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第37話 重なる影、ふたつの温度
インターホンが鳴って、少し躊躇う。
ドアを開けた瞬間、ふわりと香水の匂いが鼻先をかすめた。
廊下に立っていたのは、当然のような顔をした蓮。
黒の細身のスラックスに、グレーのシャツを軽く胸元まで開けて、手にはスマホと見覚えのある洋菓子店の小さな紙袋。
……あの店は、猫モチーフの焼き菓子で人気の店だ。まさか、それを選んでくるとは。
「……蓮か」
俺がそう言うと、蓮は軽く笑って片眉を上げた。
「はい、お土産」
蓮が紙袋を差し出してくる。
「……あぁ、ありがとな」
俺がそう返すと、蓮はふっと息を抜いてから言った。
「ちょっとだけ。入っていい?」
袋を受け取り、言葉の代わりに一歩横にずれる。
蓮はまるで慣れた部屋のように足を踏み入れ、自然な仕草で中を見渡した。
「メイ、久しぶり」
蓮が呼びかけると、ソファーの下で丸くなっていたメイが、ちらりと顔を上げた。
しばらく蓮をじっと見つめてから、すんすんと鼻を鳴らし、ゆっくりと近づいてくる。
「いい子だね。ちゃんと覚えてたんだ」
蓮はしゃがみ込むと、そっと手を差し出す。メイは少し警戒するように鼻を寄せて、それから、控えめに頭をすり寄せた。
「……急に来るなんて、どうしたんだよ」
つい棘が混じる声になる。けど、蓮はそれをさらりと受け流した。
「んー……澄人くんの顔、ちょっと見たくなっただけ」
軽い調子。なのに、その言葉だけで胸の奥がわずかに揺れる。
本気か、冗談か。――やっぱり、わかりづらい。
「……いい匂い。誰か来る予定?」
視線はすでにテーブルの上。
――気づくの、早いな。やっぱり蓮は鋭い。
「……いや、」
「そっか。てっきり誰かを待ってるのかと思った」
声のトーンはいつも通り。でも、なんか妙にひっかかる。
笑ってるようで、目は笑ってなかった。
軽く流したように見せてるくせに、微妙に間があった。
――ああ、やっぱり、こいつは勘がいい。
たぶん、蓮は口よりも目で語るタイプだ。
言葉じゃ何も言ってないのに、目の奥にいちいち残る。
「蓮、今から出勤だろ。間に合うんかよ」
「あと10分だけ。……澄人くんの顔見て、キスして、それで今日も頑張れる」
「……は? お前な……」
蓮は俺をじっと見て、目を細めた。
「髪、ちょっと濡れてる。シャワー上がり?」
そう言って、口元だけで笑う。
「……色っぽいね」
「言い方がやらしいんだよ」
思わず目を逸らした俺に、蓮はさらっと返す。
「本音だよ」
そのまま、こっちの反応を楽しむみたいに、ゆっくりと距離を詰めてきた。
「キス、してもいい?」
「……時間、ないんじゃなかったっけ」
「まだ8分あるから」
蓮は俺の顔を覗き込んで、そっと笑った。
「……8分で、今日の分の甘いの、ぜんぶチャージするよ」
そう言った蓮は、一歩だけ距離を詰めてきて、俺の頬に手を添えた。
皮膚に触れるその手が、あたたかくて柔らかい。
何かを言う間もなく、唇が触れた。
「ちゃんと、落とすって言ったよね?」
囁くようにそう言った蓮が笑うと、あまりに綺麗で――
一瞬、何も言えなくなった。
「じゃ、行くね」
蓮はすっと離れ、軽く手を上げてから玄関へ向かい、ドアを開けた。
「またね、澄人くん」
なんでもないみたいに言って、軽く笑って出ていった。
「……頑張れよ」
自然にそう言葉が出た自分に驚きながらも、閉まるドアを見送った。
……落ち着け、俺。
今、もうひとり来る予定のやつがいる。
スマホの画面には、数分前の樹からの「向かってます」のメッセージ。
重なっててもおかしくなかったんだ、今のタイミング。
蓮と樹。あの二人が、もし鉢合わせたら――どんな空気になるんだろう。
……いや、あれだけ似てんだ。どこかで会っててもおかしくはない。
というか、あの二人――
似すぎてる。
「……まさかな」
わかってる。そんな都合よく、全部が重なるなんて。でも、偶然ってのは、時に笑えないタイミングで訪れる。
でも、もし……
「……っ」
背中がひやりとした。嫌な汗が、じわりと浮いてくる。
何も起きてないのに、なんでこんなにドキドキしてんだ、俺。
気づけば、メイが足元に寄ってきて、尻尾で俺の足を軽く撫でていった。
メイが何かを知ってるわけでもないのに、そうぼやいた声が、部屋の空気に溶けていった。
*
玄関のインターホンがもう一度鳴った。
少し深呼吸して、俺はドアノブに手をかける。
「柏木さん、こんばんは」
開けた瞬間、明るい声と一緒に、樹が満面の笑みで立っていた。白のシャツにラフなデニム、肩から下げたバッグに、紙袋を片手に持って。
「入ってもいいですか?」
「……ああ」
「あ、これ買ってきました。ショートケーキと、あと季節のタルト」
そう言って差し出された紙袋には、駅前のケーキ屋のロゴ。
さっき蓮が持ってたやつとは別の店。でも、なぜか――タイミングが、妙に重なる。
「……ありがとな」
「いえいえ、せっかくですから。では、お邪魔します」
樹は部屋に上がると、きょろきょろと周囲を見渡す。
ソファーの下に潜む影に気づいて、しゃがみ込んだ。
「……あ、いた。メイちゃん」
そう言ってしゃがみこんだ樹の手が、そっと伸びる。
けれど、メイはするりとソファの奥に引っ込んでしまった。
「うわ、今日もダメか……」
小さく肩を落としながら、ちらっと俺の顔を見上げてくる。
「やっぱ俺には全然懐いてくれませんね」
ため息混じりに立ち上がった樹が、ちょっと拗ねたように笑った。
「メイにも柏木さんにも冷たくされて、俺かわいそうじゃないですか?」
「……は?」
「あはは、冗談ですよ」
そう言って笑う樹を見ながら、俺はキッチンに向かった。
「何か手伝いましょうか?」
「……いや、座っとけ。すぐ飯の用意するから」
「じゃ、遠慮なく」
樹の顔を見ると思い出してしまう。
……あの声と、ふわっとした香水の匂い。
ついさっきまでこの空間にいた、もう一人の存在。
――知られたら、どうなるんだろうな。
背中を向けたまま、そう思って、無意識に息を止めていた。
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