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第43話 頼りたいのは……“あいつ”
連日残業。原因は――新人の凡ミス。
指導係としてついていた以上、責任はこっちにある。
チェックが甘かったのは俺。そう言われれば、反論はできない。
でも、だからって。
その尻拭いに付き合わされて、深夜まで資料修正と報告書。
昼飯を抜いたり、コーヒーだけでごまかしたり。
身体は正直で、妙にだるさが抜けない。
帰宅して、風呂も入らず倒れ込むのがやっと。朝は起きた瞬間から仕事のことが頭を離れない。
若い頃なら、多少の無理もきいた。
でも、今のこれは「慣れてる」とか「先輩だから」で済ませられるような話じゃない。
部下をかばって、上には謝って、数字は合わせて――
そうやって、全部自分で飲み込んでるうちに、何が正解かわからなくなってくる。
心配されるのも、同情されるのも、正直ちょっと面倒だった。
……なのに。
ちょうど会社を出ようとしたところで樹に捕まった。
「ちょ、柏木さん! マジで倒れそうなくらい顔色悪いですよ」
「……そこまで言うか」
「言いますよ。だって、俺、見ててしんどいですもん」
冗談みたいな口ぶりで、だけど目だけが笑ってない。
「大丈夫やから、心配すんなって」
「いえ、そんな顔されてたら……心配にもなりますって」
低く抑えた声。いつもの軽口とはちょっと違ってて、ふと足が止まる。
「部下庇って、ひとりで全部抱えて、誰にも文句言わないって……それ、普通に無理ありますよ」
「別に、抱えてるつもりは――」
「嘘、そうやってすぐ誤魔化す」
強めの言葉に少しだけむっとしかけたのを、樹がすぐに察したのか、口調を緩めた。
「……俺、柏木さんのそういうとこ、嫌いじゃないですけど。たまには、誰かに甘えてもいいと思います」
「……お前に言われたくねえわ」
「ですよね。でも、言います」
そう言いながら、樹がそっと手を伸ばす。
額に触れようとしたその指を、俺は咄嗟に避けた。
「……大丈夫やって」
「ほんとに?」
「ほんまに。……だから、お前は気にすんな」
「俺は気にしたいんですけどね」
冗談混じりに返されて、それ以上何も言えなくなる。
どうしてこいつは、こんな時だけやたらと真っ直ぐなんだ。
一瞬、心が揺れそうになって――慌てて視線を外した。
「……じゃあ、またな」
それだけ言って背を向けると、背中越しに樹の声が追いかけてきた。
「家着いたら連絡ください!」
「するか」
「えー!」
そのまま、笑い声を背に受けながらエレベーターに逃げ込んだ。
ドアが閉まるまで、ずっと視線を感じていた。
*
帰宅して玄関の扉を閉めた瞬間、気が抜けたようにその場に立ち尽くす。
スーツのまま、靴も脱がず、ただしばらく動けなかった。
全身が鉛のように重い。
頭はじんわり熱を持っていて、視界の端がかすんでいる。
喉が渇いている気もするし、寒気もする。
頭の芯がぼうっとしていて、何も考えがまとまらない。
そんな中、足元に小さな気配が近づいてきた。
「……にゃあー」
メイが鳴いて、足にしっぽを巻きつけるようにして擦り寄ってきた。
普段はそんなに甘えてこないやつなのに。
こんな時に限って、声を出すなんて――
「……悪い。メシだけな」
ソファーに倒れ込みたい衝動をなんとか押しとどめて、フードと水だけを用意する。
その間にも、呼吸が浅くなっていくのがわかる。
背中にはうっすら汗。だが額は冷えていて、まともに立っているのもしんどい。
「……っ」
短く息を吐いて、メイの頭をひと撫でしてから服も脱がず、ベッドに身体を投げ出した。
背中にマットレスの感触を受けながら、重力に押し潰されるように目を閉じる。
――熱、あるな。
……たぶん、結構高い。
正直、今はほんまに、しんどい。
誰かに寄りかかりたくて仕方ないくらい、弱ってる。
……けど、樹には連絡できない。
後輩やし、踏み込ませるつもりがない以上、そこに甘えるのはルール違反だ。
それに、メイの世話まで任せられるとは思えない。
メイは樹にはそこまで懐かない。機嫌が悪いとそっぽを向いてケージにこもることもある。
俺のことは、いい。でも、メイのことを思うと、このまま倒れるわけにはいかない。
意識を失う前に、頼れる人間に連絡だけは――
そう思ったとき、ポケットに入れっぱなしだったスマホが不意に震えた。手探りで取り出し、画面を見る。
……蓮からだった。
"今日もおつかれ。忙しいかな? 無理すんなよ"
たったそれだけの、短い文章。その文面が妙に蓮らしい。
そして、ホストのくせに、こういうのだけは無駄にタイミングがいい。
わかってるのか知らないのか――心にするっと入り込んでくる。
メイは、蓮には不思議なくらいすんなり懐いた。
逃げないし、自分から擦り寄る。完全に気を許してるわけじゃなさそうなのに、安心してる顔をしていた。
……メイは知ってるのかもしれない。
俺よりずっと、人を見る目があるから。
ホストだからとか関係なく、蓮のことは信用できるって……そう、感じてるんだろう。
重いまぶたを無理やり持ち上げて、スマホを開く。
迷った末に、蓮のトーク画面を開いて、震える指でゆっくりとメッセージを打ち始めた。
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