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第35話 静かに仕掛けられた恋
side 柏木 澄人
朝の光がカーテン越しに差し込んで、目が覚めた。
昨夜の出来事が一瞬、夢だったんじゃないかと思ったけど――裸の肩にかかった布団と、首筋に残る微かな熱が、それを現実に引き戻した。
「……最悪やな」
ぽつりと漏らした独り言に反応するように、ベッドの脇で丸くなっていたメイが体を伸ばし、にゃあと小さく鳴いた。
耳に届く、カップを置く音。
視線を向けると、蓮がキッチンでコーヒーを淹れている。
あの余裕のある立ち姿がすべてを物語っていた。
……昨夜のことなんて、まるで日常の延長。気にしているのは、たぶん、俺だけ。
重たい体を引きずるようにしてベッドを出た。
リビングに向かい、メイの皿にカリカリを入れ、水も新しくしてやる。
「ほら」
そう声をかけると、メイはちらりとこちらを見上げただけで、いつも通りのテンポで餌に口をつけ始めた。
背後から聞こえてくる蓮の足音に、妙な緊張だけがまた胸に湧き上がる。
蓮はマグカップを片手に、ソファーに腰を下ろした。片足をゆるく組みながら、どこか穏やかな目でこちらを見る。
「おはよう、澄人くん」
落ち着いた声に、少し笑みを含んだ言い方。
からかいでもなく、けれど飄々とした空気は相変わらずで――なんだか調子が狂う。
「……お前のせいで寝不足」
そうぼやくと、蓮はマグを唇に当てたまま、目を細める。
「ん……でも、気持ちよさそうだったよ?」
「は!?……おまっ……」
「……ごめん、冗談」
苦笑いとともにそう付け加えた蓮の声は、どこか優しくて、悪びれてる風でもないけど、からかいの熱が少し引いていた。
蓮はふっと笑って、コーヒーを一口。
その横顔が妙に穏やかで――俺は、なぜか視線を逸らしてしまう。
リビングに、静けさが降りる。カップを置く音、時計の秒針。
コーヒーの香りと、少しだけ甘ったるい空気だけが残っていた。
「……そろそろ帰るね」
そう言って、蓮は静かに立ち上がり、飲み終えたマグカップを手にキッチンへ向かった。
俺はなんとなく、玄関の前で立ち尽くしていた。
蓮が靴を履き終え、ドアに手をかけたとき――ふいに振り返り、ふっと目を細める。
「……澄人くん」
「何……」
「本気になったかも。ちゃんと落とすから、覚悟してて」
いたずらっぽい笑みを残して、蓮はさっさと出ていく。
閉まるドアの音が、妙に耳に残る。
*
蓮が帰ったあとの部屋は、やけに静かだった。
気づけばメイが足元に寄ってきて、俺はその背を撫でながら抱き上げる。
「……なぁ、メイ。あいつさ……どういうつもりなんやろな」
メイは何も答えず、俺の腕の中で小さく丸まるだけ。
こんなふうに想われるなんて、正直、思ってもみなかった。
「……変な奴やな、ほんま」
口に出してみても、胸の奥はざわざわしたまま。
俺は小さくため息をついて、スマホを取りにベッドに戻った。
そこに立った瞬間、昨夜の光景がふいにフラッシュバックする。
――蓮の手が、俺の腰にまわってきた感触。
指先が肌をなぞり、熱を帯びた吐息が耳元に落ちる。
"……ほんと、可愛いね"
低くささやく声に、思わず声が漏れた。
自分でも驚くような甘い声を出してしまって、恥ずかしさに目を逸らしたのを、蓮は見逃さなかった。
"声、もっと聞かせて。……全部、俺だけに"
焦らされて、煽られて、ろくに反論もできないまま、気持ちよくさせられて――
「……っ、やば……」
思わず、ベッドの縁に腰を下ろして、額を手で覆った。
そして思い出したのは、ちょうどその最中――というか、どっぷり浸かってたところに、不意打ちのスマホの着信。画面を見て……固まった俺。
――樹、だった。
しかも、蓮がこっちの反応を見逃すはずがなくて。
蓮の腕の中でもがく俺を、面白がってるのか、まったく離そうとしなかった。
蓮と樹は、声も顔もよく似てる。
穏やかで、ちょっと間の抜けたような柔らかさも、雰囲気も。
でも――違う。
蓮はどこかクールで、少し距離を置いてくる。
目つきは鋭くて、油断すると心の奥まで覗き込まれそうになる。
あの静かな熱に、ふっと引き寄せられる瞬間がある。
無防備なとこなんて見せたら、きっと、全部持っていかれる。
けど――優しい。あれは、たぶん“踏み込まない”ための優しさなんやろな。
あいつなりの、線の引き方。
……樹は、真逆だ。
ストレートで、感情が顔に出るタイプで、犬みたいに懐っこい。
遠慮がなくて、まっすぐで。でも、それが妙に安心する。
蓮のキスは静かに深くて、感情を隠してくる。
触れているのに、どこか遠くを見ているような――それでいて、油断したら足元をすくわれそうな熱がある。
樹のそれは、あったかくて、感情そのまま乗せてくる。
触れたい、好きだって、全部が真っ直ぐで、わかりやすい。
どっちがいいとか、そんな単純な話じゃない。
ただ――蓮は、こっちの心を探ろうとするけど、樹はまるごと信じてくる。
ぼんやりとそんなことを思いながら、視線を落とすと、シーツはすでに外され洗濯に出されたあとだった。
「……律儀なやつ」
使ったローションのボトルと、避妊具のパッケージも、ちゃんと片隅にまとめられていた。
……気づいてたよな。
俺が最初から置いてたってことも。
使った痕跡があるってことも。つまり、相手がいたってことも。
……どう思ったんだろう。
ひいたか?
それとも、最初から――こうなること、狙ってたのか。
あいつなら……ありえそうで、でも。
「本気、って……言ってたな」
ぽつりと独り言を落としながら、腕の中のメイに顔を寄せる。
白い毛並みにそっと指を這わせると、メイは喉を鳴らしながら、胸元に顔をすりつけてくる。
その温もりに少しだけ気が緩んで、また思い出す。
――蓮の、あの余裕のある笑みと、最後に残した言葉。
"ちゃんと落とすから、覚悟してて"
……そんな簡単に落ちるわけ、ない。
そう思ったはずなのに――ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。
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