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第62話 近くても、遠くても
「……蓮」
呼びかけた声が震える。
「樹、わかってるよ……仕方なかったんだよな。樹は樹で、たまたま澄人くんと距離が近かった。俺はホストで、ただ我慢するしかなかった、ってだけ」
切なさと悔しさが混じった声。
その素直さが、胸をぎゅっと締め付ける。
俺は少しだけ息を整えた。
胸の奥でまだざわつく感情を、言葉にせず押さえつけるように。
「……ごめん、蓮。ごめんな」
低く、でも確かに言葉にしてみる。
「お前も、我慢してたんだな……」
蓮は何も言わず、ただ視線を俺に向けている。
その沈黙が、逆に重く胸にのしかかる。
「……俺たち、少し落ち着こう。それから二人でもう一度……ちゃんと話をしよう」
自分でも驚くほど冷静に、そう告げた。
目の前の蓮にぶつけたばかりの感情が、まだ熱を帯びているのを感じながら、部屋を離れた。
歩きながら、頭の中で考えが巡る。
──柏木さんに、大阪異動のことをどう伝えようか。
──蓮の感情も、俺は受け止めるべきなのか。
手に汗を握りながらも、決心する。
「……明日、柏木さんに話す」
少しでも、迷いを残さずに、異動の話と自分の思いを伝えるために。
そして心の片隅で、蓮との距離やぶつかり合った感情が、静かに胸に重く残ったままだった。
*
翌日。玄関を出る前、俺は深く息を吸った。
会議が終わったあと、廊下に出る柏木さんの背中を見て、思わず声をかけた。
「柏木さん、ちょっとお時間いいですか」
人気のない打ち合わせスペースに入ると、心臓がやけに早く打ち始める。
言わなきゃならないことは分かってるのに、口が重かった。
──でもこのまま、何も言わず離れるわけにはいかない。
「……俺、大阪に異動することになりました」
やっとのことで告げた瞬間、柏木さんの表情が固まる。
「は……?」
その目を直視するのが怖くて、でも逸らせなくて、俺は必死に言葉を続けた。
「来月からです。急で、俺もまだ実感わかなくて……」
返事はすぐには返ってこなかった。
沈黙のあと、掠れた声で「……そうか」と。
あの柏木さんが、こんな顔をするなんて思わなかった。
驚きと混乱が混じった目。俺は苦笑いを作ってみせる。
「そんな顔しないでくださいよ。離れても、柏木さんは柏木さんですから」
場を和ませたくて言ったのに、返ってきたのは低い声だった。
「バカ……簡単に言うな」
胸の奥を突かれた気がして、息が詰まった。
怒られたのに、なんでか少し嬉しかった。
俺のことを、こんなふうに気にしてくれるなんて。
でも同時に、心のどこかがぎゅっと締め付けられる。
ここにいられなくなる。柏木さんと毎日顔を合わせて、何気ない会話をする時間、そして抱きしめあう日々が――終わってしまうんだ。
それを思うと、笑うしかなかった。
胸の奥が痛い。けど、ここで逃げたら、もう二度と自分の気持ちを整理できない。
柏木さんの目が揺れる。その一瞬で、俺はこの人の寂しさも、不安も、全部感じ取った。
俺は、蓮のことも、そして自分の気持ちも整理しながら、今日、この場で向き合う。
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