36 / 64

第36話 あいつが帰ってくるから

出勤前、洗面台の鏡越しにぼんやり自分の顔を見ながら、歯を磨いていたときだった。 ふと目に入ったのは、キッチン脇のメイのごはん皿。 「……そろそろ、ストック切れそうやったな」 今日は仕事帰りに、忘れず買って帰ろう。 リビングの隅では、メイがいつものクッションで丸くなっていた。呼んでもいないのに、こちらをちらっと見て、眠たげに尻尾だけゆるく一振り。 まるで「ちゃんと頼むね」とでも言いたげで、つい口元が緩んだ。 鏡の中の自分を見つめ直す。 髪は……まあ、許容範囲。シャツは、今日こそノータイでいいか。 なんとなく肩を回して、深くひとつ息を吐く。 一昨日の夜のことが、まだ頭の奥にじんわり残っていた。 遊びとわかってても、妙に引っかかる蓮のあの目線。 夜の店での顔と、ふとした瞬間の素の顔が、脳裏に貼りついて離れない。 「……何考えてんだか」 自嘲気味に呟いて、口をゆすいだあと、洗面所の電気をぱちんと消した。 リビングに戻ると、メイはすっかり寝落ちていた。 小さな体を丸めて、気持ちよさそうに鼻をぴくりと動かしている。 「おまえはいいな。なんも迷いがなくて」 その背中を優しくひと撫でしてから、カバンを肩にかけて玄関へ向かった。 * 仕事帰り、少し遠回りして馴染みのペットショップに立ち寄った。 メイが好きなチキン味。それから、最近やけに食いつきがよかったサーモン入りのパウチも、棚から取り上げてカゴに入れる。 会計を済ませて店を出たタイミングで、スマホが震えた。 画面に浮かんだのは、瀬川 樹からのメッセージ。 "イベント、無事に終わりました! 明日そっちに戻ります。 夜、会いに行ってもいいですか?" その文面を見た瞬間、胸の奥に小さな灯がともる。 「よく頑張ったな」って、頭でも撫でてやりたくなるような気持ち。 ……こいつのことだから、どうせ俺が断らないのをわかってて送ってきてる。 けど、それでもちゃんと「行ってもいいか」って聞いてくるあたりが、樹らしい。 ふっと笑って、スマホをポケットに戻した。 明日は土曜か。ちゃんと飯でも作ってやるかな。 そのまま近くのスーパーに寄って、食材の棚をひと通り見て回る。 「何が食べたい?」って訊いたところで、たぶん「なんでも嬉しいです」って返ってくるのは目に見えてる。 だから、悩んだ末に合挽き肉と玉ねぎを手に取った。 煮込みハンバーグにでもするか。 きっと、あいつは笑いながら「甘めの味つけですね」って言う。 ……俺も、もう少しわかりやすく好意を出せればいいんやろけどな。 そう思いながら、レジ袋を片手に帰路についた。 部屋の鍵を開けると、玄関までのそのそとメイが出迎えに来た。 「ただいま」 荷物を置き、買ってきた餌の袋をカサカサと振ると、メイの耳がぴくりと動いて、皿の前までついてくる。 「ほら、お前の好きなやつ。今日は特別な」 パウチを開けて皿に移すと、メイは待ちきれないように顔を寄せて、すぐに食べ始めた。 喉を小さく鳴らしながら夢中で食べるその音に、可愛いなと頬が緩む。 俺はソファに沈み込み、スマホを取り出して、さっき届いたメッセージに返信を打つ。 "気をつけて帰ってこい。 明日は晩飯、用意しとく" 送信ボタンを押して、画面を見つめたまましばらく指を止めた。 「……なんか、俺、めちゃくちゃ待ってるよな」 ぽつりとこぼすと、足元のメイがこちらを見上げた。 まるで「だから、何?」とでも言いたげな無言の目線に、思わずふっと笑ってしまう。 *** 翌朝。ゆっくりシャワーを浴びたあと、湿った髪をタオルでざっと拭いて洗面台の前に立つ。 鏡に映る自分の顔が、どこかぼんやりしていて、ちょっとだけ気が抜けて見えた。 スマホを手に取ると、メッセージの通知が一件。 "思ったより早く帰れたので、すぐそちらに向かいます。 早く会いたいです" ぽつんと表示されたその文面に、思わず鼻で笑う。 「……何言ってんだよ、ばーか」 口ではそう言いながらも、スマホを伏せる手は、ほんの少しゆるんでいた。 キッチンでエプロンを取り出して、玉ねぎを刻む。 合挽き肉に塩を振って、冷蔵庫から卵を出す。 手際よく進めながらも、頭の片隅ではずっと――あいつの顔がちらついてる。 イベントが終わって、疲れてるはずやのに、「会いに行ってもいいですか」なんて。 俺のことを、ただの「恋人未満」として扱ってるわけじゃない。 煮込み用のソースがくつくつと煮えはじめて、部屋にやさしい香りが広がるころ。 スマホが震えた。 また樹だろうか――そう思って画面をのぞくと、表示されていた名前は、「蓮」だった。 "近くまで来てるんだけど。顔、見ていい?" 心臓が、ドクン、と音を立てた。 なんで、今――。 指が、返信ボタンに触れたまま、止まる。 次の瞬間、インターホンが鳴った。 俺は小さく眉を寄せて、スマホから顔を上げる。 「……タイミング、最悪やな」

ともだちにシェアしよう!