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第63話 静かに胸を締めつけて
side 柏木澄人
会議が終わって、デスクに戻ろうとしたところで樹に呼び止められた。
いつもの笑顔じゃなく、少しだけ硬い表情。
「柏木さん、ちょっとお時間いいですか」
人気のない打ち合わせスペースに移動すると、樹は一拍置いてから口を開いた。
「……俺、大阪に異動することになりました」
その瞬間、頭が真っ白になった。
聞き間違いじゃないかと、思わず言葉が出る。
「は……?」
「来月からです。急で、俺もまだ実感わかなくて……」
淡々と説明する声が耳に入っても、内容が頭に入らない。
樹が――大阪に? ここからいなくなる?
「……そうか」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くくらい掠れていた。
情けない。けど、どうしても平気な顔なんかできなかった。樹は困ったように笑う。
「そんな顔しないでくださいよ。離れても、柏木さんは柏木さんですから」
「バカ……簡単に言うな」
吐き捨てるように言った俺の声は、震えていた。
樹の異動が決まったという事実が、急に現実のものとして胸にのしかかる。
毎日顔を合わせて、軽口を叩いて、猫の話をして抱きしめあって――そんな日常が急に終わる。
樹はまっすぐに俺を見つめてくる。
その視線に、胸の奥がずきずきと痛んだ。
長い沈黙の後、樹が小さく息を吐いた。
「大阪は……柏木さんの出身地でしたね。でも、なかなか会えませんよね」
「……ああ」
「柏木さんは、俺がいなくなることをどう思いますか?」
「どうって……」
言葉が出てこない。正直に言えば、考えたくない。樹のいない日常なんて。
「寂しい、に決まってるやろ」
樹の表情が少し和らぐ。
「……俺も、寂しいです」
そっと言われた言葉に、胸が詰まる。
「柏木さん」
樹が一歩、俺に近づく。
「俺、蓮と柏木さんのこと知ってます」
「……は?」
今度は別の意味で頭が真っ白になった。
まさか、樹が蓮のことを?
「昨夜、蓮から聞いて色々話したんです。柏木さんと蓮の関係、そして……」
樹の声が少し震える。
「蓮も、柏木さんのことが好きで、ライバルだってこと」
「樹……」
「俺も、柏木さんのことが好きです。でも、蓮も同じ気持ちだって分かった時、どうしたらいいか分からなくて」
樹の目に、複雑な感情が浮かんでいる。
「だから、せめて柏木さんには正直でいたくて。異動の話も、蓮のことも、俺の気持ちも」
俺は何も言えずにいた。
樹と蓮、二人とも俺を想ってくれている。
そして俺も、二人とも――
「俺は……正直、どうしたらいいかわかんねぇ」
思わず漏れた本音に、樹が苦笑いを浮かべた。
「答えなんて、急に出るものじゃないですよ」
優しい声だった。
「複雑すぎる三角関係ですよね。大阪に行く前に、ちゃんと向き合いたかったんです。柏木さんと、蓮と、そして俺自身とも」
「ああ」
「……話、聞いてくれますか?」
樹の真剣な眼差しに、俺は頷くしかなかった。
*
「……大阪、か」
小さく呟いてみても、現実味は薄い。
いつも隣にいた笑顔が、来月からはここにいないなんて。
もやもやを抱えたままマンション前に着いたとき――暗がりに人影があった。
光に照らされて見えた顔は、蓮だった。
「……お前、なんで」
「話があって、澄人くんを待ってた。部屋には入らないから」
そう言う蓮の目は、普段の余裕ある色じゃなかった。
どこか張り詰めていて、俺の胸がざわつく。
「昨夜、樹から聞いた。……あいつが大阪に異動になったこと」
「ああ。俺も、今日聞いたばかりだ」
互いに言葉を探すような沈黙。
やがて、蓮が深く息を吸い込んだ。
「……俺、澄人くんが好きなんだ。どうしようもないくらい、好きで好きで……おかしくなる」
真正面からの告白に、胸が大きく揺れる。
「本当は、このチャンスに樹から奪ってやりたいって思った。でも……それはフェアじゃない」
そこで言葉が途切れ、蓮は顔を歪めて泣き出した。
強くてクールな仮面が崩れて、子どものように。
「っ、好きだよ、澄人くん……ほんとに好きだ」
抑えきれない嗚咽に胸が締めつけられる。
気づけば俺は、震える蓮の肩を抱き寄せていた。
「……泣くな。お前が泣いたら、俺までどうしていいかわかんなくなる」
それでも蓮は、俺の胸元を掴んで離さなかった。
暗い夜気の中、熱い涙だけがやけに鮮明で――俺はただ、その背中を抱きしめ続けた。
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