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君に捧げる千の花束 81

 静寂。  ただ自分の荒い呼吸と、ドクンドクンと耳の奥で鳴り響く自身の激しい鼓動の音だけが世界を支配していた。  ピクリとも動かない泥と血にまみれた正臣の身体。  先ほどまで獣のように暴れていた男は、硬く無機質なコンクリの上で今はただの「物」のように硬質さを放っている。 「……殺したのか?」  自分の手が犯した感触が脳に焼き付いて離れない。喜蝶の顔から血の気が引き、額から流れる血が目に入ってもまばたき一つできなかった。  視界の端で、月明かりに照らされた奏朝が、それを眺めながら無機質な表情で右手をスッと上げた。    その合図を待っていたかのように、闇の中から足音が響く。  黒いスーツを着た数人の男たちが影のように駆け寄り、喜蝶を押しのけるようにして正臣を取り囲んだ。 「心音確認!」 「蘇生開始、AED準備!」  矢継ぎ早に飛び交う事務的な指示。  手慣れた様子で救命措置を行うその集団を、喜蝶は地面に尻餅をついたまま呆然と眺めていた。  そういう計画だったとはいえ、奏朝はいざという時のために救命のための人員を用意していたのだと、嵐のような心中の中でぼんやりと思う。 「…………っ」  ふと、自分の身体に目を落とすと、指先が、膝が、自分のものではないように激しく震えている。 「あ……ぁ……」  正臣への殺意、薫への悔恨、そして「薫に必要な人間を殺してしまったかもしれない」という極限の恐怖。それらが綯い交ぜになり、喜蝶の喉からは言葉にならない嗚咽が漏れた。 「アゲハさん」    再び、静かに名前を呼ばれた。  奏朝が喜蝶の傍らに膝をつき、汚れ一つないハンカチで喜蝶の額の血を拭う。白いハンカチが赤く汚れていくことに奏朝は頓着しなかったし、その手つきは恐ろしいほどに穏やかだ。   「…………オレ……やらかした、かも、しれません」 「安心してください。あれでは死にません。アルファですし……彼には、まだ『役割』が残っていますから」  奏朝の淡々とした言葉と同時に正臣の肺が大きく音を立て、激しい咳き込みと共に息を吹き返した。  意識が戻りきらないままに正臣は男たちによって担ぎ上げられ、近くに停められていた黒いワンボックスカーの奥へと運び込まれていく。  その一連の動きは、まるで最初から決まっていた舞台のように滑らかだった。 「……君も、手当てを。あまりに酷い有様だよ」  奏朝の視線が、髪を引き抜かれた喜蝶の頭皮と、肉を抉られた腕に向けられる。  喜蝶は遠ざかっていく車のエンジン音を聞きながら、自分が正臣という悪夢からようやく解放されたのか、それとももっと深い闇の入り口に立ったのか、判断がつかないまま奏朝の手に支えられ、立ち上がった。

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