6 / 7

おぼろの記憶に

 ときに強烈に、ときに自分の肌のように。  誰かの匂いを添わせていた筈の身体は、ともすれば残酷とも想える誠実さで、大切だった筈の匂いを無情の作用で上書いていく。  別離を選んだふたりは、その後互いの姿を見ることはなかった。  歳も一回り隔ち、置かれた環境の接点も性格の重なりも希薄だった。そして同一であるのに、本来交わることを認識されない、性。  月日を経て、誰に向けても真摯でしかいられない朔は、生涯を意識する女性に出会った。  透も、それまでも、誰へもに見せた誠実はいつも真実だったが、誠実は、上書きを施された。  一生の導きを誓い、幸運にも、その(ひと)との間にかけがえのない美しい祝福を授かった。  重なりは繰り返される。朔の世界は、日々新たな、温かでしあわせな世界の匂いで満たされていく。  黒い髪の艶やかな滑り。古い文学の背表紙。鬱蒼とした翠に覆われた、雅な和造。掌についた畳の感触。  けれどそれらの影がちらつく時、大切な家族たちのなかで、彼はその胸でそっと、それらの影を伏せた。  時の流れは新しい可能性を差し出し続け、かつて大切だったものは、空気のように重ねづき、風花のように散らされていく。  心電図のノイズは明瞭な筈なのに、どこか被膜を帯びているようだ。  風化は、意識にも及ぶ。  鈍滞な感覚。動作を消し止められ、ただ管に繋がれシーツのなかで伸びきったままの弛緩した手脚。  このところ、昼も、夜も、時間の感覚が曖昧になってきた。  誰かの影が行き過ぎても、それは看護師や、医師であろうし、そもそも訪れてくるひとの気配が絶えて久しい。  時が過ぎるにつれ、人生の後半はあらゆる局面のすえに、緩やかな間延びをもたらしたようだ。  孫の顔を見るという夢は叶うことなく、娘は、不慮の事故に連れていかれた。  妻は、最期まで自分を愛情の煌めきで包み続けてくれたが、病魔には勝てずに、先に発った。  そして、あれだけ動くということに活力を見出し、生命の根源を疑うことのなかったこの身体は、やがて機能を低下させ、自らの力であらゆる生体活動の持続を保てなくなった。  麻痺した意識が明瞭を浮上させることがある。奇妙な感覚だった。  何度もひとを助け、救い、走り、自分たちはその宣告が下されるその最後(とき)まで、決して諦めない。  だが、もう零れていくのを止められない、呑まれていくばかりの命を何度も目にしてきた。  だから、判る。  これは屍臭だ。  他ならぬ、俺から漂う。  最期は、たったひとり、誰にも顧みられず、無彩の病室の茫漠に呑まれていくなか、迎えることになるとは思ってもいなかった。  そうか、これが。 これが、——か。

ともだちにシェアしよう!