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第49話 ひそやかな影、胸の奥のざわめき
side 瀬川 樹
少し汗ばむ夏の朝。
たまたま有給を取っていた俺は、ベッドの上でだらだらと寝返りを打ちながらも、頭の片隅から柏木さんのことが離れなかった。
昨日見たあのしんどそうな顔――体調を崩しているのは分かっているのに、何もできずにいる自分に落ち着かない。
――大丈夫かな……いや、様子を見に行くべきだ。
決めたら即行動。すぐに柏木さんへ「心配してる」とメッセージを送り、今から会いに行ってもいいか確認する。
玄関先でちょっと顔を見られるだけでいい。
そう心の中でつぶやきながら、了承の返事をもらった俺は、迷わず柏木さんの部屋へ向かった。
*
ピンポーン――。
指先でインターホンを押すと、軽い電子音が静かな廊下に響く。少ししてからドアがゆっくりと開いた。
「柏木さん、大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫や」
その短い返事に、少し肩の力が抜ける。
「……まあ、入れよ」
「はい、お邪魔します」
玄関で靴を脱ぎ、部屋に足を踏み入れた瞬間、どこか空気が揺れるような感覚があった。
ついさっきまで誰かがいたような――微かな気配。
視線を部屋の中に巡らせる。見えるのは柏木さんだけ。それでも胸の奥に小さな違和感が残る。
「……あの、誰か来てましたか?」
思わず口にしてしまう。柏木さんは一瞬視線を逸らし、わずかに肩を上げて応える。
「いや……誰も、来てへん」
少し間があった。柏木さんの表情はどこか慎重だ。空気も少し張っていて、視界の端にかすかな違和感を感じる。
俺は紙袋を差し出す。中身はポカリ、サンドイッチ、日用品少々。
「こういうの、今の柏木さんには必要でしょ?」
「……ああ、気遣いありがとな」
軽く礼を言ったけど、表情は少しこわばっている。
「ほんっと、無理しすぎですよ」
そう言うと、柏木さんは小さく笑った。顔の柔らかさに、ほんの少し安心する。
「……そうやな。久しぶりに体にきた」
「一人で頑張ってたんだから、そりゃ体にもくるってもんですよ」
柏木さんは軽く目を細めて、「……お前、心配しすぎな」と返す。
「いや、心配して当然ですよ。柏木さん、毎日無理してますもん」
「……まぁ、そうだな」
柏木さんの横顔に視線が吸い寄せられる。
「……ちょっと、近くにいってもいいですか?」
思わず小さな声で尋ねると、柏木さんは一瞬目を瞬かせ、少し驚いた表情を見せた。
「……ああ」
その言葉に合わせるように、腕を引き寄せて唇を重ねる。
「んっ……」
小さな息を漏らす柏木さんの肩が、わずかに震える。呼吸が一瞬乱れ、心臓の音が二人の距離に響く。
「っ、はぁ……何すんねん……」
「柏木さんが好きだからです」
服の裾に手を滑り込ませ、直接肌に触れるようにそっと撫でる。
「……すごくあったかいな……微熱でもあるんですか?」
「……あ、ちょ、触んなって……」
だんだん大胆になる俺の手の動きに、柏木さんは軽く押し返す。
「……ばか。俺、病人やぞ」
「はい、わかってます。あんまり長居すると迷惑ですよね。そろそろ失礼します」
軽く声を弾ませると、柏木さんは「ああ」と少し笑い返してくれた。
でも、その笑顔の裏には、まだ落ち着かない空気が残っているのを感じた。
「そういえば、メイちゃんは?」
「……寝てる」
柏木さんは少し間を置き、軽く視線を逸らした。
玄関先で深呼吸をひとつして、バッグを肩にかける。靴を履き直し、そっとドアノブに手を置いた。
「柏木さん、無理しないでくださいね……じゃあ、失礼します」
「ありがとな。気をつけて帰れよ」
短い言葉に安心しつつも、胸の奥にはさっきの違和感がまだくすぶっていた。
ドアを静かに閉め、外に一歩踏み出す。
夏の空気が顔に当たり、少し汗ばむ感触がちょっと不快だ。
帰り道、コンビニでご飯を買って帰ろうとしながら、蓮に「何かいるものある?」とメッセージを送る。
――でも、返信はなし。
家に着くと、蓮の姿はなかった。
今朝、柏木さんの家に行く前もまだ帰ってなかったし、さすがにもう帰ってると思ったのに。
もしかして誰か姫のところに泊まってるのか。
……いや、あいつは枕営業なんてしないはずだ。
“付き合わずに身体の関係だけの方が楽だ"と蓮は前に言っていたけど、それはあくまでプライベートの話。
ホストの仕事とは切り離して考えているはずだ。
――おかしいな。
もしかして、好きな人でもできたのか。
「好きな人……ねえ」
ふとさっきの光景が蘇る。
柏木さんの横顔、柔らかい表情、そして距離の近さ。微かな体温。
……やっぱり、あの人のこと考えてしまうんだよな。
心の奥で小さく笑いながらも、胸の奥には甘くざわつく感覚が残る。
蓮のことを気にしながらも、頭の中は柏木さんでいっぱいだった。
コンビニで買ったご飯をテーブルに置き、手を止めて窓の外を眺める。
夏の光が差し込む部屋は静かで、外の蝉の声だけが響いていた。
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