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君に捧げる千の花束 65

「こんなもん、近寄ることもできねぇじゃねぇか」  喜蝶は物陰に隠れたまま背を低くしてビルから駆け降りていく。  正臣がここまで追いかけてくる確率は低いだろうが、少なくとも真正面からやり合って制圧できる算段が、喜蝶にはつけられなかった。  そんな状態で顔を合わせるなんて無理な話だった。  喜蝶はビルの外階段を駆けながら、付け焼き刃で格闘技を学んだところで意味がないだろうと、ぶつぶつと呟く。  自分の腕力とテクニックでできるのは、虚をついて武器で殴りかかる……これが精一杯だ。 「そういえば……六華のやつはなんか格闘技かなんか習ってそうだったけど……」  自分よりも遥かに小さな体で自分を投げ飛ばした友人のことを思い出し……けれど、連絡先は消してしまっているし、自分の噂だって知っているだろう。教えを乞えるような相手ではない、と喜蝶は苦笑する。  学生時代は一人でも薫がいればそれでよかったし、人は周りに集まってチヤホヤしてくれた。  けれど、社会に出た途端、そんな奇跡は起こらなくなり、むしろ喜蝶の経歴を知ると白い目で見られて距離ができておしまいだった。  薫を挟んでツンケンしていたあの時に、もう少し優しくして教えてもらっておけばよかった と、喜蝶はスピードを緩めないままにビルの間を走っていった。  薫は、花瓶に生けられた花を見て幸せそうに笑っている。  けれど頰はこけ、肩の骨が服の上からでもわかるほどだった。それでも色とりどりの花を瞳に映して笑っている姿は、学生の頃と変わりない。  遠くから撮られたらしい病室の写真では、隣の男との話の内容まではわからないけれど……それでも笑顔だ。  笑顔だけれど、喜蝶にはそれが周りを心配させまいと浮かべた笑みだとわかった。 「薫は、自分のことで周りに心配駆けそうになると完璧な笑顔になるんだ」 「?」 「薫の普段の笑顔はもうちょっと……抜けてる感じがあって、こんな笑い方じゃない」  喜蝶は奏朝にそう説明してから、四角く切り抜かれた薫に向けてそっと指を伸ばす。  加害者と被害者である以上、会うことは許されないだろう……いや、会うことなんてあってはならないのだと、喜蝶はしっかりと理解していた。  だから、もう薫には会うことはないだろうし、薫の周りの人間も強姦魔を近づけようとは思わないだろうから、こうして写真を見ることも叶わないと思っていた。 「…………彼のことを、好きだった?」  奏朝はいつも硬質で人形のような印象を受ける喜蝶の瞳に薄く水の膜が張っているのを見逃さなかった。  

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