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第56話 確かめたくて、踏み込んだ先
昨夜はほとんど眠れなかった。
今朝、鏡に映った自分の顔は、どこか疲れていて情けない。
それでも――今日は絶対に柏木さんと二人で話す。そう決めて出社した。
オフィスのドアを開けた瞬間、視界の端に背の高い人影を見つける。
無駄に胸が高鳴ってしまう自分が、もうどうしようもなかった。
「……柏木さん、おはようございます」
「おはよう。早いな」
いつもの低く落ち着いた声。
それだけで、昨日のモヤモヤが一瞬だけ軽くなる。
――けど、柏木さんはすぐにパソコンへ視線を戻してしまった。
やっぱり、避けられてる……?
そう考えるだけで、胸の奥が締めつけられる。
午前中は資料整理に追われて、ゆっくり話す隙なんてなかった。
休憩時間に声をかけようとしても、柏木さんは他の社員に呼ばれて席を立ってしまう。
――タイミングが合わない。
けど、今日は逃したくない。
昼休み。勇気を振り絞って、柏木さんのデスクに近づいた。
「柏木さん、このあと少しだけ……時間ありますか?」
「悪い、客先に呼ばれてる。戻りも遅くなるわ」
それだけ言って、ジャケットを羽織り颯爽と出て行く背中を見送るしかなかった。
夕方、意を決してメッセージを送った。
“少しだけでいいので、話せませんか?”
送信ボタンを押した指先が震える。
数分後、画面に表示された既読の文字。
けれど、返事は来なかった。
そして、そのまま気づけば退勤時間になってしまった。
もう、待ってるだけじゃ耐えられない。
向かう先は、柏木さんの家。
非常識だと分かってる。迷惑なのも分かってる。
それでも、どうしても顔を見て、話したかった。
マンションの前に立つと、胸がドクドクとうるさく鳴り響く。
深呼吸を一度。けど、全然落ち着かない。
インターホンを押す。少し間があり、やがて、低い声が応答した。
『……樹か。こんな時間に、どうした』
耳に届いた声は相変わらず落ち着いていて、それでいて少し驚いていた。
喉が詰まりそうになるのを必死で堪える。
「すみません。少しだけでいいんです。お話、できませんか」
短い沈黙のあと、ため息混じりの声。
『……分かった』
部屋のドアが開いて、柏木さんが姿を現した。
「……わざわざ来るなんて、何かあったんかよ」
低く落ち着いた声。
だけど、ほんの少し困惑が混じっているのが分かった。
俺は視線を落としながら頭を下げた。
「迷惑なのは分かってます。でも、どうしても会いたくて」
柏木さんは眉をひそめ、俺をじっと見た。
「中、入れよ」
促されるまま部屋に足を踏み入れる。
相変わらず整然とした室内。その静けさが余計に緊張を煽った。
下を見ると、ドアの後ろに白い影。
「メイちゃん、久しぶり」
相変わらず塩対応……かと思いきや、珍しく逃げずに、俺を見て「にゃあ」と鳴いた。
柏木さんはお茶が入ったグラスを俺に手渡しながら、ソファーに座る。
「ありがとうございます。……今日一日、何度も声をかけようとしたんです。でも、タイミングが合わなくて……」
「ふん。それで、わざわざ押しかけてきたのかよ」
呆れたように口元が歪む。でも、その目は本気で怒ってはいなかった。
「すみません。俺、今のままじゃ眠れなくて」
「で? 何を話したいんだよ」
直球の問いかけ。
目の前の人はいつも通り落ち着いているのに、自分だけが必死で腹が立った。
「柏木さん」
「ん?」
「……避けてるんですか、俺のこと」
真剣に問い詰めると、柏木さんは一瞬だけ目を逸らした。
返事を待っていられず、気づけば俺の体が勝手に動いていた。
「っ、おい……!」
ソファーに押し倒すように覆いかぶさる。
驚いた顔の柏木さんを見下ろしながら、意地悪く笑った。
「これでも、まだ“避けてない”って言えます?」
ぐっと近づけた顔に、柏木さんの目が泳ぐ。
その反応が嬉しくて、わざと耳元に口を寄せて囁いた。
「――逃げないでください」
「……誰が」
けれど、俺の腕を振り払おうとはしなかった。むしろ、少しだけ力が抜けている。
「じゃあ、このままベッド行きましょうか」
「……はぁ!? 何言うてんねん」
「――本気です、俺」
赤くなった顔で睨まれる。
それでも抵抗されないから、手を引いてベッドに連れて行った。
横並びに倒れ込むと、柏木さんは深いため息をついた。
顔を寄せると、柏木さんは視線を逸らす。
その仕草すら愛しくて、もう抑えきれなかった。
「――絶対、逃がしませんから」
小さく囁いて、笑う。
柏木さんは、まだ不機嫌そうに眉を寄せていた。
けど、俺の手を払いのけるわけでもなく、視線を逸らすだけ。
肩に手を置いて顔を近づけると、彼の呼吸がわずかに乱れる。
それが可愛くて、ますます意地悪したくなる。
「……樹」
「はい」
「お前、人を振り回して楽しいんか」
「楽しいです。だって柏木さんが相手だから」
わざと真顔で言ってみせると、彼はぐっと言葉を飲み込み、目を伏せた。
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