37 / 64

第37話 重なる影、ふたつの温度

インターホンが鳴って、少し躊躇う。 ドアを開けた瞬間、ふわりと香水の匂いが鼻先をかすめた。 廊下に立っていたのは、当然のような顔をした蓮。 黒の細身のスラックスに、グレーのシャツを軽く胸元まで開けて、手にはスマホと見覚えのある洋菓子店の小さな紙袋。 ……あの店は、猫モチーフの焼き菓子で人気の店だ。まさか、それを選んでくるとは。 「……蓮か」 俺がそう言うと、蓮は軽く笑って片眉を上げた。 「はい、お土産」 蓮が紙袋を差し出してくる。 「……あぁ、ありがとな」 俺がそう返すと、蓮はふっと息を抜いてから言った。 「ちょっとだけ。入っていい?」 袋を受け取り、言葉の代わりに一歩横にずれる。 蓮はまるで慣れた部屋のように足を踏み入れ、自然な仕草で中を見渡した。 「メイ、久しぶり」 蓮が呼びかけると、ソファーの下で丸くなっていたメイが、ちらりと顔を上げた。 しばらく蓮をじっと見つめてから、すんすんと鼻を鳴らし、ゆっくりと近づいてくる。 「いい子だね。ちゃんと覚えてたんだ」 蓮はしゃがみ込むと、そっと手を差し出す。メイは少し警戒するように鼻を寄せて、それから、控えめに頭をすり寄せた。 「……急に来るなんて、どうしたんだよ」 つい棘が混じる声になる。けど、蓮はそれをさらりと受け流した。 「んー……澄人くんの顔、ちょっと見たくなっただけ」 軽い調子。なのに、その言葉だけで胸の奥がわずかに揺れる。 本気か、冗談か。――やっぱり、わかりづらい。 「……いい匂い。誰か来る予定?」 視線はすでにテーブルの上。 ――気づくの、早いな。やっぱり蓮は鋭い。 「……いや、」 「そっか。てっきり誰かを待ってるのかと思った」 声のトーンはいつも通り。でも、なんか妙にひっかかる。 笑ってるようで、目は笑ってなかった。 軽く流したように見せてるくせに、微妙に間があった。 ――ああ、やっぱり、こいつは勘がいい。 たぶん、蓮は口よりも目で語るタイプだ。 言葉じゃ何も言ってないのに、目の奥にいちいち残る。 「蓮、今から出勤だろ。間に合うんかよ」 「あと10分だけ。……澄人くんの顔見て、キスして、それで今日も頑張れる」 「……は? お前な……」 蓮は俺をじっと見て、目を細めた。 「髪、ちょっと濡れてる。シャワー上がり?」 そう言って、口元だけで笑う。 「……色っぽいね」 「言い方がやらしいんだよ」 思わず目を逸らした俺に、蓮はさらっと返す。 「本音だよ」 そのまま、こっちの反応を楽しむみたいに、ゆっくりと距離を詰めてきた。 「キス、してもいい?」 「……時間、ないんじゃなかったっけ」 「まだ8分あるから」 蓮は俺の顔を覗き込んで、そっと笑った。 「……8分で、今日の分の甘いの、ぜんぶチャージするよ」 そう言った蓮は、一歩だけ距離を詰めてきて、俺の頬に手を添えた。 皮膚に触れるその手が、あたたかくて柔らかい。 何かを言う間もなく、唇が触れた。 「ちゃんと、落とすって言ったよね?」 囁くようにそう言った蓮が笑うと、あまりに綺麗で―― 一瞬、何も言えなくなった。 「じゃ、行くね」 蓮はすっと離れ、軽く手を上げてから玄関へ向かい、ドアを開けた。 「またね、澄人くん」 なんでもないみたいに言って、軽く笑って出ていった。 「……頑張れよ」 自然にそう言葉が出た自分に驚きながらも、閉まるドアを見送った。 ……落ち着け、俺。 今、もうひとり来る予定のやつがいる。 スマホの画面には、数分前の樹からの「向かってます」のメッセージ。 重なっててもおかしくなかったんだ、今のタイミング。 蓮と樹。あの二人が、もし鉢合わせたら――どんな空気になるんだろう。 ……いや、あれだけ似てんだ。どこかで会っててもおかしくはない。 というか、あの二人―― 似すぎてる。 「……まさかな」 わかってる。そんな都合よく、全部が重なるなんて。でも、偶然ってのは、時に笑えないタイミングで訪れる。 でも、もし…… 「……っ」 背中がひやりとした。嫌な汗が、じわりと浮いてくる。 何も起きてないのに、なんでこんなにドキドキしてんだ、俺。 気づけば、メイが足元に寄ってきて、尻尾で俺の足を軽く撫でていった。 メイが何かを知ってるわけでもないのに、そうぼやいた声が、部屋の空気に溶けていった。 * 玄関のインターホンがもう一度鳴った。 少し深呼吸して、俺はドアノブに手をかける。 「柏木さん、こんばんは」 開けた瞬間、明るい声と一緒に、樹が満面の笑みで立っていた。白のシャツにラフなデニム、肩から下げたバッグに、紙袋を片手に持って。 「入ってもいいですか?」 「……ああ」 「あ、これ買ってきました。ショートケーキと、あと季節のタルト」 そう言って差し出された紙袋には、駅前のケーキ屋のロゴ。 さっき蓮が持ってたやつとは別の店。でも、なぜか――タイミングが、妙に重なる。 「……ありがとな」 「いえいえ、せっかくですから。では、お邪魔します」 樹は部屋に上がると、きょろきょろと周囲を見渡す。 ソファーの下に潜む影に気づいて、しゃがみ込んだ。 「……あ、いた。メイちゃん」 そう言ってしゃがみこんだ樹の手が、そっと伸びる。 けれど、メイはするりとソファの奥に引っ込んでしまった。 「うわ、今日もダメか……」 小さく肩を落としながら、ちらっと俺の顔を見上げてくる。 「やっぱ俺には全然懐いてくれませんね」 ため息混じりに立ち上がった樹が、ちょっと拗ねたように笑った。 「メイにも柏木さんにも冷たくされて、俺かわいそうじゃないですか?」 「……は?」 「あはは、冗談ですよ」 そう言って笑う樹を見ながら、俺はキッチンに向かった。 「何か手伝いましょうか?」 「……いや、座っとけ。すぐ飯の用意するから」 「じゃ、遠慮なく」 樹の顔を見ると思い出してしまう。 ……あの声と、ふわっとした香水の匂い。 ついさっきまでこの空間にいた、もう一人の存在。 ――知られたら、どうなるんだろうな。 背中を向けたまま、そう思って、無意識に息を止めていた。

ともだちにシェアしよう!