん? 寄り道?」
不意を突かれたように、彼の眉が動く。
「うん。静かに話せるとこ。人目も気にせず、ゆっくりできる場所」
試すみたいに視線を合わせると、澄人くんはすぐに答えなかった。たぶん、迷ってるんだろう。
「……場所は任せる。澄人くんが、落ち着けるとこなら」
澄人くんの目が一瞬、俺を見てから外れた。
「んー……あっ! メイのご飯……」
「……は?」
メイ? ……誰?
まさかの彼女か――と身構えた俺の横で、澄人くんはあっさり言った。
「猫。うちの」
……え、猫?
その一言で、頭の中で描きかけてた“メイ”像が一気に崩れた。
「……ああ、そっちか。びっくりした」
「なんでびっくりすんだよ」
「いや、」
“彼女かと思って焦りました”なんて言えない。
代わりに、わざとらしく口角を上げてみせる。
「じゃあ、そのメイちゃんに挨拶しに行ってもいい?」
「……は?」
澄人くんが不意を突かれたように目を丸くする。
「ご飯あげるついでに、ちょっとだけお邪魔します」
「……部屋、散らかってるけど」
「平気。部屋を見に行くわけじゃないから」
軽く笑ってそう言うと、澄人くんは小さく息を詰めて、視線をそらした。
ともだちにシェアしよう!

