268 / 293
Aria of Echoes 26
目の前のキャンバスの中にいる汐音は微笑みそうな口元をしているけれど、微笑まない。
幾ら精巧に写せたとしても、これは汐音ではないのだと……凪は急転直下の勢いで落ち込む。
あの後、凪が本気で怒ったためになんとなく空気が悪くなってしまい……朝目覚めると汐音はもう部屋にはいなかった。
いつもは朝食を食べてから家に帰っていくはずなのに、汐音も顔を合わせづらかったらしい。
そこから「忙しい」とメッセージが来て、それっきり一週間は会っていなかった。
どんなに忙しくても時間を作り、たとえ深夜だとしても一瞬のキスのために会ってた日々がなんだったんだと言いたくなるほど、音信不通だった。
「……はぁ」
重くなるため息を抱え込み、今日はこれ以上は筆が動かないと確信して立ち上がる。
夏休みが来れば好きなだけ絵が描けると思っていただけに、遅々として進まない筆の動きに歯痒い思いを抱えるしかない。
「……と。あれは…………」
階段の踊り場に出て、冷房で冷えた体を温めていた時、住江教授と共に歩いている人影に気づく。
いや、気づかないとおかしかった。
柔らかな亜麻色に近い髪を首のそばで団子に結い、ほっそりとした体にオーバーサイズの薄手のカーディガンを羽織ったそれは、紛れもなく汐音だった。
汐音は住江先生と共に中央の講堂へと向かっているようで、楽しくおしゃべりをして…………けれど、一瞬だけ視線が凪に向いた。
「――――っ!」
目線で射殺せるわけなんてないのに、凪はその時確かに胸を貫かれた感触を感じてよろめいてしまう。
ど っと跳ね上がった心拍は、夏の暑さのせいではなく、一瞬こちらに向けられた金色の瞳のせいだった。
「 っ、四年生の特別授業って今日か?」
急いで駆け下りながら、掲示板をチラリと見て確認する。
特別講義の枠とそこに書かれた桜庭の文字を横目に見ながら中央の講堂へと駆け出す。四年生のための講義であったが、忍び込むこと自体はできる。
凪は他の生徒に紛れて講堂に入ると、すり鉢状に配置されている机の一番前に陣取った。
教壇から、わずかの距離、真正面、逃がさない。
その思いを抱えて席でじっとしていると、住江先生と汐音が談笑しながら入ってくる。
凪の真正面の教壇に立って……そこで汐音はポカンとした表情をした。まさか凪がいるとは……しかも真正面に陣取るとは思ってなかったらしい。
一瞬の動揺を視線を逸らすことで回避した汐音は、マイクの調子を確かめるように先端をトントンと叩いた。
「あ、あー……マイクの音、小さくはないですか? 後ろの方、聞こえてますか? もしよければ前の方、たくさん空いていますので席を移ってくださってもいいですよ」
ともだちにシェアしよう!

