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第38話 猫は気まぐれ、でも犬は一途
「出張、マジでしんどかったです……もう二度と地方なんか行きたくない……」
樹の背中から潰れたクッションが悲鳴を上げる。その上で、腕を伸ばしてぐでんと寝そべる姿は、完全に力を使い果たした犬だ。
「おまえ、行く前は“ご当地グルメ楽しみです”ってはしゃいでたやろ」
コップに冷たいお茶を注ぎながらそう言うと、樹がぐいっと顔だけこちらに向けてふてくされたような声を返す。
「いや、それはそれですけど。観光と仕事は別モンですから」
「はいはい」
鼻で笑いながらコップを差し出すと、樹は手だけ上げて受け取った。
そのまま台所に戻って火を止める。とろとろ煮込んだソースの香りが、もう十分すぎるほど部屋に広がっていた。
ふたを開けた瞬間、背後から気配を感じる。
「……すご、煮込みハンバーグ……?」
その声に、ぴくっと肩が跳ねる。
近くにいたことに気づかなかった。振り向くと樹がすぐ背後に立っていて、じっと鍋をのぞき込んでいた。
「……さっきまで寝転がってたんちゃうんか」
「匂いで起きました。これ、俺のために?」
「冷蔵庫にあった材料が、これしかなかっただけや」
「はいはい、そうやって照れ隠しするんですよね、柏木さんは」
「……別に照れてねぇ」
そうは言ったものの、鍋の中身を見つめる樹の目があまりにも嬉しそうで。
なんだかこっちまで、顔の筋肉が緩む。
整えられたテーブルに料理を並べると、樹はさっそく席に着いてフォークを構えた。
「いただきます。……うわ、やば、うまっ」
ひと口で表情がほころぶ。その瞬間の顔は、ほんとにわかりやすい。
「……まさか、出張のご褒美に……って思ってくれたんですか?」
「勝手に想像すんな。たまたまや、言うてるやろ」
「んー、でもこういうときの“たまたま”って、だいたい狙ってますよね?」
「おまえさ、ちょっと黙って食え」
ちらっと睨んでも、樹はまるで堪えてない。むしろ、フォークを口元に持っていったまま、にこっと笑った。
「このちょっと甘めのソースも、俺好みの味です」
「そりゃよかった」
「……でも、マジで柏木さんに早く会いたかった」
「……」
無意識なのか、狙ってるのか。
どっちにしろ、こいつの言葉は、時々やたら響く。
「……ごちそうさまでした。ほんと、美味しかったです」
「あぁ」
食事が終わり、食器を下げようと立ち上がると、樹も「手伝いますよ」とすっと席を立った。
こういうとこは妙にきちんとしてる。フォークとナイフをまとめて運びながら、ちらりとこっちを見る。
流しに立つと、隣に立った樹が袖をまくりながらスポンジを手に取った。
「なんか、こういうの新鮮ですね」
「なにが」
「柏木さんと台所立つの。――生活感ある、っていうか。一緒に住んでるみたいで」
「……おまえが言うと、妙にリアルなんよ」
隣で皿をすすぐ音だけが、水の中で静かに響いた。
*
「柏木さん。ショートケーキと桃のタルト、どっちがいいですか?」
「……俺はどっちでもいいから、樹が好きな方取れよ」
「じゃあシェアしましょう」
樹はにこにこと笑いながら、皿に取り分けていく。
その向かい側には、蓮が置いていった洋菓子店の包みが、未開封のまま置かれていた。
「これ……柏木さんが買ったんですか?」
袋に描かれた、まるい耳の猫のロゴを指でなぞりながら、興味ありげに首を傾げる。
「……いや……、まあな」
違う、と言いかけて、やめた。
蓮の持ってきた袋の中には、予想通り、可愛らしい猫型の焼き菓子がいくつか並んでいた。
「ほんとに、猫好きなんですね」
柔らかく笑いながらそう言う樹の声は、どこまでも無邪気で。
だけどその目が、袋のロゴをじっと見ているのに気づいて、俺は胸の奥に小さな棘を感じた。
「柏木さん、はい、あーん」
フォークの先にちょこんと乗ったタルトを、樹が楽しそうにこっちへ向けてきた。
「……いや、自分で食うって」
すぐ手を伸ばそうとすると、樹がその手をひらりとかわす。
「いいじゃないですか。ほら、ちょっとだけ」
食べさせる気まんまんの顔でフォークを揺らすから、仕方なく少し身を乗り出す。
「……ったく」
ぱく、と口に含んだ瞬間、ふわっとした果実の甘さが広がった。
「……うまいな」
「あー、うまいって言った。じゃあもう一口」
「おい、もういいって」
「……なんか、柏木さんが“あーん”してくれるの、レアすぎて……」
「レアとか言うな」
「かわいいなぁ、もう」
「おい、今“かわいい”って言ったやろ」
「言ってません、“美味しいな”って言っただけです」
「嘘つけ」
からかうように笑う樹と、それを受け流す俺。
その間をすり抜けるように、メイがしっぽを揺らして俺の足元をくるりと回る。そのあと、樹の方へちらりと視線を向けた。
「お、メイちゃん」
気まぐれに樹に近づいてきたメイが、何かを確認するようにくんくん鼻を寄せたあと、そっぽを向いた。
「あれ、逃げないの?」
樹はそう言いながら手を伸ばしてみるが、やっぱり一定の距離を保たれたまま、尻尾だけふわっと揺れた。
「……ああ、まだダメか。でも見ました? 逃げないってことは、嫌われてはないですよね?」
「さあな。そいつは好き嫌いハッキリしてるから」
「そっくりですね、飼い主に」
「は?」
「美人なのに無愛想で、気まぐれで。たまに可愛いことするから、余計にたち悪いです」
軽口のはずなのに、不思議と嫌な感じがしない。むしろ、どこかくすぐったいような余韻だけが残る。
――ったく。なんなんだ、こいつ。
片付けを終えると、樹は頭を背もたれにあずけたまま目を閉じる。
「……寝るなら、ベッドで寝ろよ」
そう声をかけると、薄く片目を開けた。
「寝る前に、ちょっとだけ癒してくれません?」
「は?」
にやっと笑って、挑発めいた目を向ける樹。
「本当に出張頑張ったんですから、ごほうび、くださいよ」
「……犬かよ」
甘えてるのか、翻弄してるのか――その境界線が曖昧なのが、やっぱり厄介だった。
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