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第36話 あいつが帰ってくるから
出勤前、洗面台の鏡越しにぼんやり自分の顔を見ながら、歯を磨いていたときだった。
ふと目に入ったのは、キッチン脇のメイのごはん皿。
「……そろそろ、ストック切れそうやったな」
今日は仕事帰りに、忘れず買って帰ろう。
リビングの隅では、メイがいつものクッションで丸くなっていた。呼んでもいないのに、こちらをちらっと見て、眠たげに尻尾だけゆるく一振り。
まるで「ちゃんと頼むね」とでも言いたげで、つい口元が緩んだ。
鏡の中の自分を見つめ直す。
髪は……まあ、許容範囲。シャツは、今日こそノータイでいいか。
なんとなく肩を回して、深くひとつ息を吐く。
一昨日の夜のことが、まだ頭の奥にじんわり残っていた。
遊びとわかってても、妙に引っかかる蓮のあの目線。
夜の店での顔と、ふとした瞬間の素の顔が、脳裏に貼りついて離れない。
「……何考えてんだか」
自嘲気味に呟いて、口をゆすいだあと、洗面所の電気をぱちんと消した。
リビングに戻ると、メイはすっかり寝落ちていた。
小さな体を丸めて、気持ちよさそうに鼻をぴくりと動かしている。
「おまえはいいな。なんも迷いがなくて」
その背中を優しくひと撫でしてから、カバンを肩にかけて玄関へ向かった。
*
仕事帰り、少し遠回りして馴染みのペットショップに立ち寄った。
メイが好きなチキン味。それから、最近やけに食いつきがよかったサーモン入りのパウチも、棚から取り上げてカゴに入れる。
会計を済ませて店を出たタイミングで、スマホが震えた。
画面に浮かんだのは、瀬川 樹からのメッセージ。
"イベント、無事に終わりました!
明日そっちに戻ります。
夜、会いに行ってもいいですか?"
その文面を見た瞬間、胸の奥に小さな灯がともる。
「よく頑張ったな」って、頭でも撫でてやりたくなるような気持ち。
……こいつのことだから、どうせ俺が断らないのをわかってて送ってきてる。
けど、それでもちゃんと「行ってもいいか」って聞いてくるあたりが、樹らしい。
ふっと笑って、スマホをポケットに戻した。
明日は土曜か。ちゃんと飯でも作ってやるかな。
そのまま近くのスーパーに寄って、食材の棚をひと通り見て回る。
「何が食べたい?」って訊いたところで、たぶん「なんでも嬉しいです」って返ってくるのは目に見えてる。
だから、悩んだ末に合挽き肉と玉ねぎを手に取った。
煮込みハンバーグにでもするか。
きっと、あいつは笑いながら「甘めの味つけですね」って言う。
……俺も、もう少しわかりやすく好意を出せればいいんやろけどな。
そう思いながら、レジ袋を片手に帰路についた。
部屋の鍵を開けると、玄関までのそのそとメイが出迎えに来た。
「ただいま」
荷物を置き、買ってきた餌の袋をカサカサと振ると、メイの耳がぴくりと動いて、皿の前までついてくる。
「ほら、お前の好きなやつ。今日は特別な」
パウチを開けて皿に移すと、メイは待ちきれないように顔を寄せて、すぐに食べ始めた。
喉を小さく鳴らしながら夢中で食べるその音に、可愛いなと頬が緩む。
俺はソファに沈み込み、スマホを取り出して、さっき届いたメッセージに返信を打つ。
"気をつけて帰ってこい。
明日は晩飯、用意しとく"
送信ボタンを押して、画面を見つめたまましばらく指を止めた。
「……なんか、俺、めちゃくちゃ待ってるよな」
ぽつりとこぼすと、足元のメイがこちらを見上げた。
まるで「だから、何?」とでも言いたげな無言の目線に、思わずふっと笑ってしまう。
***
翌朝。ゆっくりシャワーを浴びたあと、湿った髪をタオルでざっと拭いて洗面台の前に立つ。
鏡に映る自分の顔が、どこかぼんやりしていて、ちょっとだけ気が抜けて見えた。
スマホを手に取ると、メッセージの通知が一件。
"思ったより早く帰れたので、すぐそちらに向かいます。
早く会いたいです"
ぽつんと表示されたその文面に、思わず鼻で笑う。
「……何言ってんだよ、ばーか」
口ではそう言いながらも、スマホを伏せる手は、ほんの少しゆるんでいた。
キッチンでエプロンを取り出して、玉ねぎを刻む。
合挽き肉に塩を振って、冷蔵庫から卵を出す。
手際よく進めながらも、頭の片隅ではずっと――あいつの顔がちらついてる。
イベントが終わって、疲れてるはずやのに、「会いに行ってもいいですか」なんて。
俺のことを、ただの「恋人未満」として扱ってるわけじゃない。
煮込み用のソースがくつくつと煮えはじめて、部屋にやさしい香りが広がるころ。
スマホが震えた。
また樹だろうか――そう思って画面をのぞくと、表示されていた名前は、「蓮」だった。
"近くまで来てるんだけど。顔、見ていい?"
心臓が、ドクン、と音を立てた。
なんで、今――。
指が、返信ボタンに触れたまま、止まる。
次の瞬間、インターホンが鳴った。
俺は小さく眉を寄せて、スマホから顔を上げる。
「……タイミング、最悪やな」
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