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第40話 隠した牙と、振ってる尻尾
まぶたの裏がじわじわと明るくなって、俺はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、近すぎる距離で眠る樹の顔。
柔らかな寝息と、ほんのり温かい体温。
……近いっつってんだろうが。
「……ん、おはようございます、柏木さん」
目が合うと、樹は笑って俺の首に腕を絡めてきた。反射的に顔を背ける。
「朝から……やめろ、暑苦しい」
「えー、昨日は抱きついても許してくれたのに、今朝はダメなんですか?」
「誰がいいっつったよ。寝起きは……うっとおしい」
言いながらも完全に拒絶するでもなく、樹の髪を一度、ぐしゃっと撫でた。
「……ふふ、なんだかんだ優しいですね」
調子に乗った樹が、俺の頬に軽く唇を押しつけてくる。
「……チッ。ほんま、お前ってやつは」
軽く睨むと、こいつは嬉しそうに笑って、また顔を近づけてくる。
その目が――やけに真っ直ぐで、意外に鋭い。
「……なにその顔」
「柏木さんが好きって顔です。見てわかりませんか?」
言った次の瞬間、樹の唇が俺の口元に落ちた。
浅く、探るようなキスかと思えば――すぐに、熱が変わった。
「……っ、ちょ、」
抗議の声なんて途中で飲み込まれる。
噛みつくみたいなキスに、身体がひやっとして、熱くなる。
「……樹」
唇を離したあと、息を吐きながら名前を呼ぶと、やつはほんの少しだけ悪びれた顔で笑った。
「ねえ、俺って犬っぽいって言われるんですけど」
「……ああ。無駄に人懐っこくて、うるさくて、構ってちゃんで」
「でも、たまにオオカミだったりもするんですよ?」
そう言って、また唇を重ねてくる――
嬉しそうに尻尾を振ってじゃれてくる子犬の顔のまま、どこか鋭くて、逃がす気はない目で。
……俺の知らない“樹”が、まだまだいそうだ。
立ち上がってキッチンへ向かう。足元ではメイがいつの間にかくるりと回って、俺を見上げていた。
「メイ、はいはい。今、出すって」
キャットフードを皿にあけると、すぐにメイは小さく鳴いて、それに顔を寄せる。
やっぱり、樹よりよっぽど素直だ。
「メイちゃん、今日もかわいいなぁ……あ」
リビングに入ってきた樹が、キッチンカウンターの上に置かれていた焼き菓子の袋に目を留めた。
「これ……昨日の、猫型の焼き菓子。可愛かったから、ひとつだけもらっていっていいですか?」
「……ああ、持ってけよ」
そう返すと、樹はぱっと笑って、袋の中から迷いながらひとつ手に取った。
「これ、めっちゃかわいい。お土産っていうか……俺が食べたいだけなんですけど」
「知ってる。お前、昨日もさんざん甘いの食ってたろ」
そう言いながら、俺はメイの空いた皿を水でゆすぎ、カウンターの向こうへ目をやる。
樹はまだそこに立ってて、指先で小さく包みをなぞってた。
「……これ、あいつに見せよ」
「……あいつ?」
水気を拭き取りながら振り向くと、樹は焼き菓子を撫でながら、悪びれもせずに笑っていた。
「いや、弟に見せようかなって。これ可愛いから……たぶん好きだと思うんですよ、こういうの。俺よりも、見た目重視というか」
「……そういや、弟、おったか」
「いますよー。前に言いましたけど」
樹の口調はいつもと変わらず軽やかだったけど、なぜか俺の胸の奥が少しざわついた。
「で、なんやねん。弟に報告すんのか、俺んちに泊まったって」
「え、まさか。そんな報告いらないでしょ」
そう言って笑うけど、俺の視線は自然と、樹が持つ焼き菓子へと戻る。
――弟、ってだけでなんでこんなに引っかかるんだ。
樹は焼き菓子の包みを丁寧にバッグに入れながら、くるりと振り向いた。
「じゃ、そろそろ行きます。また月曜に」
「……ああ。気ぃつけろよ」
「はい」
軽く手を振って、樹は玄関へ向かう。メイがどこか達観したようにその後ろ姿を見送るのを、俺も無言で追いかける。
靴を履く音がして、玄関のドアが開く前に、ふと振り返った声がした。
「柏木さん……、また来ていいですか?」
「……別に、お前の都合で来れば」
素っ気なく返したのに、樹はそれで満足したみたいに、ふっと目を細めた。
「……なんか、“彼女の家から帰る彼氏”みたいな気分です」
「……は? どの口が言ってんだ、それ」
「えー、俺はけっこう本気で言ってますけど」
「……もういいから、早く行け」
そう言いつつも、ドアを閉める直前、もう一度こちらを見た樹の笑顔が、やけに目に残った。
――ああもう。
そんな顔すんなよ。
また、呼びたくなるだろ。
扉を閉めてから、ひとつため息をつく。
そして足元を見ると、メイがまんまるに丸まって、じっとこっちを見上げていた。
「……なに見てんだよ、お前まで」
ぴくりとも動かず、静かにまばたきするメイに向かって、俺は小さく笑った。
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