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Aria of Echoes 35

 凪は先祖から受け継いだ会社に未練なんかはなかったし、父の跡目は弟が継げばいいと思っている。  すぐに絵で食べていくことは難しいだろうことは理解している。けれどそれを目指して生きていく算段は立ててあったから、罷り間違っても父の会社を継ごうなんて思いは湧かなかった。  卒業までにもう少し人脈を増やして…… 「ただ、予定外のことがなぁ……」  卒業したらそのまま絵の勉強のために、国内外の好きなところを巡るつもりだったが、汐音のことを考えるとそうはいかない。  頭の中で今日の家庭教師分のバイト代と今まで貯金してあった分を計算して……それからもうすぐ完成する四年次の学科内展示用の絵を思い出す。 「よしっ大丈夫! ……オレの人生よりも、汐音だ」  自分よりも年上なのに放って置けなくて、世話を焼いてやらなければと思わせるのに、時折こちらを翻弄する、そんな汐音を一人残して旅に出るなんて考えられなかった。  人生においても……  初めて出会った瞬間、名画を目の当たりにしたかのような衝撃を感じたことを、凪は繰り返し思い出しては鼓動が早くなるのを感じていた。  手放したら、きっと後悔する。……いや、手放してはいけないと感じている。   「……ただいま」  念のための声を顰めながら扉を開けると、電気はついていたがしんと静まり返っていて……ベッドの方からくぅくぅと小さく愛らしい寝息が響く。  凪が出かける前とはベッドシーツは替えられていたが、汚れ物はすべて丸められて汐音の抱き枕になっている。 「汚れものだってのに」  自分と汐音の出したもので汚れたそれをそっと腕から引き抜く。  それでも汐音はぐっすりで起きる気配を見せなかった。 「よく寝るな」  まだ二ヶ月にも満たない付き合いだったが、それでも汐音はよく眠る。本人に言わせると、凪が疲れさせるからだ と不服そうに否定するのだけれど……  抱えているものを抜き取っても眠り続ける汐音の左手をそっと握る。  この手があの絵本を描いたのだと感慨深く思い、敬意を込めてそっと薬指をくすぐった。  筆を置いて後ろに下がって眺める。 「あの美しさを、オレはいつになったら描けるようになるのかな」  目の前の絵の出来が悪いわけではない。  住江先生は進捗を見ながらニコニコとしているし、凪自身としても良い出来だと自負できる絵になった。  けれど、  けれど、  だからと言って、汐音の美しさをそのまま注ぎ込めたのか? と言う自問自答には悔しさに歯を軋ませなくてはならない。 「本物はもっと、綺麗だ」  はっきりと言い切る凪の背中から、「ぶっ」と吹き出す声がかかる。   

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