307 / 334

Aria of Echoes 65

 凪はわずかな母親の記憶を引っ張り出し、そんな姿を今まで見たことがあったかと後ろ姿を見送りながら考える。父親が亡くなったその日ですら背筋を伸ばして立っていただけに、凪は鼻白んで目を細めた。  自分の死と遺言書の有無を天秤にかけた姿を、父親はどう思うだろうか? と。 「か……母さん?」  青い顔をして怯む弟に、資産が資産ですから……と弁護士は慰めるように告げる。 「取り乱していらっしゃるようなので、後を追いましょうか」  提案のように柔らかな口調でいながら、弁護士の言葉は決定事項のようだった。そんな気は無かったけれど、凪は弟と伺うように視線を交わし……母親が駆け上がっていった階段へと進む。  記憶にあるよりも薄暗く感じる廊下の先、半開きになった飴色のドアの隙間からものを薙ぎ払うようなけたたましい音が響き、凪の足をすくませる。 「奥様、失礼します」 「ない……ないの……っ、あなたも探して!」  甲高い声の後に弁護士の宥めようとする声が響く中、凪はそっと中を覗く。物心ついた時には住んでいた家だったが、書斎に入ったことは結局一度もなかったため、そこだけぽっかりと見知らぬ世界にきたように見慣れない。  庭から窓を見上げたことはあったが、部屋の中はこうなっていたのか と、壁一面の本棚や飴色のデスクを眺め……床に散らばる書類に目を落とした。  母が散らかしたのだろうそれらの内容に興味はなく、凪は踏まないように隅へと避けた。 「あるとしたらここなんです! 絶対にあります! 見つけてください!」 「奥様、私は立ち会いは致しますが  」 「早く見つけて!」  ヒステリックに叫ぶ母とそれを宥める弁護士、そして母親の後ろでおろおろとどうしていいのかわからず途方に暮れている弟と……  凪は手元にポップコーンとジュースでもあれば完璧だろうにと、壁の本の背表紙を眺める。  どれも芸術を専攻している凪にはピンとこない題名ばかりで、つまらないものばかりだった。 「あれ? これ……」  ——Étienne Valois『The Silent Canvas』—— 「キャンバス……ヴァロワの美術論だ……」  「美術」ともう一度呟いて凪は顔をしかめた。前期講義の中で取り上げられて読まされたものの……結局何がなんだかわからないまま、内容がなんであれ出せば単位がもらえると言われて、金魚の飼い方をレポートに書いて提出した苦い思い出が蘇る。  けれどそんなことよりも、父親の書斎にこれがあることが問題だった。  火に炙られた自分の作品たちの放つ熱を思い出し、凪は冷えた指先でぎゅっと自身を抱きしめる。  

ともだちにシェアしよう!