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第31話 猫が懐いた夜、君も俺に
澄人くんが立ち止まり、鍵を取り出す。
「……ここ」
扉を開ける仕草にも無駄がなくて、いつも通りの淡々とした横顔。
「おじゃまします」
返事は小さな「……ああ」だけ。
玄関に踏み入ると、ふわりと柔らかい匂いが鼻をかすめた。
「適当に座って休んでて。メイにご飯あげるし」
そう言って奥に消えていった澄人くんの背中を見送る。
ソファーに腰を下ろした俺は、何気なく周囲を眺めながら、ゆっくり深呼吸する。
――正直、ここに来るまでは、もっと軽いノリでいいと思ってた。
澄人くんは好みのタイプだから、大事にはしつつ適度な距離感のまま、遊び相手にしようと思ってた。
でも。
澄人くんのことを知れば知るほど、なぜか心がざわつく。
ハンガーに掛けられたスーツ、棚にさりげなく置かれた、写真入りの小さなフレーム。
フローリングの一角にある猫柄クッション。
それを見てるうちに、胸の奥にうっすら残っていた“遊び”の気持ちが、少しずつ崩れていく。
……その時、小さな白い影がソファーの下にさっと滑り込んだ。
「……ん?」
しゃがみこんだ俺の視線に、白くてふわふわした毛並みに、まんまるの目。
けれどその目は警戒の色を帯びていて――
「メイ。ほら、飯やぞ。出ておいで」
澄人くんが優しく声をかけるも、メイは微動だにせず、奥に潜ったまま。
「へえ……警戒心、強いんだね」
「他人が家に来たら、だいたいこんなもん。……こいつ、俺以外ほとんど懐かねぇし」
「ふーん。……じゃあ、試してみていい?」
澄人くんが「無理だろ」と言いかけたその時には、もう俺はゆっくりとソファーの脇に手を差し入れていた。
「……大丈夫だから、出ておいで。なにも取って食おうってわけじゃないから」
無理に触れようとはせず、ただ手のひらを見せて、指先で床を優しく叩く。
数秒の沈黙。
そして――
メイが、ぴょこんと顔を出した。
「かわいいね。……怖がんないで。ほら、おいで」
低めの声でそっと呼びかけると、メイは小さく鳴いてから、しばらく躊躇したあとで……前足を一歩、踏み出す。
「あ、来た」
「……嘘だろ」
澄人くんが思わず口をつく。
メイは足元に近づいてきて、俺の指先に鼻を寄せた。
「いい子。けっこう素直じゃん」
「……いや、それにしても……」
メイはそのまま小さく喉を鳴らした。
その様子をぽかんと見ていた澄人くんが、ぼそっと呟く。
「珍しいな。メイ、蓮のこと気に入ったんか……」
「俺、動物には好かれるんだよね」
「……じゃあ人間には?」
「んー、それは努力次第かな?」
俺は肩をすくめながら、ゆっくりと笑う。
「澄人くん、早くメイちゃんにご飯あげなきゃダメじゃん」
「ああ」
澄人くんはメイにご飯をあげてソファーの端に座った。ほんの少し、俺との距離をあけたままで。
「ねぇ、澄人くん」
「……なんだよ」
「猫に懐かれるのも悪くないけど――俺は、澄人くんに懐かれるほうが嬉しいかも」
「……なに言ってんだ」
途端に背中がぴしっと固まる。それを見て、俺は思わず小さく笑った。
メイの前で、そう簡単に可愛い顔は見せてくれないかもしれないけど――
それでもきっと、少しずつ、俺のものに。
「蓮、飲み物、何かいる?コーヒーとお茶くらいしかねえけど」
「じゃあ、コーヒーで」
澄人くんがキッチンに立ち、コーヒーを淹れる。その背中を見ながら、ふと思う。
生活感はあるのに、無駄なものはない整った空間。
……もしかして、誰かが来ることも考えて整えてるんだろうか。それはあんまり想像したくない。
「はい、コーヒー」
「ありがとう。ねぇ、澄人くん」
「何……?」
澄人くんが目を細めて、俺を一瞥する。
「聞いてなかったけど、澄人くんの好みとかタイプは? 相手は誰でもいいってわけじゃないよね?」
そう訊くと、少し間を置いて、澄人くんはソファーにもたれながら考え込む。
「……顔立ちで惹かれることはたまにある。まあ、中身がちゃんとしてたら、なお良しって感じだけどな」
「へえ、意外と本能派なんだ」
「そっちは?」
「んー……俺はね、真面目で常識がある人が好きだな。無駄に愛想は良くなくていい。あと、顔も良ければ最高」
「……結構細かいな」
そう言った澄人くんに、俺はさらっと言ってやる。
「タイプとしては、澄人くんなんだけど」
「……ん? 俺?」
「そう。澄人くんみたいな人、ど真ん中」
「……俺か……」
完全に思考止まってる顔が、正直かわいい。
「例えば、だけどね。エリートで、クールで、真面目な男がさ。俺の前で全部さらけ出して、ベッドでは乱れて善がんの、めちゃくちゃ興奮するんだよね」
「いや、俺は……そんなふうには、ならねえけど……」
目を逸らしながら、声のトーンが一段落ちた。
俺は笑って、ひと言。
「じゃあ、試してみる?」
ソファーに並んで座っていた澄人くんの手を、そっと掴んで引き寄せた。
「な……」
「ちょっと、こっち向いて?」
澄人くんの顔をじっと見つめると、途端に視線を逸らして、片方の手の甲で口元を覆った。もう片方の手は俺の肩を押してくるけど、力は弱い。
「ちょ……近寄んな」
「……なんかその言い方、微妙なんだけど」
「お前、やばいんやってば……」
「やばいって、何が?」
わざと揺さぶるように言うと、澄人くんはますます困ったように眉を寄せて、俺の胸を見ながら言った。
「……ドキドキするから、あんまり見つめてくんなや……」
――あぁ、今、ちゃんと「ドキドキする」って言った。
その言葉が、火を点ける。心の奥にある欲が、ぐつぐつと熱を帯びてくる。
「……そんなの、言われたらもっと見たくなるでしょ」
澄人くんのエロい声が聞きたい。
我慢しながらも感じちゃって、堪えきれずに喘いでくれる――そんな姿、たまんない。
ぐちゃぐちゃになって、「やめろ」って言いながらも、全然止める気ない声を、俺だけに聞かせてほしい。
「さっきからずっと思ってたんだけど、澄人くん可愛くてさ。今、めちゃくちゃ触りたい気分なんだよね」
そう言って、片腕をソファーの背にまわし、身体をぐっと近づけた。
澄人くんの肩がわずかにこわばる。けど、逃げない。
「……近いって」
「じゃあ、押し返せばいい」
「っ……」
「……できない?」
声を落として耳元に囁く。澄人くんが小さく息をのんだのが、すぐそばで感じられた。
「な、に……」
「……唇、触っていい?」
「っ、だから、ダメだって……!」
でも、声が弱い。それを確認したうえで、俺はぐっと顔を近づける。
ほんの数センチ、キスする寸前の距離。
「澄人くん……可愛すぎる」
囁くように言って、そこでぴたりと止まった。
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