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第59話 青天の霹靂

あの夜――柏木さんと一緒に過ごした時間は、夢みたいに甘くて、気づけば朝になっていた。 けれど日常は待ってくれない。 数日後の午後、俺は人事部からの呼び出しを受けた。理由もわからず、胸の奥に緊張が広がる。 「……樹、どうした?」 隣の席の三上が、不安げにこちらをのぞき込んできた。 「いや、大丈夫。ちょっと行ってくるな」 会議室に通されると、上司はどこか晴れやかな調子で切り出した。 「瀬川くん、来月から大阪支社へ異動してもらうことになったんだ」 ――え? 一瞬、聞き間違えたかと思った。 でも、上司の真剣な表情を見て、現実だと理解した。 「……大阪、ですか」 「そうだ。新しい大型プロジェクトに君を抜擢したい。会社としても大いに期待している」 意気揚々と告げられる言葉が、頭には入ってこない。 大阪。 浮かんだのは、仕事のことでも新生活のことでもなく――柏木さんの顔だった。 「あの、いつ頃からでしょうか」 「来月の15日付けだ。引き継ぎもあるから、準備は早めに頼む」 「……はい、承知しました」 来月。あと一ヶ月もない。 会議室を出ても、足取りは重かった。 デスクに戻ると、三上が興味津々で聞いてくる。 「樹、何だったんだよ」 「あー……また後で話す」 斜め前の席にはいつも通り柏木さんが座っている。パソコンに向かう横顔は、相変わらず落ち着いていて―― この人は、まだ何も知らない。 「お疲れ」 声をかけられて、思わず肩が跳ねる。 「あ……はい、お疲れさまです」 とっさに笑顔を作ったけれど、視線を合わせられなかった。 今すぐ話したい気持ちと、話したくない気持ちが入り混じって、胸が苦しい。 「顔色悪いぞ。大丈夫か?」 「だ、大丈夫です。ちょっと疲れただけで……」 嘘だった。疲れなんかじゃない。 ただ、異動のことを言えずにいる自分が情けなくて。 「そうか。無理すんなよ」 優しい言葉に、余計に胸が締めつけられる。 ……俺がいなくなっても、この人はきっと変わらずにいるんだろう。 そう思うと、何だか置いていかれるような気がした。 その夜、帰宅すると蓮がソファーでスマホをいじっていた。 いつもの光景に、少しだけ気持ちが落ち着く。 「ただいま」 「おかえり。……って、なにその死んだ魚みたいな顔」 蓮がスマホから顔を上げ、じっと俺を見た。 「別に、普通だけど」 「嘘つけ。一目で分かるよ、そんな顔」 するどい指摘に、思わず苦笑する。こいつの前では、何も隠せない。 「仕事で何かあった?」 ソファーから立ち上がった蓮が、俺の前に歩み寄る。 その真剣な眼差しに、隠し通せる気がしなくなった。 「……大阪に、転勤になった」 ぽつりと漏らした言葉に、蓮の眉がぴくりと動く。 「いつ?」 「来月の15日付け」 「そっか……」 蓮は何も言わずに頷いた。 その静かな反応が、余計に現実味を帯びさせる。 「で、どうしたいの? 樹は」 問いかけられて、答えに詰まった。 どうしたいか。 本当は――行きたくない。柏木さんのそばにいたい。 でも、そんなこと口に出すのは、あまりにも幼稚で。 「……分からない」 搾り出すような声で答えると、蓮が小さくため息をついた。 「本当に分からない?」 再び問われて、俺は唇を噛む。 分からないわけじゃない。ただ、認めたくないだけで。 「行きたくない」 やっと出た本音は、思っていたより小さな声だった。 「そっか」 蓮は優しく微笑んで、俺の肩にそっと手を置く。 部屋に静寂が落ちる。 けれど、その沈黙の中で気づいた。 俺は本気で柏木さんのことが好きなんだ。 仕事がどうとか、立場がどうとか、そんなことより大切な人。 仕事だの立場だの言い訳をしても、結局はその想いに振り回されている。

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