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おぼろの記憶に
ときに強烈に、ときに自分の肌のように。
誰かの匂いを添わせていた筈の身体は、ともすれば残酷とも想える誠実さで、大切だった筈の匂いを無情の作用で上書いていく。
別離を選んだふたりは、その後互いの姿を見ることはなかった。
歳も一回り隔ち、置かれた環境の接点も性格の重なりも希薄だった。そして同一であるのに、本来交わることを認識されない、性。
月日を経て、誰に向けても真摯でしかいられない朔は、生涯を意識する女性に出会った。
透も、それまでも、誰へもに見せた誠実はいつも真実だったが、誠実は、上書きを施された。
一生の導きを誓い、幸運にも、その女 との間にかけがえのない美しい祝福を授かった。
重なりは繰り返される。朔の世界は、日々新たな、温かでしあわせな世界の匂いで満たされていく。
黒い髪の艶やかな滑り。古い文学の背表紙。鬱蒼とした翠に覆われた、雅な和造。掌についた畳の感触。
けれどそれらの影がちらつく時、大切な家族たちのなかで、彼はその胸でそっと、それらの影を伏せた。
時の流れは新しい可能性を差し出し続け、かつて大切だったものは、空気のように重ねづき、風花のように散らされていく。
心電図のノイズは明瞭な筈なのに、どこか被膜を帯びているようだ。
風化は、意識にも及ぶ。
鈍滞な感覚。動作を消し止められ、ただ管に繋がれシーツのなかで伸びきったままの弛緩した手脚。
このところ、昼も、夜も、時間の感覚が曖昧になってきた。
誰かの影が行き過ぎても、それは看護師や、医師であろうし、そもそも訪れてくるひとの気配が絶えて久しい。
時が過ぎるにつれ、人生の後半はあらゆる局面のすえに、緩やかな間延びをもたらしたようだ。
孫の顔を見るという夢は叶うことなく、娘は、不慮の事故に連れていかれた。
妻は、最期まで自分を愛情の煌めきで包み続けてくれたが、病魔には勝てずに、先に発った。
そして、あれだけ動くということに活力を見出し、生命の根源を疑うことのなかったこの身体は、やがて機能を低下させ、自らの力であらゆる生体活動の持続を保てなくなった。
麻痺した意識が明瞭を浮上させることがある。奇妙な感覚だった。
何度もひとを助け、救い、走り、自分たちはその宣告が下されるその最後 まで、決して諦めない。
だが、もう零れていくのを止められない、呑まれていくばかりの命を何度も目にしてきた。
だから、判る。
これは屍臭だ。
他ならぬ、俺から漂う。
最期は、たったひとり、誰にも顧みられず、無彩の病室の茫漠に呑まれていくなか、迎えることになるとは思ってもいなかった。
そうか、これが。 これが、——か。
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