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風散

 その違いにいち早く怖れる。けれどもたちまちにその存在に慣れ、順応し、埋ずもれてしまうのがひとのこころと嗅覚だ。  どこまでも一つになれない。  自分とは全く別の個体の筈なのに、ひととふれあい、愛し、そのひとの存在を乞い願ってしまうことは、そのひとの放つ分泌物さえも自身のそれと寸分違わぬものと錯覚してしまうほどに、 ひとは、自分とは確かに違う誰かを、かなしく重ねあわせてしまえることが出来る。  春に出会った朔と透は、再び花弁を膨らませ綻んだ次の桜を、今度はふたり、幸せな心地で見上げた。  その先の盛夏も、そして幾つもの移ろいゆく景色、踏みしめる地の感触や気温の乱高下さえも愉しむように季節を巡る。互いの手の温もりを、当たり前にポケットに忍ばせながら。  元々、交わる要素の少ないふたりだった。  明るい陽射しのなか、ひとと触れ合い、助け、護り、誰かのために身体を動かすことに喜びを感じ、自然な笑顔を輝かせていた朔。  一方の透は、ひとのいる社会に足を立てているのがどうも苦手で、ひとり静かに、図書館や自室で昔の文学作品へ眼鏡越しに没頭し研究するのが好きだった。  恋人と別れた傷心の通学途中、体調不良に陥った透の腕を掬い上げたのが朔だった。  交わりを持ち得なかった筈の、ふたりの糸。  だのに見上げた時の、苦しい眩しさを覚えてしまうほどの温かさ。そして見下ろした時の、陰りのなかの、けれど掬いたい儚い瞳の煌めきが忘れられなかった。  互いを確かめ、補足しあうように重なりはじめたふたつの輪郭。  何も与えることに喜びを感じる朔ばかりが、透を補っていた訳じゃない。  ひとの傷みや暗闇を理解する透が、朔の知らずに伏せがちでいたそれを、優しく汲んで癒すことが出来ていたのだから。  ともに深みに落ちて、繋がることへの葛藤や惑いや懊悩、情欲を果てや優しい諦めのなかに溶かせて、 薄暗がりのなかの、暁の囁きや互いの眼差しや鼓動に心底安堵して、——幾つも重ね越えてきた夜。  深く繋がっていく身体ばかりでなく、ふたりはその人生に互いを浮かべ、添わすことをもうごく自然としていた。  互いの家族、友人を交えた関係性も構築し、透が大学院へ進学した後、小さな文学館への就職内定を待つまでもなく、ふたりの家を持つことを朔が打ち明けると、透の頬は喜びの涙のきらめきとともに震えた。  家事も不器用なものの一途な透の支えを受け、朔も着実に職務の昇任を重ね、互いの性質、取り巻く背景をも尊重しあえる関係は、朔のこれからの人生に透がいる前提を疑わせなかった。  だが、互いの温もり、匂いを共有するほど重なりあえたふたりは、社会と繋がる側面を帯び、拡がりを見せ始めるにつれて、その糸に綻びの足音が忍ばされていく。  別れを切り出したのは、脆さに()ち得なかった透の方だった。 「もう、これ以上朔さんのひと並みを奪いたくない」  そしていまだ自身と違わぬほど朔を求め、その先にある喪失に耐え得る自信も自尊も、到底見つけられそうになかったから。  ひと並み? ひと並みって、何だよ。  俺とお前がこうしているのは、ひと並みとは違うのか?  温厚を素地とする朔が、初めて本気で透に怒りを覚えた。それでも、透の涙の泉は枯れなかった。  怖い。ただそう繰り返し、震えた。  桜を見るのが怖いと。ふたりが出会った時に見つけた桜を、また見上げるのが怖いから。せめて、その前におしまいにして欲しい。  抱きしめた。いつだってそうすれば、幾つもの詰まった粒子を溢れさせ透は自分にしがみついた。  乞い。欲情。嬉しさ。信頼。  ただ、自分だけを求めてくれるという純粋。  だが、その時の透からは、擦りつけられた湿った頬と、もう絶望の香りしか昇らなかった。 「有難う。 きっと、俺はずっと忘れられないよ」  それなのに、だのに。——だから、腕を緩めた。  自分には、その力がもうないのかと。絶望しか与えられない俺は、もう彼を解放するしかないのなら、と。  透の残り香を、ずっと憶えていると自負していたのに、彼の温もりとともに手離した刹那、それは春の夜気の冷寂のなかに、瞬く間に融けた。

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