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Aria of Echoes 68
「なに……」
爪の間に血を溜めた手がなんの躊躇もなく振り下ろされ、凪の頬を張る。
「っ!」
体型にも気を遣っているためにスリムな体から出るとは思えない力に、抵抗らしい抵抗もできないまま、二度三度と殴られ続けた。
弁護士が間になんとか入り込み、弟と二人がかりで引き剥がしたけれど、それも振り切られてしまいそうな勢いだった。
「泥棒っ! このっ盗人が!」
凪は打たれた振動で揺れる脳みそで、この人はいつも自分を犯罪者として扱うのだな と、ぼんやりと思う。頭の上を飛び交う罵詈雑言とそれを諌めようとする声と……
この家の跡取りとして育てられていた弟が怯えて部屋の端で身をすくませているのを見ながら、ソファーを支えに立ち上がる。
「…………それが遺言書なんですね?」
「あ……はい」
頬を引っ掻かれた弁護士は痛みに顔をしかめながら頷く。
床に落ちた遺言書は引きちぎられるように封が開けられており、中身は弁護士の後ろに散らばっていた。
「このままでは遺産を受け取れなくなりますよ!」
弁護士の腹から出された声に母は一瞬怯むと、その後は萎む風船のようだった。崩れ落ちた体はうずくまったまま動かない。
「…………開封を止められず、申し訳ありません」
「あ……いえ」
あの母親の勢いを思うと、遺言書が形をとどめているだけでも大変だっただろうと凪は頷き、床に落ちた便箋を拾い上げる。
父の字は堅苦しく、重苦しく、読む人間をはねつけるかのような頑固さが窺い知れる雰囲気だった。
その分、達筆でもなければ悪筆でもなく、読みやすい文面でもあった。
「…………これは、有効ですか?」
小難しいことはわからなかったが、その紙の上の文字は凪に全てを継がせる旨がしたためられていた。
「こういうのって書き方があって、間違えると認められないんですよね?」
尋ねながら弁護士に遺言書を手渡すと、床の上でうずくまっていた母の体がガタガタと震え始める。
まるでそれは凪に向けて希う土下座のようにも見えた。
「まず……きちんと確認してみないことには……」
そういうと弁護士は凪から受け取った紙を封筒に戻す。
「……本来これは開封される前に家庭裁判所に提出して検認を申し立てるべきものなのです。その後に、家庭裁判所で相続人立会いのもと開封や確認するべきものです。開封したからといって遺言が無効になるわけではありませんが……この後は速やかに家庭裁判所へ提出する必要があります」
母から引き剥がされたから、弁護士は平静を取り戻した口調で毅然を告げる。
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