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君に捧げる千の花束 82
「……奏朝さん、お願いです」
喜蝶は奏朝の腕を掴み、自身の傷も顧みず必死の形相で縋り付いた。
指先の震えが奏朝の高級な上着の袖に伝わる。
「正臣のフェロモンを……今すぐ『Omega Dynamics-Inhibitor BirthLife Sciences Labs』へ届けてください。あそこに解析チームが待機しています。それがあれば、薫を救える……っ!」
取り乱し、声を枯らして懇願する喜蝶。普段の冷ややかで世間を斜に見るような面影はどこにもない。ただ一人の命を繋ぎ止めるためだけに、誇りも余裕も捨て去った無様な姿だった。
奏朝は自分に縋る喜蝶を、まるで足元に落ちた燃え滓を見るような冷めた目で見下ろした。
その瞳には同情も共感もなく、ただ狂気的な献身に対するひどく静かな拒絶の色が滲んでいる。
「……承知しました。そう言いう契約ですから、手配しましょう」
感情を排した奏朝の言葉が、夜の冷気に溶けていった。
塵一つ落ちていない、美しい白い廊下が続く病棟の一室。
部屋番号の下に名前の代わりにコスモスのシールが貼られた病室では、規則的な電子音が静まり返った空間に虚しく響き続けていた。
心音モニターに映し出される波形は、危ういほどに細く、頼りない。
ベッドに横たわる薫は以前の面影を失うほどに色を失って痩せこけていた。
幾本もの管が痛々しくその身体に繋がり、点滴の滴る音が死へのカウントダウンのように刻まれている。本来ならαに頸を噛まれたとしても番にならないβだというのに……
消えない歯形は番を繋がりだけを強要して、薫を責め立て続けている。
その様子は、内側から枯れ果てるようにして生命の輝きを失っていた。
「失礼します、お花のサービスが届きましたよ。今日も綺麗ですよ、こちら、花瓶に活けますね」
看護師が明るい声を出しながら、瑞々しい花をサイドテーブルに飾る。無機質な薬品の臭いに混じって、わずかな花の香りが漂う。
薫は瞼を重く閉ざしたままだったが、わずかにその香りに花を鳴らした。
華やかな花の間から感じる、少しビターなチョコレートの香り。
「…………き ちょ ?」
懐かしい、喜蝶が纏っていたフェロモンの香りだ と、くたびれ果てた薫の心に波紋が広がる。
胸を締め付ける後悔に唇を噛み締めた時、廊下を走ってくる足音と共に須玖里が息を切らせて飛び込んできた。
「薫! 薫、聞いてくれ!」
須玖里は花をいけている看護師が驚くのも構わず、薫の細くなった手をそっと握りしめて弾んだ声で告げる。
その瞳には、絶望の淵で見つけた唯一の希望が宿っていた。
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