62 / 64

第62話 近くても、遠くても

「……蓮」 呼びかけた声が震える。 「樹、わかってるよ……仕方なかったんだよな。樹は樹で、たまたま澄人くんと距離が近かった。俺はホストで、ただ我慢するしかなかった、ってだけ」 切なさと悔しさが混じった声。 その素直さが、胸をぎゅっと締め付ける。 俺は少しだけ息を整えた。 胸の奥でまだざわつく感情を、言葉にせず押さえつけるように。 「……ごめん、蓮。ごめんな」 低く、でも確かに言葉にしてみる。 「お前も、我慢してたんだな……」 蓮は何も言わず、ただ視線を俺に向けている。 その沈黙が、逆に重く胸にのしかかる。 「……俺たち、少し落ち着こう。それから二人でもう一度……ちゃんと話をしよう」 自分でも驚くほど冷静に、そう告げた。 目の前の蓮にぶつけたばかりの感情が、まだ熱を帯びているのを感じながら、部屋を離れた。 歩きながら、頭の中で考えが巡る。 ──柏木さんに、大阪異動のことをどう伝えようか。 ──蓮の感情も、俺は受け止めるべきなのか。 手に汗を握りながらも、決心する。 「……明日、柏木さんに話す」 少しでも、迷いを残さずに、異動の話と自分の思いを伝えるために。 そして心の片隅で、蓮との距離やぶつかり合った感情が、静かに胸に重く残ったままだった。 * 翌日。玄関を出る前、俺は深く息を吸った。 会議が終わったあと、廊下に出る柏木さんの背中を見て、思わず声をかけた。 「柏木さん、ちょっとお時間いいですか」 人気のない打ち合わせスペースに入ると、心臓がやけに早く打ち始める。 言わなきゃならないことは分かってるのに、口が重かった。 ──でもこのまま、何も言わず離れるわけにはいかない。 「……俺、大阪に異動することになりました」 やっとのことで告げた瞬間、柏木さんの表情が固まる。 「は……?」 その目を直視するのが怖くて、でも逸らせなくて、俺は必死に言葉を続けた。 「来月からです。急で、俺もまだ実感わかなくて……」 返事はすぐには返ってこなかった。 沈黙のあと、掠れた声で「……そうか」と。 あの柏木さんが、こんな顔をするなんて思わなかった。 驚きと混乱が混じった目。俺は苦笑いを作ってみせる。 「そんな顔しないでくださいよ。離れても、柏木さんは柏木さんですから」 場を和ませたくて言ったのに、返ってきたのは低い声だった。 「バカ……簡単に言うな」 胸の奥を突かれた気がして、息が詰まった。 怒られたのに、なんでか少し嬉しかった。 俺のことを、こんなふうに気にしてくれるなんて。 でも同時に、心のどこかがぎゅっと締め付けられる。 ここにいられなくなる。柏木さんと毎日顔を合わせて、何気ない会話をする時間、そして抱きしめあう日々が――終わってしまうんだ。 それを思うと、笑うしかなかった。 胸の奥が痛い。けど、ここで逃げたら、もう二度と自分の気持ちを整理できない。 柏木さんの目が揺れる。その一瞬で、俺はこの人の寂しさも、不安も、全部感じ取った。 俺は、蓮のことも、そして自分の気持ちも整理しながら、今日、この場で向き合う。

ともだちにシェアしよう!