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華燭の施し
牧草を刈り込み首筋の汗を拭っていると、昼の翠野に天人の薄衣が、桃源の煌めきのような光を反射させ駆けてきた。
「牽牛、牽牛……! 聞いて、ついに僕、星の声が聴こえたんだ……! 地上を潤す水源の音も、聞くことが出来たんだ……!」
「そうか、おめでとう……! 凄いなあ……! これでやっと、見上げていた兄様姉様たちとも、肩を並べることが出来るんだな……!」
「うん……! まだそこまではいかないけど、もう少し鍛錬を積めば、いづれ『鍵』を持つことが出来るだろうって、曽祖父 様が……!」
「何と、星翁様にもお認めを頂けたとは……! もう天人として一人前だな!」
「うん……っ。……これも牽牛が、牽牛の言葉が、僕のこころを押してくれたから。地のことを想うことを教えてくれた、牽牛のおかげで……っ」
俯けた頰を染めて呟く翠流からは、胸のうちを明かすかのようなときめきが零れていたが、純朴な牽牛にはそれが伝わっていなかった。
「本当に、良かったなあ……。……実は翠流。私もお前に報告したいことがあって……、」
「え……?」
だからこれからも、という言葉を呑みこんだ推理の瞳に、自分ではない方向を向く、これまで見たこともないような照れと高揚で耳の下を掻く、牽牛の横顔が映った。
「天帝の娘 であるあの織女 が、何と私を見染めてくれたというんだ……。
信じられない、私のような貧しい牛飼いのもとに、織女が降嫁してくれるなど……!」
「…………え」
天帝の娘である織女は、その美しさが星の光彩のように衣を重ねても通すほどで、かねてから地上の男たちの憧憬を一身に享けていた。
だが、天上人と血を分ける翠流の耳には、別の囁きも聞いた覚えがあった。
確かに織姫は誰よりも美しく誰よりも愛される女 である。それは、つまり——。
燭台に昼間のような祝福の灯が燈され、牽牛の浅黒の肌の男振りをより一層浮かびあがらせる。
そこに映るのは晴れがましさに頰を紅潮させ、幸福の頂きに浸って微笑む、実直な若き新郎の姿だった。
傍らの伴侶は、純潔の頭蓋の下で目を伏せ、それでもその唇の紅から優婉が匂いたち、まさに天上から降った妃 のそれであった。
華燭に陶酔する群々の背で、翠流の瞳に、それは灯籠のまぼろしのように流れていた。
衣通 の姫は、星渡りの姫。
その身に蓄えた星蜜のごとき色香を惜しみなく振り撒き、己の隙間を埋める男の質量、雄々しさに惹かれ、星を渡るように流れ過ぎてゆく。
触れた男がどんなに、純朴で誠実で、真実である最も尊いそのこころを持っていたとしても、そこに、振り返ることはない。
誓 いを交わす夜を前にしながら、白い小蛇のような指が薄幕を隠れ蓑に牽牛の腕を這うのを、胸の奥を灼く閃光が走ったかのように、翠流は見逃さなかった。
頭蓋の絹越しに視線を感づいたのか、ふと、織女の芙蓉の眼差しが、翠流の、溢れずとも汲んだような泉のような、揺れる瞳と交わった。
芙蓉の瞳が蝶羽の瞬きのように、優しく緩む。
だが、それは天上人から地に墜ちたものに授ける、情のない憐憫と施しによるものだった。
首から下げ、襟のうちに密かに携えた、厳かで冷えた『鍵』の感触をぎゅうと確かめる。
星の光だけを掠めとるようなひとには、後には何も残らないんだよ。
いつか、失ったものはもう取り戻せなくて、
地に縋りくずおれてゆくのは、 貴女 の方だよ。織女……。
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